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深夜の悩み回収屋  作者: リンコ


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8話 無色の正体

雨だった。


朝からずっと降りしきる雨。窓を打つ音が、部屋の奥までじわりと染み込んでくる。


僕は傘を差し、アパートを出た。


(凪さん) (あなたは——今、どこにいるんだろう)


昨夜、久我源治から聞いた話が、頭のなかで繰り返されている。迷い神。祀られていたが、忘れられた存在。二年前の気配。あの神社の裏で、僕は確かに彼女とすれ違っていた。


嗅覚はもう、ほとんど戻っていない。今朝もコーヒーを淹れたが、豆の香りは遠く霞んだようにしか感じられなかった。


でも——


「無」の気配だけは、わかる。


匂いじゃない。空気の欠落だ。世界から色が一滴ずつ抜け落ちていくような違和感。目の前の空間に、ぽっかりと穴が空いている——そんな気配。だからこそ、それを目印に辿ることができた。


商店街を抜ける。すれ違う人の影が、香りが、輪郭が——さらにぼやけている。数日前よりはっきりと悪化していた。


立ち止まり、自分の手を見る。


指の輪郭が、一瞬、不確かになった。


雨に溶けるように、境界線が曖昧に滲む。ぎゅっと拳を握る。まだ、感覚はある。骨の硬さも、爪が食い込む痛みも。


(大丈夫だ。まだ——)


僕は足を速めた。


辿り着いたのは、二年前にあの夜すれ違った神社の裏手だった。鳥居をくぐり、参道を抜け、本殿の脇から裏へ回る。誰もいない。雨に濡れた石灯籠と、鬱蒼と茂る杉の木々。


ここしかない——理由のない直感だった。けれど、空気が違う。周囲より一段濃い「無」の気配が、この先からにじみ出ている。


石段があった。


雨に煙る、古い石段。


その先に——


彼女が、立っていた。


傘も差さず、ずぶ濡れで。雨に溶け合うように、白いワンピースの裾が肌に貼りついている。背中を向けていたその人が、僕の気配に気づき、ゆっくりと振り返る。


「凪さん」


呼びかけた。自分から、彼女の名前を。初めて「待つ側」ではなく「探す側」として。


凪の視線が、僕を捉えた。ゆっくりと。目の前の存在が、本当に「そこにいる」ことを確かめるように。彼女の指先が、かすかに動いた。


(待っていた——)


そう言われた気がした。実際には口にしていない。でも、あの微細な指先の動きだけで、伝わってきた。


石段を上がり、凪の隣に立つ。傘を、彼女の頭上に傾けた。


雨音が、傘の布を叩く。二人分の肩には狭いそれを、できるだけ凪の方へ差し出す。


「……どうして、ここが」


凪の声は雨音に紛れて消えそうなほど小さかった。困惑と——ほんの少しの、期待。その二つが混ざった声音。


「探しました」


短く、それだけを返す。


凪は何も言わない。僕もそれ以上は言わない。雨音だけが、石段の上に降り積もる。彼女の輪郭が雨に滲んで、それなのに——雨のなかでだけ、凪という存在がはっきりと感じられる。無色無臭のはずの彼女が、雨に濡れることで、逆説的に存在感を増している。


(不思議な人だ)


ずっとそう思っていた。でも今は、その「不思議」の正体を知りたい。


神社の軒下へ移動した。雨はさらに強まっている。軒から落ちる水の幕が、僕たちを外の世界から隔てているようだった。


並んで腰を下ろす。少しだけ、肩が触れる距離。


「凪さん」


切り出した。


「あなたは、何者なんですか」


長い沈黙が落ちた。雨音だけが、その沈黙を埋める。


凪は膝の上で両手を組んだまま、動かない。指先が白くなっている。傘も差さずにずっと立っていたせいだろう、かすかに震えていた。


「……迷い神」


ようやく口を開いた声は、自分自身に言い聞かせるようだった。


「かつて……祀られていました。でも、忘れられた。誰にも、思い出されなくなった」


僕は黙って聞いている。


「神と、人との……境界に。迷い込んだまま——」


言葉と言葉のあいだに、深い沈黙がある。凪は一言ずつ、自分の存在を確かめるように話した。


「認識……されないことが」


指先を見つめながら、凪は続ける。


「わたしの、本質なんです。誰の記憶にも残らない。誰の目にも、映らない。そういう——存在の、かたち」


息を詰めた。久我源治の言葉と、すべて符合している。


「『無』というのは」


凪はそこで初めて顔を上げた。濡れた前髪の隙間から、僕を見る。


「認識の網から……零れ落ちた者の、存在形態です。だから、わたしの周りからは色も、匂いも、記憶も——消える」


二年前のあの夜。僕が感じた違和感の正体。


「二年前——」


僕が口を開くと、凪は小さくうなずいた。


「あの夜。あなただけが……わたしを、認識した。一瞬だけ」


雨が一段と強くなる。軒下の瓦を打つ音が激しさを増した。


「あなたの力が……わたしという存在に、触れた。そのせいで」


声が、わずかに揺れる。


「あなたは嗅覚を失いました。代わりに——あの力を、手に入れた」


自分の手を見る。傘を握る右手。香りを「嗅ぐ」のではなく「感じる」能力。それが——凪に触れた代償だったのか。


「そして……今も」


凪は言葉を切った。唇を噛みしめるように、うつむく。


「わたしに触れたことで、あなたも——認識の網から。零れ落ち始めている」


思い当たる節がありすぎた。すれ違う人の香りがぼやけること。自分の影が薄くなっていく感覚。手の輪郭が不確かになる瞬間。


「……あなたも。わたしに関わらないほうがいい」


声が震える。


「あなたの——存在まで、奪ってしまう」


そこで初めて、凪はまっすぐに僕の目を見た。濡れた瞳が、何かを必死に訴えている。


「『消えたいんです』と……言いました。あれは」


声がかすれる。


「誰にも認識されないまま、完全に消滅するより——自分の意志で。終わらせたかった。それだけ、です」


雨が、世界の音をすべて奪っていく。


でも——僕の耳には、凪の声だけが届いていた。


沈黙を破ったのは、僕だった。


「——わかりました」


凪がはっと顔を上げる。


「僕は」


言葉を選ぶ。でも、飾る必要はない。今ここで思っていることを、そのまま言えばいい。


「僕は、君を認識しています」


雨音が、一拍遅れて遠のいた気がした。


「名前を知っています。声を聞きました。手に触れました。君が——ここにいることを、僕は知っている」


凪の目が、大きく見開かれる。


「だから」


僕は言った。


「君は、まだ、いる」


凪の表情が、初めて——崩れた。


困惑。震え。目の端に溜まるものが、ゆっくりと膨らんで——そして、溢れた。


泣き声はなかった。ただ静かに、凪の頬を雫が伝っていく。その涙は透明ではなかった。かすかな虹彩を帯びていて、軒下の薄暗がりのなかで淡く揺らめいている。


(認識されたことで、初めて色が生まれる——)


そんな象徴のように。凪の涙だけが、色を持っていた。


雨が変わった。それまでの豪雨が嘘のように、静かな霧雨へと移り変わっていく。


「借りを返しに来たんです」


続けた。


「二年前の——そして、この数週間の」


凪は涙を拭おうともせず、ただ僕を見つめている。


「君が誰にも認識されないなら——僕がします。君の名前も、声も。君がここにいることも。僕は、忘れない」


これは、救世主の台詞じゃない。ただ——約束だ。


凪はしばらくのあいだ、言葉を失っていた。何かを言おうとしては声にならず、唇が震える。それを何度か繰り返した後——


「……あった」


声が、それまでの敬語から少しだけ崩れていた。


「暖かかった。あなたの手——あの夜、触れた時」


自分の手のひらを見つめながら、凪は言った。遠い記憶を手繰るように。


「ずっと、冷たかった。誰も、認識してくれなかったから。触れたことも、なかった。でも——」


涙が、また一粒落ちる。


「あなたの手だけが——」


そこで、言葉が途切れた。


僕は何も言わずに、もう一度、凪に傘を差し出した。まだ雨は止んでいない。でも——さっきよりずっと優しい降り方だった。


凪の涙が止まった後。


何気なく、自分の手を見る。


——影が薄い。


軒下の床に落ちる手の影が、以前よりずっと淡くなっている。輪郭が不確かで、雨に溶けかかっているようだった。


(彼女を認識すればするほど——)


指を折り曲げる。影が揺らめく。


(僕自身が薄れていくのか)


その時。頭の片隅に、もう一つの映像がフラッシュバックした。


誰もいない回収屋。あの石臼。


——ひび割れから、金色の光が強く漏れている。枝分かれした亀裂が、臼の縁まで達していた。何かが——中から溢れ出ようとしている。


映像は、一瞬で消えた。


「……どうか、しましたか」


凪が異変に気づきかけて、顔をのぞき込む。


「なんでもありません」


笑顔を作った。慣れたものだった。心配をかけたくない時、ずっとこうしてきた。


(大丈夫。まだ——大丈夫だ)


雨が、また少しだけ強まり始める。凪の涙が止んだ後に——まるで彼女の感情と呼応するかのように。


凪はまだ、僕の手の異変には気づいていない。


(それでも——)


凪の横顔を見ながら、心のなかでつぶやく。


(それでも——僕は、君を忘れない)

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