7話 ひび割れる日常
雨の音で目が覚めました。
窓の外はまだ薄闇に沈んでいます。昨日までは霧のような細かさだった雨が、今朝ははっきりとした本降りに変わっていました。軒先を叩く粒の一つひとつが、店の奥まで届くほどに重く、低く響いています。
行燈を見ます。灯りはついたまま。青白と乳白色——二重の灯りが、夜明けを迎えてもなお、ゆらゆらと揺れていました。けれど、昨日より青白の光が、ほんの少し弱まっているように感じられます。
(気のせいだろうか)
そう思いながらも、視線は自然と石臼のほうへ引き寄せられていきました。
僕は息を呑みました。
昨夜は指先でかすかに触れるだけだった微細なひび割れが、今は肉眼ではっきりと見えます。石臼の縁から底に向かって、細い一本の線が走っていました。黒い石の肌に刻まれた、白く乾いた亀裂。まるで血管のように、縁からまっすぐ中心へ向かって伸びています。
(——広がっている。昨夜より、確実に)
そっと指を伸ばして、その亀裂をなぞってみました。
冷たい。
普段の石臼が持つひんやりとした冷たさとは、明らかに違います。氷の表面に直接触れたような、刺すような冷たさ。そして——指先がかすかに痺れました。電気のような、あるいは何かが指先から吸い取られていくような、妙な感覚です。
慌てて指を離しました。痺れはすぐに消えました。けれど指先だけが、妙に冷たいままでした。
気を取り直して、いつものように店先へ看板を出そうと戸口へ歩きます。木の看板を持ち上げた——その瞬間、手が止まりました。
なぜでしょう。理由は自分でもわかりません。
ただ——今日は、出してはいけない。
そんな気がしたのです。
看板を元の場所に戻し、もう一度窓の外を見ました。
雨は強くなるばかりでした。
看板を出さなかったにもかかわらず、午前十時を過ぎた頃、佐伯美琴さんが店を訪ねてきました。傘を丁寧にすぼめながら、申し訳なさそうに中を覗き込む姿はいつも通りです。
「おはようございます。看板が出てなかったので、開いてないかと思いました」
「ああ、すみません。ちょっと出しそびれてしまって」
「そうだったんですか。よかった。実はちょっと気になることがあって」
美琴さんはいつもの席に座り、しばらく迷うように指先を見つめてから、口を開きました。
「先日のあの子——凪さん、でしたっけ。あの後、どうされたのかなって」
心臓が、ひとつ大きな音を立てました。
「それが、あの——」
答えようとします。同時に、意識を美琴さんのほうへ向けました。彼女の「雨上がりの生臭さ」を感知しようと——。
けれど。
(——なんだ、これ)
香りの輪郭が、ぼやけています。
以前ならはっきりと掴めていたあの生臭さ。梅雨時の水たまりに落ちた葉がじわりと腐っていくような、古い雨水の染み込んだ布のような匂い。それが今は、まるで霧の中に沈み込んでいるかのようです。
いえ、もっと正確に言うなら——香りの中に「無」が混ざっている。本来そこにあるべきものが、ところどころ欠落している。そんな違和感でした。
「神代さん?」
美琴さんの声で我に返りました。
「顔色、悪いですよ。大丈夫ですか」
「ええ、少し寝不足で。大丈夫です」
平静を装いました。けれど美琴さんはなおも心配そうにこちらを見ていて、結局、凪のことは「また来られたらお伝えします」とだけ答えるのが精一杯でした。
彼女が帰っていきます。濡れた傘を広げる仕草。雨の中へ消えていく背中。それらが、どこか一枚の薄布を隔てたように感じられます。
扉が閉まったあと、僕は急いで他のものの香りも確かめてみました。
棚の茶葉。いつもなら、炒った緑の葉から立ち上る、土と陽の光を含んだような香ばしさが感じられるはずです。けれど——どこか遠い。輪郭がにじんでいます。
積まれた古本。紙と埃と、長い歳月をここで過ごした記憶のような匂い。それも——ぼやけている。
行燈の油。菜種油だろうか、少し青臭い甘さのある匂い。それすら——遠い。
(侵食されている——僕の感覚が。凪さんの"無"が、他の香りまで覆い始めている)
「無色」の悩み。
僕が感知しようとしたあの日——凪さんの「消えたい」という願いを受け止めようとしたあの瞬間から、僕の能力はじわじわと侵され始めていたのです。しかもそれは、単なる感度の低下ではありませんでした。この「無色」が、能動的に他の香りを侵食している。まるで黒い染みが布に広がるように。
石臼を見ました。
ひび割れは——朝より、ほんのわずかに広がっているように見えます。
雨はさらに強くなっていました。
それでも、僕は傘を手に取り、外へ出ました。向かう先は、古峰神社です。石臼の由来を知る老神主——久我源治さんに会うためでした。
境内へは正面の石段ではなく、裏手の細い石段から上がりました。二年前、凪さんとすれ違ったかもしれない——あの石段です。濡れた苔の匂い。杉の葉の匂い。雨に打たれた土の匂い。それらもやはり、どこか遠く、輪郭を失っています。
社務所の戸を叩くと、しばらくしてからゆっくりと開きました。
「おお——蓮か。珍しいな、こんな雨の日に」
久我源治さんは七十二歳。この神社に六十年以上仕えている老神主です。白髪交じりの短い頭髪。深く刻まれた皺。背筋はまだまっすぐで、その目は年齢よりもずっと若々しい光を湛えています。
「突然すみません。どうしても、お聞きしたいことがありまして」
久我さんは何も言わず、奥へ通してくれました。二人分の湯呑みに茶を注ぎ、静かに僕の正面へ座ります。それから——長い沈黙。
窓の外の雨を、じっと見つめています。
僕は切り出しました。
「いただいた石臼のことです。ひび割れが——」
「見えたか」
久我さんは静かに言いました。視線はまだ雨に向けられたままです。
「はい。昨日までは触れてもわからないほどだったんですが、今朝——」
そこまで言って、言葉を切りました。
久我さんが、ゆっくりとこちらへ向き直ったからです。
「あの石臼はの——百年以上前から、この神社の地下に安置されておった。『悩みを砕く臼』。人の思いを石に見立て、粉々に砕く。お前に譲ったのは、お前に資格があったからじゃ」
僕はうなずきました。石臼がただの古道具ではないことは、手にしたときから感じていました。
久我さんは再び雨へ目を向けます。また、長い沈黙。雨音だけが、社務所に満ちています。
「——じゃがな」
声の深さが、変わりました。
「あの石臼にも、砕けぬものがある」
「砕けぬもの……?」
「色のない悩み。匂いのない渇き。そんなものは、石臼にとって『認識できぬ石』なんじゃ。砕こうとして砕けず——逆に、臼のほうが摩耗する」
心臓が、冷たくなっていくのを感じました。
「お主の力と石臼は連動しておる」久我さんは続けます。「切り離せぬ。お主が誰かの悩みを深く受け止めれば、臼は動く。じゃが——臼が傷つけば、お主の力も傷つく」
静かな目が、まっすぐにこちらを見据えました。
「お主——最近、無色の客を相手にしておるな」
僕は黙って、うなずくことしかできませんでした。
久我さんはしばらく僕の顔を見つめていましたが、やがて深く、長く息を吐きました。
「……猶予は、あまりないかもしれん」
湯呑みに手を伸ばし、一口だけ茶を含みます。それから——さらに深い沈黙。
「二年前のことじゃ」
声の調子が、ふと変わりました。
「この神社で——気配があった。人かどうかも定かでない、淡い影じゃ。わしは『迷い神』かと思ったが——」
迷い神。道に迷った神が、人の姿を借りて現れる。そんな昔話があるのを、どこかで聞いたことがあります。
「——もしそのお方が、お主の言う無色の少女だったなら」
久我さんは、そこで言葉を切りました。初めて——迷っているように見えました。
「お主が嗅覚を失ったのも、すれ違ったからかもしれん」
「どういうことですか」
「力が——共鳴したのか、奪われたのか。それはわしにもわからん。ただ——」
久我さんは庭の雨を見つめたまま、ぽつりと言いました。
「あの子の"無"は、ただの無ではない。何かが——あるべきものを、吸い取っておる」
それ以上の言葉は、ありませんでした。
僕は社務所を辞しました。久我さんは見送りに出ず、ただ「気をつけてな」とだけ、背中に声をかけてくれました。
店に戻っても、雨は弱まるどころか、一層激しさを増していました。軒から流れ落ちる水が、白い筋になって地面を叩いています。石畳の上で跳ねる水滴が、霧のように立ち昇っていました。
看板は出さないままです。それでも——凪さんが来るなら、来るはずでした。いつだって彼女は、看板の有無など気にせず、突然ふらりと現れるのですから。
行燈に火を入れました。青白の光が点ります。けれど——その光は弱々しく、いつもの半分ほどの明るさしかありません。代わりに、乳白色の光が相対的に強まって、店内をぼんやりと照らしています。
茶を淹れました。
待ちます。
茶が冷めました。もう一杯淹れます。それも冷めます。
窓の外の光が、水色から鼠色に変わり、そして濃紺へと沈んでいきました。夕刻です。
凪さんは来ませんでした。
(僕は——凪さんに会いたいんだ)
そのことに気づいたとき、自分でも驚きました。
(悩みを回収するためじゃない。ただ——会いたい)
依存している。彼女の存在に——あの「無」の気配に——引き寄せられているのだと、はっきりと自覚しました。
石臼を見ました。ひび割れの線に沿って、かすかに金色の光が帯びています。青白でもなく、乳白でもない——第三の光です。まるで、ひび割れの痛みそのものが光を発しているかのようでした。
遠くで雷鳴がとどろきました。
(——明日、凪さんを探しに行こう)
決意しました。待っているだけでは、足りません。このまま石臼も、僕の能力も、静かに壊れていくのを待つわけにはいかない。
深夜になりました。
気がつくと——行燈の灯りが、変わっていました。青白の光が、ふっと消えています。今はもう、乳白色の光だけが、か細く揺らめいていました。
石臼を見ます。
息が止まりました。
朝は一本だった細い亀裂が、今は枝分かれしています。いくつもの細い線が縁から走り、蜘蛛の巣のように——あるいは叩き割られたガラスのように——縁の三分の一ほどを覆っていたのです。
石臼に手を触れました。
朝よりも、ずっと冷たい。氷を通り越して、触れた皮膚が灼けるような冷たさです。そして——かすかな振動。耳を澄ますと、石臼が微かに、唸っているような、泣いているような、か細い音を立てていました。
(——このままじゃ、もたない)
行燈の乳白色の光だけが、壁に僕の影を映しています。その影は——心なしか、いつもより薄く見えました。光が透けてしまいそうな、そんな輪郭です。
僕はその場に座り込みました。石臼の前で。
脳裏に、凪さんの声が蘇ります。
「——消えたいんです」
あの日、あの少女が初めて口にした言葉。
雨音が、すべてを覆っています。
(凪さん)
(あなたは——今、どこで)




