3話 無色の少女
雨は、やまなかった。
軒を打つ雨音が、店内に静かな律動を刻んでいる。昼間から降り続いた雨は、夜になっても勢いを緩めず、闇が深まるにつれ、むしろその音を一層際立たせていた。
僕はカウンターの内側に座り、行燈の灯りをぼんやりと見つめていた。橙の光が古い木のカウンターにやわらかな影を落とす。湿った空気のなか、木の匂いと、かすかな油の匂いが雨の気配と溶け合っている。
常連の老人が一人、ぽつぽつと愚痴をこぼしていった後は、しばらく誰も来なかった。普段ならこの静けさを好ましく思うのだが——今夜は、なぜか落ち着かない。
(なんだろう。雨のせいか)
そう自分に言い聞かせても、胸の奥に刺さった小さな棘だけは抜けなかった。
戸が開く気配に顔を上げると、佐伯美琴さんが立っていた。この店の数少ない常連の一人で、月に一度は必ず顔を出す。彼女は傘を畳みながら、軽く会釈をした。
「こんばんは、神代さん」
「美琴さん、いらっしゃい」
美琴さんの悩みは、いつも明確な輪郭を持たない。将来へのぼんやりとした不安——漠然とした恐れのようなものだ。けれど、僕にはその香りがはっきりと感じられる。ほんのり甘くて、少しだけ煙たい、古い本棚の奥にしまわれた手紙のような——いつも同じで、いつも違う香り。
「今日はなんだか、雨がしみますね」美琴さんはそう言って、少しだけ笑った。
「ええ。こんな夜は、余計なことまで考えてしまいます」
短いやりとりを交わし、いつものように彼女の悩みの一部を預かる。ほんのひとつまみ。それで彼女の表情が少しだけ和らぐのを見届けて、僕は小さく息をついた。
美琴さんが出ていった後、店内はまた静けさに戻った。カウンターに残された、かすかな花のような残り香。
(やっぱり、美琴さんの悩みの香りは、今日も——)
そこまで考えたとき、行燈の灯りがふっと揺らいだ。
風もないのに。
僕は一瞬息を止め、行燈を見つめた。しかし灯りはすぐに元の安定した輝きに戻り、何事もなかったかのように橙の光を放っている。
(……気のせいか)
肩の力を抜く。雨音が一際強くなった。水の律動が、まるで誰かが戸口に立っているかのような錯覚を生む。
(今日はもう、誰も来ないだろう)
そう思った。
——そのときだった。
店の戸が、静かに開いた。
開いた戸口に、一人の少女が立っている。
傘は差していなかった。セーラー服が雨にすっかり濡れ、濃い紺色の布が細い体に貼りついている。肩にかかる黒髪の先から、ぽたり、ぽたりと水滴が落ち、床に小さな染みを作っていった。
僕は——無意識に、彼女の香りを捉えようとした。
(……?)
何も、ない。
正確には——捉えようとした意識が、空白に衝突した。香りを探る感覚が、見えない壁に阻まれるように、するりと滑り落ちていく。
(おかしい)
もう一度、意識を集中させる。何百人もの悩みを嗅ぎ分けてきた能力を、目の前の少女に向けて全開にする。
何もない。
どんなに希薄な香りでも、必ず「何か」は存在した。それがこの店の絶対の前提であり、僕が悩み回収屋として立っていられる根拠だった。けれど、この少女からは——「無」。
(香りの、不在——?)
不在そのものが、質量を伴って僕に迫ってくる。彼女の立っている場所だけが、空間ごと密度を変えている。雨の匂いも、古い木の匂いも、行燈の油の匂いも——彼女の周囲だけ、あらゆる香りが吸い込まれ、消えていた。
少女は無言で店内を見回した。ゆっくりとした仕草で。その瞳は何かを探しているのではなく、何も見ていない——そんな眼差しだった。
濡れた靴が、くぐもった足音を立てる。
一歩。
また一歩。
まっすぐにカウンターへ向かって歩いてくる。
僕は動けなかった。この能力を得てから一度も経験したことのない感覚に、体が縫いとめられたようになっていた。
カウンターの前で、彼女は立ち止まった。
見上げてくる。僕より頭一つ分は低い位置から。
濡れた前髪の隙間から、瞳が覗いている。何色なのかは——なぜか、うまく判別できない。光を吸い込むような黒なのか、それとも薄い色素の瞳なのか。見れば見るほど、境界が曖昧になっていく。
目だけが、何かを語っている。
声にならない声で。
僕は、なんとか声を絞り出した。
「……いらっしゃい」
「悩みを、預からせてもらえますか」
言いながら、自分の声が上ずっていることに気づく。いつもの手順。いつもの言葉。なのに——こんなにも空虚に響いたのは初めてだった。
少女は何も答えない。
ただ、僕を見つめている。
(なんなんだ、この感じは——)
内心で必死に言葉を探す。動揺をどうにか抑え込みたかった。悩みがあるなら、必ずそれに伴う香りがある——それが僕の知る世界の真理だ。悩みを嗅ぎ分け、その一部を預かる。その繰り返しで、僕はこの店を続けてきた。
けれど。
(香りがない。悩みの香りが——まったくない)
彼女は、僕の前提そのものを無効化する存在だった。僕の能力は、悩みを香りとして知覚する。だのに香りがないのなら——どうすればいい。何を預かればいい。彼女の悩みは、そもそも存在するのか。
僕は額に汗の滲むのを感じながら、もう一度、全力で能力を集中させた。
行燈の灯りが、また揺らぐ。
今度は長く——まるで店自体が、この少女の存在に戸惑っているかのように。
(頼む——何か——)
空振りだった。僕の意識は、何度も彼女の周囲の空白に弾かれる。捕まえようとする手が、煙を掴むようにすり抜けていく。
長い沈黙が、店内を支配した。
雨音だけが、降り続けている。
どれほどの時間が経ったのか——おそらくは数十秒。けれど僕には、永遠にも等しい空白に感じられた。
その沈黙を破ったのは、彼女だった。
「……わたし、消えたいんです」
声は、雨音にかき消されそうなほど小さかった。
けれど、僕の耳にははっきりと届く。
消えたい——。
その言葉が、僕のなかでいくつもの疑問を引き起こす。
(消えたい——それは、悩みなのか)
(それとも——願いなのか)
判断できなかった。香りがないからだ。彼女の言葉に込められた感情を、僕の能力は何も教えてくれない。
初めてだった。
初めて、自分の能力が完全に通じない相手に出会った。
(僕は——無力だ)
その事実が、胸を締めつける。悩み回収屋として積み上げてきた自負が、音もなく崩れていく。カウンターの下で、僕は無意識に拳を握っていた。
(悔しい——のではない)
(怖いんだ)
わからないことが。感じられないことが。目の前に立つ、この少女のことが。
なのに。
香りがないという事実そのものが、僕の関心を強く引き寄せてやまない。無色であるはずの彼女が、むしろ誰よりも鮮烈に、僕の心に刻まれていくのがわかった。
(なぜ、香りがないんだ)
(なぜ「消えたい」なんて——)
違和感の正体を知りたい——その欲求が、僕のなかで静かに、けれど確かに膨らんでいく。それは職業的な関心を超えた、もっと根源的な何かだった。
(月島——)
まだ名前も聞いていないのに、なぜかその二文字が心に浮かんだ。
行燈の灯りが、また揺らぐ。今度は長く、不規則に——まるで問いかけるように。
少女は、ゆっくりと踵を返した。
「……ごめんなさい。来て」
「来て」で、言葉が途切れた。
来てよかったのか。来てはいけなかったのか。
彼女自身も、そのどちらも言い切れない——そんな風に、僕には感じられた。
そして彼女は、来たときと同じように、静かに戸口へ向かって歩いていく。
僕は何も言えなかった。呼び止める言葉を探したけれど、見つからなかった。
戸が閉まる。
雨音だけが、また店内を満たした。
彼女が出ていった戸口を、僕はしばらく見つめていた。
店内に、彼女の存在の痕跡は何もない。濡れた床の跡さえ——見ると、もうほとんど乾いて消えかけている。まるで最初から、誰もいなかったかのように。
けれど。
(違う)
僕のなかには、はっきりと刻まれている。彼女の不在ごと、その存在が。無色のまま、無臭のまま——それでも彼女は、確かにここにいた。
カウンターに手をつき、深く息を吐いた。
(月島——凪)
名前を聞いていないのに、その名前が心に浮かぶ。なぜかはわからない。ただ——彼女はその名前だという、不思議な確信があった。能力の、新しい側面なのかもしれない。それとも、これは能力ですらないのかもしれない。
行燈が、ふっと自然に消えた。
僕はしばらく暗がりのなかに立ち尽くしていたが、やがて寝床に向かった。横になっても、眠れない。
目を閉じると、彼女の瞳の色が浮かぶ。
(何色だったんだろう)
最後まで、わからなかった。
色も、香りも、何もかもが、掴もうとするとすり抜けていく——そんな少女だった。
軒を打つ雨音を聞きながら、僕は夜の闇のなかで、ただ彼女のことを考えていた。
——次の日も、雨はやまなかった。




