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夕子 ― 夕暮れの子 ―  作者: りん
episode3 ダウト
32/42

034 再会

 目の前のコンドルを見る。コンドルもまたこちらを見つめている。傘を差す夕子も、開けた扉と建物のあいだに立ちすくむコンドルも、同じぐらいずぶ濡れだ。降りしきる雨は、二人のあいだの沈黙を埋めるかのように、建物の屋根を、窓を、大地を、勢いよく打ちつける。


 そのうちに、空がピカッと光った。

 コンドルのほうへと踏み出した夕子の靴が泥水を跳ねた。直後、空を真っ二つに割るかのような激しい雷鳴が轟き、それに応えるように雨はますます強まっていく。


 夕子は、両手で傘を握りしめながら声を張り上げる。





「べつに、コンドルに会いにきたわけじゃないよ!」




 コンドルの肩がぴくりと動く。




「最近仲の良い子がいて……朝に会ってる子なんだけどね。だから、彼に会いに――」





 突風が夕子の足元をさらい、扉の取っ手をつかんだコンドルの左手を激しく揺さぶった。強風に煽られ、軋んだ音を立てる扉は、今にも吹き飛びそうだ。――彼が引き返してしまう。そんな気がして、急いで夕子は言葉を続ける。





「あのね、私実は――」





 男たちの笑い声が飛び込んだ。ばっと振り返りかけた夕子の腕をひっつかみ、コンドルは閉じかけた扉を素早くつかまえると、無理やり押し込んだ夕子のあとを追うようにして、自身も中に飛び込んだ。

 夕子の背後で扉が閉まった。雨音が小さくなる。


 雨を吸い込んで、重たく湿ったカーキ色のつなぎの胸元が、夕子の目と鼻の先で上下に動いている。頭上から、息を殺し損ねたような荒い息遣いが聞こえる。ぽたぽたとコンクリートの床を濡らしていく水滴が、どちらから滴り落ちたのかわからないほど、身体が密着していた。


 ぐっ、とさらにカーキ色が迫る。それに合わせるかのように、表に響く話し声も近づいてくる。最低でも男が三人。酒を呑んで酔っ払っているような、下品な笑い声を上げ、建物の前を通り過ぎていく。





「……行ったか」

「今のは?」

「イカれた同僚様だよ。アイツらの足りない頭じゃ主人と奴隷の区別もつかないだろうな」





 その言葉の意味をしばし考え、夕子はおそるおそる疑問を口にした。





「じゃあ……助けてくれたの?」





 コンドルの顔を見据える。期待と不安、それに緊張によって情けなく動きそうになる口端に力を込め、夕子はなるべく平然とした顔を装った。予想外の攻撃を食らったような驚きが、目の前のコンドルの顔に広がった。しかしすぐに目をそらし、何も言わず、コンドルは夕子から離れてしまった。


 うしろに動いたコンドルの足に、何かがあたった。投げ出した夕子の傘だった。ひらっきぱなしで、その下に小さな水たまりをつくっている。そのとき夕子は初めて、自分が造血所の中に足を踏み入れたことに気づいた。



 室内は、外観から思った通りの低い天井に、約一メートル置きの等間隔で白熱電球がぶら下がり、窓もシャッターがおりているのか、驚くほど薄暗い。湿った土と干草の香り、それに多少の埃っぽさを抑えるようにして、強烈な薬品の匂いが鼻をつく。床一面を浸したような、消毒用アルコールの匂いが漂い満ちていた。しかしその奥底に隠された、条件反射で喉を震わすあの香りを、夕子は僅かに感じ取った。



 声が聞こえる。左手の奥からだ。

 覗き込もうとしたとき、右肩を濡れた手につかまれた。





「なに……? 友達に会いにきたって言ったでしょ?」





 深刻な顔をしたコンドルに、夕子はぎこちない笑顔を返す。





「あっちにいるのかも。知ってる? 名前は……」

「帰れよ。仕事の邪魔だ」

「中に招いたのは誰だった?」





 思い出したのか、コンドルの表情が曇った。まるで本当に後悔しているというような顔で、呟く。





「失敗だったな」

「やめてよ」




 と、今度は夕子が顔を曇らせた。少し前のコンドルの言葉を思い出していた。



 何度目かになる沈黙は、そう長くは続かなかった。

 また声が聞こえたからだ。今までで一番はっきりと、強く、名前を呼ぶ声がする。

 夕子はすぐさま振り返る。





「あの声はなに?」

「……知ってどうすんだよ」

「だってコンドルの名前呼んで――」





 突然、悲鳴が走った。


 助けを呼ぶ声だ。弾かれたように夕子は身体をこわばらせ、はっとして僅かに足を動かすまでのあいだに、それはすすり泣く声に変わり、一瞬の静寂を置き、鋭い叫びに変化した。すぐにまた泣き声に戻る。それからは叫びと泣き声、静寂が不規則に繰り返され、最後にコンドルの名を何度も呼んだ。いつしかそれも徐々に掠れ、小さくなり、あとはもう微かな音しか届かなかった。



 見上げたコンドルの顔はとても暗く、底の知れない闇を映していた。おもわず顔を下げると、きつく握りしめ、震えるコンドルの拳が目に飛び込み、夕子はそっと視線をそらした。コンクリート床に染みを見つけた。ドス黒く変色した古い血痕。夕子は目を閉じた。





「……やっぱりな」





 吐き捨てるようなその声に、おそるおそる顔を上げる。

 ふたたび手をつかまれた。無理やり傘を握らされ、ドアの外へと押し出される。

 眩しさにくらんだ視界の先にコンドルは立っていた。





「わかんないよ、なんで……」





 こないだまではうまくいっていたはずだ。それなのに、手を伸ばせば届くはずのコンドルが、今ではけして触れることができないと感じるほど、遠くにいる。





「なんで? 私なにかした? 怒ってるの?」





 言ってから、ちがう、と思った。怒りや苛立ち、憤りなどではない。もっとべつの――。

 夕子は、溢れ出しそうになる感情を鼻をすすることによって誤魔化した。





「あれなの? プライベートと仕事はわけてます、みたいな? 仕事なら会うけど、それ以外では話すのも嫌だって? ねえだから――」

「……わからない、か」コンドルは口元だけで笑う。「わからないよな、お嬢様には」

「やめてそれ!」





 叫んでも目の前のコンドルには届かない気がした。この雨に邪魔されて掻き消されてしまったのだろうか。――そっちのほうがよっぽどいい、と思った。

 数秒の沈黙さえ怖かった。





「……わかったよ。グイド……グイドになにか言われたんでしょ? だからコンドルは……」

「ちがうだろ」

「じゃあなに!」

「さあな」





 コンドルの手が動いた。慌てて夕子は走り寄る。





「待って!」

「触るな!」





 と振り上げたコンドルの右手が伸ばした夕子の手を払い、そのまま夕子は尻からうしろに倒れ、茶色い水しぶきをあげた。冷たく濡れた感触がスカート越しに広がっていく。


 声も出なかった。見おろすコンドルの顔は驚きと怖れが入り混じったような青ざめた色をしている。昔みたいに、二人は驚いた顔で互いを見つめた。だけどコンドルの顔はしだいに険しくなっていき、奥歯をきつく噛み締めたような歪んだ表情で、夕子を睨みつけた。その奥に、燃え上がる黒い炎を見た。



 それを、夕子は記憶の中で知っていた。



 ばたんと扉が閉まった。コンドルが消えた扉を見据えたまま、夕子は呟くように言う。





「全部……この女吸血鬼の……」





 憎悪だ――夕子は震える指先を唇に当てた。







 すべてが霧で覆われていた。一メートル先もよく見えない。白んだ視界のところどころに、ぼんやりと木の輪郭が浮かび上がっている。

 雨を吸った服は重かった。足取りも重く、濡れた前髪はべったり額に張り付き、身体の芯は冷えきっている。傘は途中で捨てた。こうしているあいだも、絶え間なく雨は夕子に降り注ぐ。

 あたりは暗い。あれからどのくらい経ったのか、今が夜かさえわからない。見上げた空はやはり白で埋め尽くされていて、時折、鳥が羽ばたく音が遠くに聞こえた。


 ふいに、夕子は足を止めた。

 記憶にない場所に出た。道を間違えたのか、目の前に広がるのは初めて見る湖だった。大きさはわからない。暗い空を映したような水面に大きな雨粒が叩きつけらている。それをじっと眺めていた。




 それからまた長い時間が過ぎた。


 冷たさが気にならなくなってきた。麻痺してしまったかのように、何も考えられない。考えたくない。それなのに、さきほどの光景が何度も頭に浮かんだ。いったい何が起きているのだろうか。


 まぶたをこすっていた夕子は、近づいてくる足音に気づくのが遅れた。

 枝を踏む音が聞こえ、急いで振り返ったときには、すでに飛び出していた茶色い丸い物体がこちらに向かっていた。うさぎだった。正面に広がる湖に気づくと大慌てで旋回し、あっという間に去っていく。


 夕子は、うさぎが消えていった闇の先を見つめた。するとまた音が聞こえた。

 さきほどうさぎが飛び出した付近の大きな葉が、がさごそ揺れている。そして現れた人物を見て、夕子は目を疑った。





「夕子様……?」





 雷に打たれたような驚いた顔。大木に手を添えた青年は呼吸も忘れ、凍りついたようにこちらを見つめている。

 雨音が耳を打つ。

 降りしきる雨の中、それが、レイとの再会だった。



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