9話 夜明けの一撃
「それでも——僕は、君を忘れない」
言い終えた僕の声が、静寂のなかに溶けていきました。
凪は何も言いません。ただ、目の縁に溜まった涙が行燈の灯りに照らされて、かすかにきらめいています。青白と乳白——二つの光の層が彼女の頬の上で重なり合い、涙の粒を虹色に染めていました。
(ああ、本当に——)
彼女の涙には、虹彩が混ざっています。僕が最初に彼女を見つけたときにはなかった色です。
凪の視線が、僕の足元に落ちました。
その仕草だけで、気づかれていることがわかりました。彼女の目が、ほんの少しだけ見開かれます。床板に落ちるはずの僕の影が——今は、紙よりも薄くなっています。
石臼が脈打っています。以前よりずっと強く。金色の光が、行燈の青白と乳白に重なって、店の隅々まで届いています。心臓の鼓動のようなリズムで。
窓を叩いていた雨音が、いつの間にか弱まっていました。
「夜明けまで、あとどれくらいでしょう」
僕がそう呟くと、凪は窓の外を見ました。濡れた硝子の向こうに、まだ漆黒の空が広がっています。でも東の端が、ほんのわずかだけ浅くなっている——そんな気がしました。
「……もう、すぐ」
声がしました。
僕は思わず、彼女の顔を見ました。
凪は自分の口に手を当てていました。まるで、自分が言葉を発したことに驚いているかのように。
(初めてだ。僕の問いかけに——自分の言葉で返してくれたのは)
胸の奥が熱くなりました。でもそれを言葉にする代わりに、僕は石臼のほうに歩き出しました。
「最後の仕事を、一緒にしていただけますか」
石臼の前に立ちます。
金色の脈動が、僕の存在をなぞるように揺れています。
「凪さん」
手を差し伸べると、彼女はゆっくりと隣に来てくれました。距離は拳ひとつ分。彼女の気配が、まるでかすかな温度のように感じられます。
(僕は——ずっと逃げてきた)
石臼の縁に手を置きます。ひんやりとした石の感触。ここには、凪の痛みが注がれています。誰にも認識されず、誰にも気づかれず、ただそこに「在る」ことすら許されなかった彼女の絶望が。
(でも、注ぎ込むべき痛みは——彼女だけのものじゃない)
僕は胸に手を当てました。
二年前。
夕暮れの石段。振り返らなかったあの日。後悔は、いまだに僕の胸の奥底で、凝固した血のように澱んでいます。
掌に力を込めます。
——キィィィン……
クラクションの音。
(違う、思い出したくない——)
それでも記憶は溢れ出します。焦げた匂い。病室の白。機械の電子音。すべての匂いが世界から消えた瞬間。
(僕が失ったのは、嗅覚だけじゃない)
石段の上で、振り返る勇気を持てなかった自分。何かを確かめることから、ずっと逃げてきた自分を。
「——ッ」
胸が痛みました。
でも、今度は逃げません。
掌を強く押し当てると、そこからかすかな光の粒子が溢れ始めました。凪の無色透明の痛みとは違います。これは——鈍い琥珀色の、かすかに焦げた匂いを伴った粒子です。
(僕自身の、喪失の香り)
粒子はゆっくりと石臼に吸い込まれていきます。凪の無色の痛みに触れた瞬間——
——ドクンッ!
石臼が、かつてないほど強く脈打ちました。
金色の光が一際強く輝き、店全体を照らし出します。壁にかかった古い時計の針が震え、天井から吊るされた薬草の束がかさかさと揺れました。
そして——気づきました。
僕の足元の影が、また一段、薄くなっています。
(それでいい。これが——僕の代償だ)
「……やめて」
手首を掴まれました。
冷たい指。でも、その力は強かった。
凪が僕の手を握っています。彼女の手は震えていましたが、それでも——離しませんでした。
「……やめて、ください」
(初めてだ。彼女が——誰かのために、自分の意志を——)
僕は静かに微笑みました。たぶん、うまく笑えていなかったと思います。でも、それでよかった。
「——大丈夫です。これは、僕がずっと避けてきたことですから」
杵を握ります。
ずしりと腕に食い込む重み。Ch4で握ったときとは、手に伝わる質感がまるで違いました。あのときは空っぽの石臼を叩いていました。杵を振り下ろすたび、石と石がぶつかる鈍い衝撃だけが腕に跳ね返ってくる。何度打っても、手応えは虚ろなままでした。
(でも今は——違う)
石臼の中には、二つの痛みがあります。
凪の「認識されない」という絶望。僕の「喪失」という後悔。
別々の質感を持った痛みが、石臼の底で互いに引き合い、ゆっくりと渦を巻き始めています。違う色の液体が混ざり合うように、境界線が溶けていくのです。
凪はまだ、僕の手を離していませんでした。
彼女の手が、僕の手の甲に重なっています。その冷たさが、かえって僕の心を落ち着かせてくれました。
(一緒に——いてくれるのか)
僕は息を吸い込みました。そして——
——ゴッ。
一回。
杵が石臼の中の痛みを打ちます。衝撃が腕を伝います。でも嫌な感じはありません。叩くべきものが——確かにある。その手応え。空打ちの虚しさとはまったく違う、芯のある感触。
——ゴッ。
二回。
石臼の中の金色の光が、少しだけ温かみを帯び始めます。鈍い金色が、わずかに赤みがかった琥珀色に変わりつつあります。
——ゴッ。
三回。
瞬間、凪の瞳が大きく見開かれました。
「……きれい」
囁くような声。
彼女の瞳に——映っています。琥珀色の光が。初めて「色」を認識した証拠でした。
(彼女のなかで——何かが、生まれている)
(名前をつけられない。でも、確かに)
胸が詰まりました。でも杵を止めるわけにはいきません。僕は再び杵を持ち上げようとして——気づきました。
手が透け始めています。
いや、手だけじゃない。腕も、肩も。石臼の金色の光が、僕の身体を透過しています。足元の影は、もうほとんど消えかかっていました。
それでも——構いません。
窓の外で、雨音が完全に止みました。
硝子越しの空が、漆黒から深い藍色に変わり始めています。
(夜明けが——近い)
行燈の灯りが、三層に分かれて揺れていました。青白と乳白。そして、石臼から立ち昇る金色。三つの光が重なり合い、店のなかは音という音のすべてが吸い取られたような静けさに包まれています。
窓の外の水平線に、橙色の線が走りました。
ほんの糸一本ほどの細さ。でも確かに——夜明けの光です。
(この一打ちで——すべてが決まる)
僕は杵を高く掲げました。腕が震えます。力を入れているからじゃない。これが最後だと——身体がわかっているからです。
そのとき。
凪の手が動きました。
僕の手から離れたかと思った次の瞬間——彼女は杵の柄に、自分の手を重ねてきました。僕の手の上から、しっかりと。
「…………いっしょに」
吐息のような声。でも、確かな意志が込められていました。
(ああ——そうだ)
(君はもう、誰かのために手を伸ばせる存在になったんだ)
「——はい」
僕たちは、一緒に杵を振り下ろしました。
——ゴォン……ッ!
琥珀色の光が、爆発的に広がりました。
それは眩しいというよりも——温かかった。朝陽が地平線から溢れ出すように、店の隅々まで満ちていきます。壁も、棚も、天井も、すべてが琥珀色に包まれて、輪郭がほのかに光っています。
そして——香りが立ち昇りました。
(これは——)
懐かしいのに、初めて嗅ぐ香り。
凪の無色の絶望でもない。僕の焦げた喪失でもない。二つが溶け合って、まったく新しいものに変わった香り。名前をつけられない。比べるものもない。ただ——確かに、ここに存在している。
凪の全身に、色が宿っていきます。
真っ黒だった髪に、深い青の艶が走ります。透き通っていた肌に、血の通った温かみが灯ります。そして——瞳に、琥珀色の光が溶け込んでいきます。
彼女が——「認識される存在」に変わっていく瞬間でした。
行燈の灯りが、ゆっくりと温かな金色ひとつに収束していきます。
窓の外では、雨が完全に上がっていました。
夜明けの光が、濡れた瓦屋根を金色に染め、町の通りを少しずつ照らし始めています。遠くで、鳥の鳴き声がひとつ。
(これが、君の——いや、僕たちの、夜明けだ)
光が収まっていきます。
琥珀色の残光が、朝の気配に溶けて消えました。店の中はしんと静まり返り、さっきまでの熱を帯びた空気が、ゆっくりと常温に戻っていきます。
凪が、自分の手を見つめていました。
掌を返し、指を曲げ、もう一度掌を見ます。そこには確かに——かすかな血色が宿っていました。血の通った、生きた手。
彼女はゆっくりと顔を上げました。その瞳から、涙が一筋こぼれます。でもそれは、Ch8で見たような透明な涙ではありません。はっきりと虹彩を帯びた——「色のある」涙でした。
凪は泣きながら、笑いました。
初めて見る彼女の笑顔でした。
でも、その笑顔を見つめる僕の身体は——
(朝の光で、なんとか輪郭を保っている)
それだけ。
窓から差し込む朝陽がなければ、たぶんもう、姿を認識することすら難しかったかもしれません。足元の影は——あります。でも、紙よりも薄い。力を込めなければ、すぐにでも消えてしまいそうな薄さで。
石臼を見ます。
金色の脈動は静まっていました。でも——表面に走った亀裂は、閉じていません。揺らめいていた金色の輝きはもうありません。ただの古い石臼に戻っています。
(機能が、完全に回復したわけじゃない)
(それに——)
鼻で息を吸ってみます。
何も感じません。
さっきの——あの一瞬、確かに感じた「新しい香り」。懐かしくて、初めて嗅ぐ、名前のない香り。あれはもう、僕には感じられません。
(僕の嗅覚は、戻っていない)
凪が僕を見上げています。その瞳は、もう透明じゃない。
「……ここに、いる」
彼女はそう言いました。短い言葉。でも、その一言がどれだけ重いか——僕にはわかります。
「ええ——僕も、ここにいます」
自分の言葉を聞いて、少し驚きました。
(初めてだ。自分の存在を、こうやって肯定したのは)
失ったものは戻らない。それでも——新しく生まれたものは、確かにここにある。
それで、十分です。
そう思えるようになりました。
窓の外が、少しずつ明るくなっていきます。新しい一日が始まろうとしています。この店も、この町も、そして——彼女も。
(ただ——)
僕はもう一度だけ、鼻で息を吸いました。
やはり、何も感じません。
(あの一瞬感じた香り。あれは、いったい何だったのだろう)




