10話 新しい香り——そして
夜が、白んでいく。
裏庭の石臼が朝日に照らされていた。昨日までは気づかなかった幾筋もの微細な亀裂が、表面を走っている。その亀裂に沿って——金色の燐光が、淡く脈打っていた。
(波の音が、いつもと違う)
右手を見下ろす。昨夜より透けている。掌の向こうの砂利がうっすらと見えた。でも——消えてはいない。影は紙より薄くなったけれど、足元にちゃんと落ちている。
(まだ、ここにいられる——)
「蓮さん」
声がした。
振り返ると、店の入り口に凪が立っていた。
朝日を受けた黒髪が、深い紺碧に染まっている。以前は色そのものを感じさせなかったその髪に、今は確かに光が宿っていた。頬にはほのかな血色。何より——瞳に、灯りがあった。焦点の合わなかった目が、まっすぐに僕を見ている。
そして。
彼女が一歩踏み出したとき、砂利が——鳴った。ちゃんと、人の体重を受けて、石同士が擦れる音を立てた。
(足音だ)
第三章のあの日、彼女が初めて裏庭に現れてから——ずっとなかったもの。
「おはよう、ございます」
凪が言った。その声に、僕は言葉を失った。
——温度がある。
挨拶。ただそれだけの言葉なのに、響きに体温が乗っている。冷たかった声が、朝の空気と同じ温度になっていた。
嬉しいのに——胸が軋む。
「……おはよう」
僕が答えようとしたとき、凪はすでに店内に向かっていた。少しだけ迷うような足取りで、でも確かに自分の意志で。
数分後。
「……熱いです」
盆を両手で持ち、湯呑みを二つ運んでくる凪。湯気の立ち方に乱れがある——急須の扱いに慣れていない証拠だ。茶托の位置も少しずれている。それでも彼女は、こぼさないように一歩一歩、慎重に歩いてくる。
(茶を淹れたのか。凪が)
盆を受け取ろうと手を伸ばす。
「——大丈夫です」
断られた。彼女は僕の正面まで来ると、ゆっくりと膝をつき、盆を石臼の横に置いた。どれも拙い所作だった。それでもすべて、誰かに指示されたものではなく、自分で考えてやったことだとわかる。
「……どうぞ」
差し出された湯呑みを受け取る。口をつけると、少し濃すぎるお茶の味がした。
「あたたかいです」
そう言ったら、凪がわずかに目を伏せた。口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「はい。あたたかいです」
彼女は自分の湯呑みを両手で包み込む。そして、顔を上げた。
「私、ここにいます」
凪が言った。
「——蓮さんが、いいなら」
朝の光の中で、彼女の声は確かに響いた。自分の意志で、自分の言葉を選んで。これまでずっと、問いかけに答えるだけだった凪が——初めて、自分から何かを言った。
返事をしようとした。でも、言葉が出なかった。
(いいに決まってる。でも——それでいいのか? 僕は——)
波音が、いつもより低く響いた。
そのとき。
カツ、カツ——と、石段を上がってくる杖の音が聞こえた。
久我源治は、朝日を背に立っていた。
いつもの作務衣に杖姿。けれど今日は、違った。彼はまず僕と凪を交互に見て、それから小さくうなずいた。何かを確認するように。そして——石臼の前に膝をついた。
皺の深い手を、亀裂にかざす。
金色の燐光が、源治の指先に吸い寄せられるように揺らめいた。
「蓮」
源治が口を開く。顔は石臼に向けたまま。
「お前はこの石臼を、ただの道具だと思っていたな」
「……はい」
「違う」
彼は静かに言った。
「あれは——お前のものだ。最初から」
僕は言葉の意味を理解できずに、源治の横顔を見つめた。
「聞け、蓮」
源治はゆっくりと話し始めた。朝の静けさの中で、その声だけがはっきりと響く。
「この石臼は——選ぶ。持ち主を、だ」
最初の言葉から、僕の知っている石臼の概念が崩れ始めた。
「俺の妻も、選ばれた一人だった。妻は石臼の声を聞き、香りを感じ、それをすり潰すことで人の悩みを和らげた。そして——死んだ」
源治の指が、石臼の縁をなぞる。
「妻の死後、石臼は俺の手を離れた。誰にも使えなくなった。俺はてっきり、この石臼は役目を終えたのだと思っていた。だが——違った」
彼は顔を上げ、僕の目をまっすぐに見た。
「石臼が次に選んだのは、お前だ」
「二年前。お前の嗅覚が突然失われた。あれは偶然じゃない。事故でも、病気でもない。石臼がお前を——呼んだんだ」
(——呼んだ? 僕を?)
「嗅覚喪失は代償じゃない。目覚めの副作用だ。お前は生まれつき、悩みの香りを知覚する資質を持っていた。石臼はそれを見つけて、お前のところへ来た」
源治は息を継いだ。
「そして昨夜——お前は凪をすり潰した。石臼の本来の使い方を超えて、自分の存在そのものをすり潰すような真似をした。その結果、石臼とお前の生命は、もう切り離せなくなった」
「祝福であり、呪いだ」
彼は立ち上がった。
「石臼が砕ければ——お前も消える」
(——僕のもの、じゃない。逆だ。僕が、石臼のものなのか)
「源治さん」
声が掠れた。
「昨夜、僕は——限界を超えた?」
「ああ。超えた。その証拠に、お前の右手はまだ完全には戻っていない」
図星だった。僕は無意識に右手を握りしめた。
「だが——蓮」
源治の声が、少しだけ柔らかくなった。
「お前のその選択は、間違っていない。凪という存在を消さずに留めた。それは石臼の本来の役目を超えた行いだが——誰が悪いと言える?」
「ただ、覚えておけ」
杖の先が、石臼の亀裂の上で止まった。
「次に——もし次に限界を超えたら、お前の存在は本当に消える」
静寂が訪れた。
源治はそれ以上何も言わず、耳を澄ませるように遠くを見つめた。その先には——海があるはずだ。
「……波音が変わったな」
彼はぽつりと言った。
「お前のせいだ」
それだけを残して、源治は杖を突きながら境内へと戻っていった。
夕暮れが、行燈の明かりを連れてきた。
今日の灯火は——一色だけ。金色。店内も、縁側も、裏庭も、すべてが金色に染まっている。まるでこの世界から他の色が抜け落ちてしまったかのようだ。
(おかしい——いつもはもう少し混ざってたのに)
そんなことを考えていると、砂利道を歩いてくる足音がした。
違う。迷いのない——以前とはまったく違う歩調。
現れたのは、黒崎翔太だった。
背筋が伸びている。肩が開いている。第一章で会ったときの、何かに押し潰されそうだった男とは別人だった。町役場の産業振興課に異動したと前に聞いた。仕事が合っているのかもしれない。
けれど——
(なんだ、この匂い)
鉄錆じゃない。
第一章で感じたのは、明確な悩みの形を持った匂いだった。切実で、個人的で、彼一人のものだった。それに比べて、今の黒崎から漂う匂いは——
(冷たい金属。生温かい潮風。古い紙が重なったような——)
定義できない。輪郭がぼやけている。
「神代さん」
黒崎が縁側に上がりながら言った。姿勢は良いのに、目の下にうっすらと隈がある。
「こんばんは。……おめでとうございます、異動」
「ああ、ありがとうございます」
彼は行燈の金色の灯りの中で、しばらく言葉を探していた。
「神代さん。最近——町が、おかしいんです」
「……町が?」
「ええ。みんな、漠然とした不安を抱えてる。理由がわからない不安を。若者は町を出ていきたがる。年寄りは『何かが違う』って言うんですが——誰も、それが何かは説明できない」
黒崎は自分の胸元を軽く叩いた。
「俺もです。夜中に、理由のわからない胸騒ぎで目が覚める。何かに追われてるような——何かを、取り返しのつかないままにしているような。でも、心当たりがないんです」
(——わかる)
僕は感じていた。この匂いは、彼一人のものじゃない。
「黒崎さん」
「はい」
「今のあなたは——個人としての悩みを持っているわけじゃない」
黒崎の目が、わずかに見開かれた。
「町が、悩んでいるんです」
そう言った瞬間、石臼の亀裂が淡く金色に脈打った。
(町の悩みを——どうやって石臼にかければいい? これまで扱ってきたものとは、規模が違いすぎる)
個人の悩みは、手に取れるものだった。名前と形と、それを抱える人間の体温があった。でも今、黒崎から感じるこの匂いは——町という、境界の曖昧な集合体から滲み出ている。
黒崎はしばらく黙っていたが、やがて頭を下げて帰っていった。彼の後ろ姿はやはり第一章とは別人のようで、でも——その背中にまとわりついているのは、誰かの悩みではなく、どこかの悩みだった。
「蓮さん」
黒崎が帰ったあと、僕は石臼の前に座り込んでいた。いつからか隣に、凪がいる。
彼女は何も言わずに、右手を石臼の亀裂にかざした。
——金色の光が、凪の指先に吸い寄せられる。
糸のように細く、静かに、彼女の指先と亀裂の間に光の橋が架かった。
「私、見えます」
凪が言った。
「この石臼の中に——残ってる」
「昨夜、蓮さんが流したもの。蓮さんの痛みと、私の空白」
彼女は顔を上げた。
「混ざって——まだ、ここにいる」
(凪にも「見える」ようになったのか——いや、違う。石臼を通じて、僕と凪の間にできた繋がりだ。石臼が媒介して、彼女もこの香りを感じ取れるようになった——)
「凪」
彼女が僕を見る。
「黒崎さんから感じた匂い——君にもわかる?」
凪はしばらく石臼を見つめてから、首を横に振った。
「まだ、ぼやけてる。でも——」
彼女は立ち上がり、僕の肩に手を置いた。その手には、確かに温度がある。重みがある。人の手の感触があった。
「こうしてると——少しだけ、輪郭が見える」
(凪が媒介することで、個人の悩みではないものも——感じ取れる?)
試しに、肩の上の彼女の手に自分の手を重ねた。同時に、もう一方の手で石臼に触れる。
——瞬間。
さっき黒崎から感じた「町の不安」の香りが、少しだけ輪郭を得た。まだぼやけている。まだ漠然としている。でも——たしかに、どちらの方角から来ているかが、わずかに感じ取れた。
(北東——町の外れのほうか。まだはっきりしないけど——)
不意に、行燈の灯りが揺らいだ。
金色一色だった明かりの中を——細い銀色の線が、一本だけ走った。
それは一瞬のことで、すぐに消えた。でも、僕はたしかに見た。金色の海を泳ぐ一筋の銀。何かの前触れのようにも、何かの痕跡のようにも見えた。
「どうやら、君がここに残ってくれたことには——ちゃんと意味があるみたいだ」
僕が言うと、凪は答えなかった。代わりに、僕の肩に置いた手を——少しだけ強く握った。
(この繋がりは——祝福か、次の代償の種か)
波音が、さらに低く重く響いていた。
夜明け前。
僕は一人で裏庭に立っていた。
凪は店内で眠っている。彼女が眠るのは、昨夜が初めてだった。横になって目を閉じる——そんな当たり前のことが、彼女にとっては初めての経験だったのだと、今朝になって気づいた。
(試してみる)
黒崎から感じた「町の不安」を、僕は石臼の中に——一滴だけ、注いでみた。
一滴。海に対して一滴にも満たない、ごくわずかな量だ。
杵を握る。深呼吸。そして——振り下ろした。
——ぴしり。
空気を裂くような微かな音。石臼の亀裂が、一筋だけ、かすかに広がった。
それと同時に——僕の右手の人差し指が、一瞬、完全に透けた。
骨も、血管も、何もかもが消えて、朝の薄明かりだけが指の形をすり抜けていく。
すぐに戻った。でも——
(町の悩みは——重すぎる)
一滴でこれだ。もし全部を受け止めようとしたら——
源治の言葉が蘇る。
「次に限界を超えたら、お前の存在は本当に消える」
「——蓮さん」
声に振り向く。いつの間にか、凪が隣に立っていた。
彼女は何も言わず、僕の透けた指に、そっと自分の指を重ねた。
その指は——もう、色と温度と輪郭を持っている。ちゃんと人の指だった。
僕は何か言おうとして、やめた。
遠くの海から、夜明け前の風が吹いてきた。
その風に乗って——
(なんだ——今の)
ほのかに、何かの香りを感じた。
黒崎から感じた「町の不安」ではない。第九章で一瞬感じた、未知の香りとも違う。もっと——それらすべてを含んだ、巨大で、遠くから来る何か。まだ名前も形もない、でも確かにそこにある何か。
風が止んだ。香りも消えた。
でも——残った。
僕の奥のどこかに、それが引っかかっている。
「……蓮さん」
凪が口を開いた。その声に、初めて——不安の色が乗っている。
「あれ、何ですか」
彼女も感じ取ったのだ。石臼を通じて、僕と繋がっている彼女にも、あの一瞬の香りが届いたのだろう。
東の空が白み始めている。
でも——いつもの夜明けとは、少しだけ違う色だった。ほんのわずかに、銀色が混ざっている。
「——わからない。でも」
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
皆さんの温かい目があったからこそ、この物語を最後まで届けることができました。
また次の作品で、お会いできることを楽しみにしています。
どうか、その時までお元気で。




