4話 名のない痛み
雨は、やんでいなかった。
窓を叩く粒は昨夜より重く、ときに風がまとまった水塊をガラスへと打ちつける。軒を伝う滴、跳ね返る飛沫、低く唸る路面——三層のリズムが、それぞれの間合いで店を包み込んでいた。街ごと、水底へ沈んでゆくような雨だった。
店内は、しんとしている。
行燈の炎がひとつ、揺らぐ。
(——また、か)
棚の前に立ったまま、僕は動けなかった。香炉のひとつから、ほのかな甘さが漂っている。紅茶に蜂蜜を落としたような、どこか懐かしいその名残——美琴さんの残り香だ。僕は深く息を吸い、それを確かめた。
(……まだある。ちゃんと、わかる)
胸の奥で安堵が小さく息をつく。よかった——能力は失われていない。
(無色、無臭。あんな悩みは——初めてだ)
昨日の余韻が、まだ胸のどこかに澱んでいる。月島凪。聞いていないはずの名が、あのとき確かに浮かんだ。何色か判別できない瞳。光を吸い込む——いや、光ごと消し去ってしまいそうな目。そして彼女の周りには、いつも——
何も、なかった。
行燈が、もう一度大きく揺らいだ。
その刹那、戸が——音もなく、開く。
雨の匂いが雪崩れ込んでくる。濡れたアスファルト。冷たい空気。そして——
(……何も、ない)
前回より、濃い。色も、匂いも、温度さえも——そこに人が立っているのに、僕の感覚はただのひとつも存在を捉えられない。
全身ずぶ濡れの凪さんが、戸口に立っていた。
傘はない。黒髪が頬に張りつき、コートの裾からは途切れなく水が滴っている。布地は水を吸って、いつもの倍は重そうだった。その姿は、雨そのものがかりそめの輪郭をまとったかのようで——境界が、溶けてしまいそうだった。
行燈の炎が、激しく揺れた。
橙色だったそれが、みるみる青白く変わる。消えかかり、戻り、さらに激しく揺らぐ。暖かさの欠片もない、白い光。今にも途絶えてしまいそうな、頼りない灯りだった。
「……どうぞ、座ってください」
自分の声が、妙に静かだった。
凪さんは無言で、前回と同じ椅子に腰を下ろした。迷いのない所作だった。座るべき場所をずっと前から知っていたかのように。僕が差し出したタオルには目も向けない。濡れたままでいい——拒絶とも諦めともつかない佇まいだった。
「今日は、どうされましたか」
「……」
声にならない声。唇がかすかに動き、空気がほんの僅かに震えた——ただそれだけだった。何かを言おうとして、言葉が途絶える。いや、そもそも——彼女の中で、まだ言葉がかたちになっていないのかもしれない。
(……自分でも、わからないんだ。きっと)
ゆっくりと立ち上がり、石臼へ歩く。振り返って凪さんを見ると——彼女は、ほんの少しだけうなずいた。
石臼の前に立つ。冷たい石の感触が指先へ伝わってくる。いつもならここから先は自然な流れだった。客の悩みが香りとなって立ちのぼり、僕はそれを挽いていく。色を、匂いを、言葉の端々に滲む苦さを——粉に変えて、空気へ還す。
それが僕の——悩み回収屋としての、たったひとつの役目だった。
石臼に手をかける。
挽こうとした。
——動かない。
物理的に重いのではない。そんな単純な話ではなかった。石臼が——「挽くことを拒んでいる」。そうとしか言いようのない手応え。力を込めるほど、その手応えは空洞になっていく。まるで、ここに「挽くべきもの」が存在しないかのように。
「…………むり、です」
極小の声で、凪さんが言った。聴き取るのに全神経を集中しなければならないほどの音量で。
二度目。今度は力を込めた。石臼が軋みをあげる。だが——挽いているのは「何もない空間」だった。手応えがない。石臼は確かに回っているのに、その回転が空回りでしかないことを、指先が否応なく告げている。
(違う。これは——力の問題じゃない)
三度目。目を閉じて集中する。凪さんから発せられるはずの——悩みの「香り」を探る。僕の能力の根源にある感覚だ。これまでどんな悩みも、ほんの僅かであれ、色を持ち、匂いを持っていた。
ない。
完全な、無。
能力が、凪さんの悩みを認識できない。そこにはただ「空白」があるだけだった。認識すらできないものを、どうやって挽けというのか。
四度目——。
「どんな小さなことでもいい。今、感じていることを教えてほしい」
声は震えていなかった。けれど、石臼の上に置いた指先が、かすかに震えている。
「……わからないの、です」
凪さんの声は、窓を叩く雨音にかき消されそうなほど小さかった。それでも——はっきりと届いた。
(わからない——か)
石臼から、そっと手を離す。指が冷たくなっていた。さっきまで触れていた石の表面の温度さえ、もう思い出せない。
(この人の悩みには——かたちがない。色も、匂いも、言葉もない。名前さえつけられない苦しみを、どうやって挽けというのか)
胸の奥で、何かが軋んだ。自分の無力さを、これほど痛感したことはなかった。
「……すみません」
俯く。言葉が、自然にこぼれた。
「僕の力では——あなたの悩みを、挽けません」
初めてだった。石臼が効かなかったのも。能力が何ひとつ捉えられなかったのも。客に——「できません」と言ったのも。
凪さんの手が、膝の上で小さく握られた。細く白い指が、ゆっくりと折りたたまれてゆく。
でも——失望ではなかった。期待していなかったから、失望もなかった。ただ「効かなかった」という事実が——彼女の中で、何かを静かに確定させた。そんなふうに見えた。
沈黙が降りる。二人とも、動けなかった。
窓の外では、雨がさらに勢いを増している。地面を打つ跳ね音が、二重三重に重なり合い、軒からは途切れなく水が流れ落ちて小さな滝のような音を立てていた。
行燈の青白い炎は消えかかっては戻り、また消えかかる。その光が、凪さんの濡れた横顔を冷たく照らしていた。濡れた髪の一本一本までが、光の粒に縁取られている。
俯いたまま、自分の手を見つめる。
(悩み回収屋、なんて。結局、僕にできることなんて——)
——違う。
顔を上げた。行燈の青白い光が、視界の端で揺れている。
「凪さん」
初めて、名前で呼んだ。自分でも不思議だった。やはり——知っていた。彼女の名前を。根拠のない確信が、今、不動のものへと変わる。
凪さんが、ゆっくりと顔を上げる。
「僕には、今はまだ——あなたの悩みをどうすることもできません。でも」
一呼吸。
「諦めるつもりは、ありません」
声は静かだった。けれど、そこには迷いのない——かたちのない意志が確かにあった。自分でも驚くほど、揺るがないものだった。
凪さんの瞳が、僕を捉えた。光を吸い込むその力が——ほんの少しだけ、弱まった。ように、見えた。
瞳の奥に、微かな光の粒が浮かんでいる。まだ消えてはいない光。
立ち上がる。石臼は変わらず沈黙していた。だが、その沈黙はもう、さっきまでの「拒絶」ではない。ただの石に戻っている——そんな気配があった。
僕は、客を見送るために——初めて、扉のところまで歩いた。
「——また、来てください」
言った瞬間、自分でも驚いた。
(——今、僕は……)
客にリピートを促した。こんなことは、初めてだった。
凪さんが、振り返る。その動作は、水の中を動くようにゆっくりと——。
「…………はい」
極小の、しかし確かな一言だった。
それだけを残して、凪さんは雨の中へ消えていった。傘もささず、逃げるでも急ぐでもなく——ただ歩いていく。灰色の雨に、その背中がじわりと滲んでゆく。どこからが雨で、どこからが彼女なのか——境界が、わからなくなっていく。
まるで、雨の一部になったかのように。
店内に戻る。
行燈の炎が、ゆっくりと安定を取り戻し始めていた。青白さはまだ残っている。だが、さっきまでの消え入りそうな揺らぎは、すっかり収まっている。
石臼は、変わらず沈黙したまま。
その前に立つ。
(どうすればいいのか。いや、どうすれば、なんて——まずは、知らなきゃいけない。彼女のことを。この痛みのことを)
手を伸ばし、冷たい石の表面に触れる。さっきは何も感じなかったそこに——今は、かすかな冷たさだけが伝わってくる。ただの石の温度。それが、静かな決意を僕に与えていた。
窓の外を見る。
——雨は、さらに激しくなっていた。




