第32話
どこまでも続く青空を見上げながら、小町は小さく息を吐いた。
春の風が頬を撫でる。
俊哉の母親。
写真の中の優しそうな女性。
気にならないはずがなかった。
「そうなんだ……」
小町は空から視線を下ろした。
そして恐る恐る俊哉を見る。
「塩江くんのお母さんって……どんな人だったの?」
何気ない質問のつもりだった。
けれど俊哉の表情は一瞬で曇った。
小町の胸が嫌な音を立てる。
俊哉は写真を見つめながら静かに言った。
「わからないんだ」
その声は驚くほど穏やかだった。
「母さんは俺を産んですぐに亡くなったから」
小町は息を呑む。
俊哉は少し笑った。
けれどその笑顔は寂しかった。
「だからさ」
写真を指先でなぞる。
「俺もこの写真の母さんしか知らないんだ」
風が吹く。
屋上に沈黙が落ちた。
小町の胸が痛む。
『私……』
聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて頭を下げる。
「そんなこと知らなくて……」
俊哉は首を横に振った。
「謝らなくていいよ」
そして少しだけ微笑む。
「春野さんのおかげで写真も戻ってきたし」
写真を胸元へしまう。
「むしろお礼を言わなきゃ」
小町はますます申し訳なくなった。
「本当に私、デリカシーないよね……」
「だから気にするなって」
俊哉は苦笑した。
その表情は少しだけいつもの俊哉に戻っていた。
「今は母さんの妹が育ててくれてるし」
「妹さん?」
「うん」
俊哉は頷く。
「俺にとっては母親みたいな人だよ」
そう言ったものの、その目は再び空へ向けられた。
「でも時々思うんだ」
小さな呟きだった。
「本当の母さんって、どんな人だったんだろうなって」
小町は何も言えなかった。
ただ俊哉の横顔を見つめる。
寂しそうなのに。
泣いているわけじゃないのに。
なぜか胸が締め付けられる。
しばらくして俊哉が振り返った。
「そういう春野さんのお母さんは?」
「え?」
突然話を振られ、小町は目を丸くした。
「私のお母さん?」
俊哉は頷く。
小町は少し考えた。
頭に浮かんだのは毎朝の光景だった。
『小町ー! 起きなさい!』
『また寝坊する気!?』
『朝ご飯ぐらい食べて行きなさい!』
毎日のように聞く声。
うるさいくらいのお小言。
心配性で世話焼きで。
少しお節介で。
だけど――
小町はふっと笑った。
「うーん……」
春の空を見上げる。
「すごく口うるさい人かな」
その答えに俊哉は思わず吹き出した。
「なんだそれ」
「本当だもん!」
小町は頬を膨らませる。
そんな小町を見て俊哉は久しぶりに心から笑った。
その笑顔を見た瞬間。
小町の胸は少しだけ高鳴った。
さっきまで悲しそうだった俊哉が笑っている。
それだけで嬉しい。
そんな自分に気付き、小町は慌てて視線を逸らした。
屋上には春の風が静かに吹き続けていた。




