2話 悩みの香りたち
帳簿を閉じてから、どれくらい経ったろう。
行燈の灯りが揺れて、壁に映る影がかすかに震えている。窓の外からは相変わらずの波音——規則正しいリズムが、かえって時の感覚を曖昧にしていく。
僕はもう一度、帳簿を開いた。
最後に記入した名前に、指が止まる。佐伯美琴。
(佐伯さん)
彼女はこの店の、数少ない常連だ。月に一度、必ず訪れる。いつも同じ、疲れた笑顔で。いつも同じ、軽やかな足音で。
(あの人の香りは——来るたびに同じで、来るたびに違う)
今夜も来るだろうか。そんなことを考えながら、帳簿を閉じる。
窓の外の空気が湿っていた。潮風に混じって、かすかな泥の匂い——いや、これは僕の鼻では感じられない。空気の重さでわかる。雨が近い。
部屋の隅では、石臼と杵が静かに佇んでいる。注文を受けてから三年になるその道具は、使うたびに少しずつ表面が滑らかになっていた。何十人もの悩みを——何百もの香りを——この石臼は吸い込んできた。
僕は行燈の火を、ほんの少しだけ強くした。
——カラン。
扉の鈴が鳴った。
顔を上げる。開いた扉の向こうに立っていたのは、佐伯美琴だった。二十九歳。近所のカフェで働く彼女は、まだエプロンを外したばかりの姿で、肩にかけたトートバッグから焙煎したてのコーヒー豆の匂いがかすかに漂っている。
「蓮くん、今夜も開いててよかった〜」
疲れた笑顔。でも、足音に迷いはない。扉をくぐる動きも、いつも通りに軽やかだ。
そして——立ち昇る香り。
雨上がりの生臭さ。濡れた土と草の根が、陽の光に蒸されたような匂い。かび臭くて、それでいて切なくて。初めて彼女がこの店を訪れたときからずっと、変わらない香りだ。
でも——前回より、渋みが増している。
「こんばんは、佐伯さん」
「こんばんは。あー、今日も疲れたあ」
彼女はいつもの椅子に腰を下ろすと、大きく伸びをした。カフェの制服の下から、細い手首がのぞく。
「今日さあ、ねえ聞いてよ。常連のおばあちゃんに『美琴ちゃん最近元気ないね』って言われちゃってさ」
「……そうでしたか」
「笑ってるつもりだったんだけどなあ。やっぱり、バレるんだねえ」
佐伯はそう言って、はにかむように笑った。その笑顔の奥で、香りがゆらゆらと揺れている。
「それでさあ」彼女は身を乗り出し、いたずらっぽく声を潜める。「今日、パンケーキ焦がしちゃって」
「……何枚です」
「五枚。連続で」
思わず、口元が緩む。佐伯はこういう話がうまい。失敗談を面白おかしく語って、聞いているこっちまで笑わせる。それが彼女の——たぶん、彼女なりの優しさだ。
「店長がパニックになっちゃってさあ。『みこちん、ちょっと休憩しようか』って。それで今、追い出されてきたの」
「みこちん、ですか」
「あだ名。十年選手は違うでしょ」
彼女は声を上げて笑った。
(——これが、表層)
レモンピールのような、柑橘系の明るさ。「大丈夫」の仮面が、香りのいちばん上を覆っている。爽やかで、軽くて、鼻先をくすぐるような明るい匂い。
でも。
(その下に——)
柑橘の奥から滲み出しているのは、湿った落ち葉のような渋み。口に出せない疲れ。言葉にできない諦め。それは、毎月この店に来るたびに、少しずつ濃くなっている。
そして。
(さらに、その下に——)
雨上がりの土の生臭さ。
二年経っても乾かない。雨が降るたびに湿り気を増し、かび臭さが強くなる。まるで、地中深くに埋められた何かが、雨のたびに浮かび上がってくるみたいに。
(これは——裏切りの香りだ)
「……ねえ、蓮くん」
佐伯の声が、低くなった。
「ずっと、言おうか迷ってたんだけど」
彼女は自分の手のひらを見つめている。カフェの仕事で少し荒れた指先を、何度もこすり合わせながら。
「あの子から——連絡があったんだよね」
「……あの子、ですか」
「うん。二年ぶり。突然、LINEが来て」
友人の名は出さない。でも、僕は知っている。初めて彼女がこの店に来たとき、ぽつりぽつりと話してくれた。一緒にカフェを開く約束をしていた友人が、資金を持ち逃げしたこと。連絡が途絶えたこと。信じていたのに——という言葉だけが、何度も繰り返されたこと。
「会おうって。話があるって」
「……どうするんですか」
「わかんない。でも——」
佐伯は顔を上げた。かすかに笑っている。でも目だけは、笑っていない。
「蓮くんはさ、許せないことってある?」
——沈黙。
僕は机の端に置かれた帳簿に、一瞬だけ目を落とした。そこには、これまで訪れた人たちの香りが、記号で残されている。
「……さあ。考えたこともないです」
嘘ではない。本当に、考えたことがなかった。許すとか許さないとか——僕には、その感覚がよくわからない。
「そっか。蓮くんらしい」
佐伯はかすかに笑った。
その瞬間、部屋中に匂いが膨らむ。柑橘の明るさが薄れ、落ち葉の渋みが顔を出す。そして——雨上がりの生臭さが、覆い隠しようもなく広がった。
(——もう、隠せない)
僕は静かに立ち上がった。
「——やりますか」
石臼のほうへ、目を向ける。
佐伯は黙って、頷いた。
二人で石臼の前に立つ。僕が杵を手に取る。佐伯は石臼の隣で、そっと息を吸い込んだ。
香りが——動いた。
彼女の肩のあたりから立ち昇ったそれが、ゆっくりと、吸い寄せられるように石臼へ流れ込んでいく。
——トン。
杵を打つ。静かな音が、部屋の空気を震わせる。
——トン。
佐伯の肩から、力が抜ける。
——トン。
彼女の呼吸が深くなり、指先のこわばりがほどけた。
——トン。
口元が、かすかに和らぐ。
——トン。
目尻に、涙が滲む。でも——泣かない。彼女はいつも、ここでは泣かない。それが、佐伯美琴という人なのだと思う。
——トン。
石臼の底に、水滴が溜まっている。香りが凝縮されて、液体になったものだ。それを、僕は小さな瓶に集める。後で海に流すための——いつもの手順。
僕は黙って杵を打ち続けた。波音と、杵の音と、佐伯の呼吸だけが、部屋に満ちている。
「……やっぱり」
佐伯が、静かに口を開いた。
「蓮くんのとこ来るとさ、楽になるわ」
「まだ全部は消えません。いつも通りです」
「うん。知ってる」
彼女は頷いて、それから——本当に久しぶりに、心から笑ったような顔をした。
「……でも、十分」
涙のにじんだ目で、ちゃんと笑った。
僕は杵を置いた。石臼の中の香りは、さっきよりずっと薄くなっている。全部は消えていない。佐伯の悩みは根深くて、一度では消えない。でも——確実に、薄らいでいる。
「また来月、来るね」
彼女は立ち上がり、トートバッグを肩にかけた。
「はい。いつでも」
「当たり前でしょ。常連なんだから」
そう言って、軽やかに扉のほうへ歩いていく。振り返り際に、手をひらひらと振った。
「じゃあね、蓮くん」
いつもの別れの言葉だ。でも——今夜は、声に澄んだ音があった。
——カラン。
鈴の音。扉が閉まる。彼女の気配が、夜の闇に溶けていく。
(——佐伯さん)
僕は石臼の中の水滴を、そっと瓶に移した。
(あの人は、きっと、ずっと来るんだろう。この悩みが、完全に消えるまで)
どれだけかかるのかは、わからない。もしかしたら一生かかるのかもしれない。でも——それでいいのだと思う。彼女が来たいときに来られる場所がある。それが、この店の意味だから。
——カラン、カラン。
今度の鈴の音は、硬くて短い。躊躇と警戒。
僕は顔を上げた。
開いた扉の隙間から、痩せた男が入ってくる。四十代前半に見える。安物のスーツに、落ち着きなく泳ぐ目。髪は整っているが、ネクタイが少し曲がっていた。
そして——香り。
鼻を刺す、プラスチックの匂い。焼けたビニールのような、化学的な刺激臭。
(……これは)
嘘の香りだ。誰かを傷つけるための嘘ではない。でも——自分を守るための嘘。それはそれで、独特の不快な臭いを放っている。
「あ、あの——」
男はおどおどと店内を見回してから、ようやく僕の姿を見つけた。
「噂を、聞いて……悩みを、どうにかできる店があるって」
僕はゆっくりと立ち上がった。
「どんな悩みですか」
「え、ええと……仕事の、ことで……」
言葉が濁る。プラスチックの香りが、かすかに強くなった。
僕は黙って、石臼のほうへ歩いていく。男は戸惑ったように、でもなぜか——ついてきた。
(この人の嘘は、浅い)
それだけがわかる。浅い嘘は、香りも薄い。石臼に吸い込まれるときも、抵抗がほとんどない。
——トン。
プラスチックの匂いが、あっさりと石臼に消えた。佐伯の生臭さとは、まるで違う。水に溶けるインクのように、簡単に薄まって、簡単に消えていく。
「……え? もう?」
男は、処理された実感すら掴めていないようだった。呆然と、自分の手を見つめている。
「はい。お疲れさまでした」
「いや、でも……これで、本当に?」
「ご自分のお悩みが軽くなっているかどうかは、ご自身でお確かめください」
男はしばらく首をかしげていたが、やがて「いくらですか」と財布を取り出した。
「お代は、いただいてません」
「……は?」
ますます困惑した顔で、男は去っていった。鈴の音が鳴る。硬く、短い。来たときと同じだ。
(あの人の嘘は、自分を守るためのものだった)
僕は帳簿を開き、記入する。「生臭さ(佐伯)」「プラスチック(一見)」と、簡潔な記号で。佐伯の名前の横には、丸印をつけておく。要・継続観察。
(他人を傷つける嘘とは、違う——でも、香りに善悪はない)
ペンを置く。
その瞬間——
——ふっ。
行燈の灯りが、風もないのに消えた。
店内が、闇に包まれる。
でも、僕は驚かなかった。こんなことは、今までにも何度かあった。理由はわからない。ただ、今日が終わった合図のように、いつも自然に消える。
闇の中で、波音だけが響いている。
(なぜ——僕だけが)
月明かりが、窓から細く差し込んでいた。手のひらをかざす。ごく普通の手だ。どこにでもいる、二十四歳の青年の手だ。
(この力は、いったい、何のためにあるんだろう)
帳簿に並んだ記号の数々。それだけの悩みを、僕は処理してきた。でも——それが何になるのかは、まだわからない。
(——もし)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
(もしも、香りすら持たない悩みがあったとしたら。僕は——それに気づくことすら、できないんじゃないか)
そのとき。
遠くの路地から、かすかな気配がした。
香りではない。
——香りの、不在。
静かすぎる森で、鳥の声がぱたりと止んだときのような違和感。何もないことの不自然さだけが、ひたひたと背中に這い寄ってくる。
僕は窓の外を見た。
でも——そこには、雨で濡れた石畳と、立ち込める霧だけだった。人の姿は、どこにもない。
「……気のせいか」
声に出してみる。けれど言葉は暗がりに吸い込まれて、波音にかき消された。
僕は窓を閉めた。帳簿を棚にしまう。行燈は——もう、今夜はつけないままにしておく。
——翌日から、雨が降り始めた。




