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深夜の悩み回収屋  作者: リンコ


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5話 凪の記憶

——雨は、さらに激しくなっていた。


いや。少し、違う。


窓ガラスを伝う水滴の落ち方に、昨夜までとは異なる何かを感じている。強さは変わらない。けれどその一滴一滴に、わずかな熱が混ざっているような——そんな予感があった。


行燈の青白い灯りが、音もなく揺れている。


四度だった。四度、彼女の悩みを砕こうとした。石臼に注ぎ、ハンドルを回し、香りを待った。けれど——何も起こらなかった。そもそも注ぐべき悩みが、見えていなかったのだ。


(何を、間違えていたんだろう)


技術でも手順でもない。問いそのものが、違っていたのかもしれない。悩みを「回収する」ことと、悩みを「知る」ことは——同じではない。今さらながら、そう思う。


そのときだった。


ふと脳裏に、霧のような映像がよぎる。雨。濡れた石段。誰かの——背中。いつ、どこで、なのかは掴めない。けれど、胸の奥に落ちていた小さな石が、ポトリと音を立てた。


(二年前——?)


映像はすぐに霧散した。


代わりに聞こえたのは、控えめな三度のノック。


こんな雨の中を——と、立ちあがるより早く、ドアが静かに開く。


立っていたのは、凪さんだった。


傘はなく、ずぶ濡れだった。黒い髪が頬に貼りつき、コートの裾から雫がたえまなく落ちている。


「傘、持ってないんですか」


気がつくと、声に出していた。それは悩み回収屋としての問いではない。ずっと単純で、どうしようもなく人間くさい——ただの心配だった。


凪さんは、小さく首を振った。


それだけだった。それだけで、十分だった。


今までの僕なら、すぐに石臼へと導いていたかもしれない。でも——今夜は違う。


「とりあえず、中へ。そのままじゃ風邪をひきます」


カウンターの隅の椅子を引く。新しいタオルを棚から出し、やかんに火をかけた。石臼は視界の隅に置いたまま——今夜は使わないつもりだった。


凪さんはおずおずと腰かけ、差し出したタオルを受け取る。濡れた髪を拭く手つきは、どこかぎこちない。まるで——誰かに世話をされることに慣れていないようだった。


茶の香りが、静かに部屋を満たす。


湯呑みを彼女の前に置くと、白い湯気がゆっくりと立ちのぼった。


「僕の仕事はですね——」


自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれていた。


「悩みを預かって、砕いて、香りに変える。そういう、ちょっと変わった店なんです」


凪さんは黙って湯呑みを見つめている。


「預かった悩みには、それぞれ違う色と匂いがあって。僕にはそれが、はっきりと感じられるんです。そういう——体質、みたいなもので」


こんなに自分のことを話したことがあっただろうか。


これまでの誰に対しても、「悩み回収屋」としての自分しか見せてこなかった。なのに今——独白のように、言葉が溢れてくる。


「香りには、その人の——」


口にした瞬間だった。


凪さんの指先が、ほんの一瞬、湯呑みを強く握る。白い指の関節が、かすかに浮き上がった。


(気づいている——)


自分の状態を。自分から「香り」が——いや、「色」さえも——消えていることを。


言いかけた言葉を飲み込んだ。


替わりに、行燈を見る。青白い灯りは相変わらずだったが——その奥に、ごくわずかな別の色を感じた。青でも白でもない、名づけるなら「透明な乳白色」と呼ぶべき微かな滲み。前回まではなかったものだ。


「凪さん」


彼女に向き直る。


「あなたの悩みは、正直——僕にも、まだ見えていません。でも」


言葉を選ぶ。けれど、選びきれない気持ちが胸の奥で渦巻いていた。


「だからって、悩みがないわけじゃない。そう信じてます」


凪さんは顔を上げなかった。けれど——濡れたまつげが、かすかに震えたように見えた。


——二年前。


不意に、また霧の中の映像がよぎる。


雨の夕暮れ。神社の石段。僕はそこに座っていた。理由はわからない。ただ——「何かを終わらせたい」と思っていたことだけは、やけに鮮明だった。


すぐ近くに、別の気配がいる。


気配は確かにあった。なのに——振り返らなかった。振り返れなかったのかもしれない。そのどちらかさえ、今の僕にはわからない。


「…………雨の、日」


息を呑んだ。


声は凪さんだった。彼女は相変わらず湯呑みを見つめたまま、自分自身に語りかけるように、ぽつりぽつりと言葉を落としていく。


「…………階段。誰か、いた」


背筋を冷たいものが走った。


「…………振り返ら、なかった」


——同じだ。


二年前のあの石段の気配。今、目の前に座る凪さんから感じる、かすかな「何か」。香りになる前の、ぎりぎりの存在感。その質感が——まったく同じだった。


出会った瞬間から感じていた、微かな既視感の正体でもある。


「…………知ってる、気がした」


凪さんの声は、雨音に溶けそうなほど細かった。けれどその一言は、静かな部屋の中で、まっすぐに胸に突き刺さる。


——知ってる。


そうだ、僕もだ。二年前のあの日、振り返らなかった気配は——あなただったんじゃないか。


でも、口にはできなかった。


口にしたら、何かが決定的に変わってしまう——そんな直感が、喉を塞いでいた。


代わりに、感覚のすべてを彼女に向ける。目を閉じる。行燈の青白い灯り。雨音。茶の香り。その隙間から——凪さんの存在を、掬い取ろうとする。


(無色無臭——)


それは、単に「ない」ということなのか。


そうではないのかもしれない。ゆっくりと、仮説が形を成し始めていた。彼女の無色無臭——それは「誰にも認識されない」状態なのではないか。そこにいても、誰も気づかない。何かを言っても、誰にも届かない。


二年前、石段で僕が振り返らなかったのも——凪さんが「認識されていなかった」からでは。


(でも——)


今は違う。僕は、彼女の姿を見ている。声を聞いている。湯呑みを握る指の震えさえ、はっきりと感じ取っている。


その事実が——途方もなく、かすかな希望に思えた。


行燈を見上げる。青白い灯りの奥で、滲み程度だった乳白色の光が、わずかに濃度を増していた。最初に訪れた夜の完全な青白とは、明らかに違う。何かが——動いている。


「……少しだけ、わかった気がします。あなたのこと」


僕がそう言うと、凪さんはゆっくりと顔を上げた。濡れた瞳が、初めてじっと僕を見つめる。


「…………まだ」


短い否定。でも、拒絶ではなかった。まだ充分にはわかっていない——そう言っているのだ。


自然と、口元が緩むのを感じた。


「——はい。まだ、ですね」


「まだ」という言葉を、こうして共有できること。それが、不思議なほど嬉しかった。


凪さんは立ち上がった。今日はもう帰る——そう言っているように映った。実際には何も言わなかったけれど。


「また来てください」


ドアのところで、僕は言った。


「…………はい」


凪さんは短く答える。そして——何かを、言いかけた。唇がわずかに動き、けれど言葉は形にならないまま、かすかな息だけがこぼれる。彼女はそれを、そのまま飲み込んだ。


ドアが閉まる。


静寂の戻った店内で、窓辺に立つ。


外を見る。


雨は——まだ降っていた。でも、その脚が昨夜よりわずかに細くなっている。雫の落ちる間隔が、心なしかゆっくりになっていた。


これで確信が深まった。雨と凪さんの感情は、どこかで繋がっている。初めて彼女が現れた夜から降り始め、状態に呼応して激しさを変えてきた。そして今——雨脚がほんの少し、弱まっている。


行燈に目を戻す。


凪さんが去ったあとも、灯りは完全には消えていなかった。青白い光の中に、乳白色の滲みが、ささやかではあるけれど——確かに、残っている。


(二年前——)


カウンターに手をつき、深く息を吐く。


あの石段で、僕は「何かを終わらせたい」と思っていた。何を、かはまだわからない。けれど——あのとき、すでに「香り」の力を失っていたのではないか。


そう考えると、いくつかのことが繋がり始める。


力をいつ得て、いつ失ったのか。二年前のあの日、僕はおそらく——取り戻すために、あるいは失ったことを受け入れるために、あの石段に座っていたのではないか。


(そして、隣には——あなたがいた)


振り返らなかった僕。振り返ってほしかったかもしれない彼女。


それが、僕たちの「はじまり」だったとしたら——


行燈の灯りが、かすかに揺れた。凪のいない部屋で、その光はまだ、消えずにいる。

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