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深夜の悩み回収屋  作者: リンコ


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1話 深夜の店

はじめまして。

この作品は、「悩みに色と匂いがあったら」という問いから生まれた物語です。

主人公の神代蓮は、ある日を境に嗅覚を失いました。その代わりに、人の心が放つ「悩みの香り」だけを感じ取る力を得て、深夜だけ開く小さな店で、人々の重さをほんの少し軽くする仕事を続けています。

鉄錆は裏切りの匂い。湿った落ち葉は言えない疲れの匂い。焦げた琥珀は、誰かの喪失の匂い。

すべての香りに名前がある中で、ある夜、何も持たない少女が現れます。無色、無臭、誰にも認識されない——彼女は、蓮の唯一の前提を静かに崩していきます。

救う話ではありません。存在することの重さと、それでもここにいるという小さな確かさについての、物語です。

ゆっくり、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

午前零時を、少しだけ過ぎた頃でございました。


海辺の町の、路地という路地が潮の湿り気を帯びて眠りにつく時刻です。神社の石段の脇に、ぽつりと灯りがともります。小さな木造の店——看板もなければ、暖簾に店の名前が染め抜かれているわけでもございません。ただ、縁側に吊るした白い行燈が、月明かりに紛れるような淡い光を放っているだけです。


その行燈に気づく人は、ほとんどおりません。気づいた人は、足を止めます。


僕——神代蓮は、カウンターの奥の椅子に腰を下ろし、細く開けた窓から差し込む夜気に包まれておりました。遠くから、かすかな波音が届いてまいります。満ち潮でしょうか。寄せては返す規則的な響きが、静寂の底をなぞるように店内を満たしております。窓の外を見やりますと、境内の老杉の梢が月光を受けて青白く縁取られ、風もないのにどこか生き物めいた気配を漂わせておりました。


(潮の匂いが、するはずなんだ)


僕は、空気を吸い込みます。肺の奥に冷たい夜気を満たしても、何も感じません。杉の清冽な香りも、磯の塩の匂いも、雨が近いことを告げる湿った土の匂いも——僕の世界からは、二年前にすべて消えました。


あの日、神社の裏で意識を失い、目覚めたときから。


医者は「外傷性嗅覚障害」と診断いたしました。頭部への衝撃で嗅神経が損傷したのだろうと。治療法はない。回復の見込みもない。そう告げられたのです。


けれど、ひとつだけ——ひとつだけ、感じ取れるものがございました。


悩みを抱えた人の心が放つ香りです。悲しみは焼けた灰の匂いがいたしました。焦燥は、古い錆びた時計の針のようなかすかな金属臭。孤独は、冬の空気にさらされた綿毛布の、あの冷たく乾いた感触を伴って鼻腔に届くのです。


なぜ僕だけがそれを感じ取れるのか、理由はわかりません。わからないまま、僕はこの店を始めました。誰かに言われたわけでもございません。ただ——この能力は、きっとそう使うべきものだと、漠然と感じたのです。


(今夜も、誰も来ないかもしれない)


カウンターの上には白磁の湯呑みがふたつ。急須にはほうじ茶を淹れてあります。客が来るかどうかは、僕にはわかりません。そもそもこの店の存在を知っている人など、この町にごくわずかしかいないはずです。それでも、悩みを抱えた人は不思議とこの店を見つけます。まるで暗闇を漂う小さな船が、かすかな灯台の光に吸い寄せられるように。


店の奥には、古い石臼が鎮座しております。何代前からこの神社に伝わるもので、いまは僕が預かっておりました。つるりと磨かれた花崗岩の表面は、長い年月をかけて幾人もの手に触れられてきたのでしょう——使われなくなって久しいのに、不思議なあたたかみを湛えております。その横には、樫の木でできた古い杵が置かれておりました。手に取りますと、三キロほどの重みが手のひらにずしりと吸い付き、年季の入った木肌がかすかにしっとりといたします。


波音だけが、刻々と時を刻んでおりました。


やがて——砂利を踏む足音が聞こえました。


重い。迷いのある、ひとつひとつに躊躇の滲んだ歩調でした。店の前で止まります。暖簾の手前で、数秒の逡巡。それから——意を決したように、砂利がもう一度、ざり、と鳴りました。


その瞬間、僕の鼻腔に香りが届いたのです。


冷たい鉄錆の匂いでございました。


凍てつく冬の朝、誰もいない海岸に打ち捨てられた工具箱——その中でひっそりと錆びついていく工具の、あの金属的な冷たさと、かすかな苦みが舌の奥にまで沁みわたるようです。そしてその匂いの淵に、ほのかに潜む湿り気を帯びた熱——まだ完全に冷え切ってはいない、くすぶるような温度が、指先で撫でたかのように感じられました。


(裏切りの香りだ)


暖簾がそっと持ち上げられました。


入ってきたのは、くたびれたスーツを着た中年の男でした。三十五歳くらいでしょうか。ネクタイは弛み、ワイシャツの襟元には微かな汚れが滲んでおります。一番目を引いたのは、その目でした。窪み、輝きを失い、それでいてどこか神経質に周囲を見渡す視線——何日もまともに眠っていない顔です。


「……夜分に、すみません」


声は、掠れておりました。


僕は無言で立ち上がり、カウンターの向こうの椅子を示しました。男は少し迷ってから、ぎこちなく腰を下ろします。僕は湯呑みにほうじ茶を注ぎ、彼の前に差し出しました。湯気が、行燈の淡い光に揺れております。


何も聞かない。それが、僕のやり方でした。


沈黙が、店内を満たします。波音だけが、規則正しくその隙間を埋めてゆくのです。行燈の灯りを受けた湯呑みの湯気が、ゆるやかに立ち昇り、天井の木目に吸い込まれては消えます。男は湯呑みを両手で包み込んだまま、中身には口をつけようといたしません。指が、かすかに震えておりました。


どれくらい経ったでしょうか——たぶん、五分か、十分か。


「……友達を、信じてたんです」


男が、俯いたまま口を開きました。


「二十年の、付き合いでした」


僕は、湯呑みを静かに持ち上げて茶を一口含みました。ほうじ茶の香りを感じることはできませんが、温もりだけは手のひらに伝わってまいります。


男——黒崎翔太は、役場に勤める公務員でございました。


二十年の付き合いになる親友と、小さな事業を始めたのだと申します。町の活性化につながる、環境関連の事業でした。黒崎は行政の経験を活かして許認可や補助金の申請を担当し、親友は実務全般を取り仕切りました。うまくいくはずでした。少なくとも、あの日までは。


三ヶ月前、その親友が姿を消したのです。


事業資金の八百万円とともに。黒崎は、借金の保証人になっておりました。


「裏切られたことより……」


黒崎の声が、微かに震えます。


「二十年、一緒にいて……人を見る目が、なかったっていうのが……情けなくて」


その瞬間、鉄錆の香りが変化いたしました。冷たく凝固していた匂いが、ほんの一瞬だけ熱を帯びます——自分自身に向けられた、苦い怒りでございました。そしてすぐに、湿り気が増してまいります。涙をこらえているときの、あのかすかな水分の香り。それらが複雑に絡み合いながら、鉄錆の主旋律を縁取っておりました。


僕は、湯呑みを静かにカウンターに置きました。


「お預かりします」


黒崎が顔を上げました。


「……え?」


「あなたの悩みを、少しだけ軽くすることができます。それだけです」


僕は立ち上がり、店の奥へと歩を進めました。


「こちらへ」


黒崎は困惑した表情で、それでも立ち上がって僕のあとを追いました。店の裏庭に出る細い廊下を抜けますと、そこには月明かりだけが照らす小さな庭がございます。杉の木立に囲まれた、ひっそりとした場所。中央には古い石臼と、樫の木の杵が置かれておりました。


「目を閉じてください」


僕はそう申し上げて、黒崎を石臼の前に立たせました。


「心の中で、一番重いものを思い浮かべてください」


黒崎が、ためらいがちに目を閉じます。頬の筋肉が、何かを耐えるようにわずかに引きつりました。


僕は両手を、黒崎の胸の前に掲げました。


(見える)


鉄錆の香りが、薄い霧のような淡い色彩を帯びて黒崎の胸のあたりから漂っているのが——感覚として、はっきりと捉えられました。冷たい金属の味。冬の海岸で捨てられた工具のような感触。裏切りの痛みと、自責の苦さ。


僕はその見えない香りを、両手ですくい上げるように集め——石臼へと流し込む所作をいたしました。


樫の杵を、両手で握ります。三キロの重みが手のひらに吸い付き、使い込まれた木肌がひんやりと馴染みました。


——トン。


一度目。杵が石臼の底を打つ、乾いた音。


鉄錆の匂いが、かすかに揺らぎました。黒崎の眉が、困惑したように動きます。


——トン。


二度目。杵を打ち下ろす手に、香りの輪郭がほんの少しだけ滲んだような感覚が伝わってまいります。冷たく凝固していた中心部分に、細かな亀裂が入り始めておりました。


——トン。


三度目。湿り気が消え始めます——涙をこらえていたあの水分が、杵の振動で石臼の底から蒸発していくようでした。黒崎が小さく息を呑みます。「……あれ?」


——トン。


四度目。鉄錆の苦みが薄れてまいります。錆が剥がれ落ち、その下からかすかに輝く金属の地肌が覗くような——そんな変化を、感覚が捉えました。黒崎の肩から、かすかに力が抜けてゆきます。


——トン。


五度目。香りを覆っていた硬さが、音を立ててほぐれてまいります。固く縛られた紐が、一本、また一本と解かれるようでした。怒りの熱が、完全に冷めていくのを感じます。月明かりが黒崎の閉じられたまぶたの上に落ち、苦しさが少しずつ面影から去ってゆくのが見て取れました。


——トン。


六度目。杵を持つ手に、はっきりとした手応えがございました。香りが、透明に近づいております。鉄錆はもう、ほとんど残ってはおりません。あるのはただ——かすかな重さだけ。黒崎の呼吸が、深くなりました。


——トン。


七度目。


杵が石臼の底を打つと同時に、鉄錆の匂いが完全に消えました。


透明に、無色に、無味に——すべてが、この一打で溶けきったのです。


静寂。


杉の梢を風が通り抜ける、かすかなざわめきだけが響きます。


黒崎が、ゆっくりと目を開けました。何が起きたのか、まだ理解しきれていない顔——けれど、その目の奥に、驚きと、それから、あたたかな安堵の色が浮かんでいるのがわかりました。


「……軽くなった」


黒崎が、ぽつりと申しました。自分の胸に手を当てて、もう一度繰り返します。


「軽くなった……なんでだろう。何も変わってないのに」


僕は杵を静かに石臼の横に置き、彼のほうを向きました。


「あなたの悩みを、少しだけ軽くしました」


波音が、遠くで打ち寄せております。


「……何も変わっていません。借金も、裏切りも、そのままです。ただ——心の重さだけが、少し」


黒崎はしばらく黙っておりました。それから、ゆっくりと深く息を吐きます。深夜の冷たい空気の中で、その吐息だけがあたたかく白く染まりました。


東の空が、白み始めておりました。


境内の老杉の梢が夜明けの光を受け始め、それまで青白かった月明かりが少しずつ金色に近づいてまいります。店の行燈は、まるで夜の終わりを察したかのように自然と光を弱め、やがてすっと消えました。


黒崎は、深々と頭を下げました。


「……ありがとうございました」


僕はうなずいただけでした。


(「またお越しください」とは言わない)


この店に人が来るのは、心が重すぎるときだけです。その重さが少しでも軽くなったのなら、もう来る必要はない。それが、この店の存在意義でございました。


黒崎の足音が、砂利道を遠ざかってまいります。先ほどとは違います——もう、迷いのない歩調でした。


僕は一人、店の裏庭で石臼を丁寧に拭きました。冷たい石の表面を、布でゆっくりと撫でます。それから杵を持ち上げ、定められた場所に戻しました。店内に戻り、ふたつの湯呑みを盆に載せて片付けます。茶道の稽古で身につけた所作が、自然と手を動かしてゆくのです。


(これが、僕の日常だ)


失ったものは戻らない。変わらないものもある。それでも——誰かの心の重さを、ほんの少しだけ軽くできるのなら。


それでいいと、思っておりました。


カウンターの引き出しを開け、古い帳簿を取り出します。日付と、かすかに感じ取った香りの種類を、簡単な記号で書き込みました——僕だけが読める、僕だけの記録。今夜の欄に、「鉄錆」と記します。


帳簿を閉じようとして——指が、ある名前の上を一瞬なぞりました。


佐伯美琴。


(佐伯さん……あの人の悩みの香りは、いつも同じで、いつも違う)


他の誰とも違う、複雑な香りでした。何層にも重なった花の香りと、その奥に沈む、かすかな煙の匂い。


僕は帳簿を静かに閉じました。


それから、自分の両手を見つめます。月明かりと夜明けの光が混ざり合う薄明の中で、手のひらはごく普通の——どこにでもいる、二十四歳の青年の手でした。


(なぜ、僕だけが)


あの日、神社の裏で何があったのか。記憶には厚い靄がかかっていて、何も思い出せません。ただ——嗅覚を失った代わりに、この力を得たのです。それが偶然なのか、必然なのか。


波音だけが、答える代わりに、静かに打ち寄せ続けておりました。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

この物語を書きながら、ずっと考えていたことがあります。

「消えたい」という言葉は、消えることそのものへの願いではないことが多い。むしろそれは、「このまま誰にも気づかれずにいることへの疲れ」の言葉なのではないかと。

凪は、誰にも認識されないことが自分の本質だと思っていました。でも蓮は、彼女の名前を呼んだ。声を聞いた。指先の温度を覚えた。

それだけのことです。特別な力でも、奇跡でもありません。ただ——気づいた、それだけのことが、あの石臼では砕けなかったものを、少しだけ動かしました。

蓮の嗅覚は最後まで戻りません。石臼の亀裂も、完全には閉じません。それでも二人は「ここにいる」と言えるようになりました。

失ったものは戻らなくても、新しく生まれたものは確かにある——それが、この物語が届けたかったことです。

続きがあるとしたら、町の悩み、あの銀色の朝の話になるかもしれません。

また会えたら、嬉しいです。

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