033 梅雨
ぽつりぽつりと降り出した雨はやがて勢いを増し、大粒となって地面を叩いた。時折、地を這うような雷鳴とともに窓が光る。梅雨入りだ。あれほど望んでいたのにもかかわらず、今となっては夕子に喜びをもたらすどころか、もう一つの懸念材料とともに、夕子の心を重く湿らすだけだった。
少し前に感じた小さな引っかかりは、いつからか正体不明の違和感へと変わっていた。もはや見逃すことなどできない。時が経つごとにそれは違和感から不安へ、不安から漠然とした疑念へ、そして焦燥感へと姿を変えていく。
何かがおかしい。だけど何がおかしいのか思い出せずにいる。それが、もどかしい。
夕子はだだっ広い部屋の中をぐるぐると歩きまわった。近づいてくる夜が無性に不安で、じっとしているのが苦痛だった。こんなとき、コンドルが傍にいてくれたら、胸の内をすべて打ち明け、くだらない笑い話に変えることもできたかもしれないのに――。
はっとして立ち止まる。急いで窓辺に駆け寄る。
「……そうだ、コンドルに会いに行こう」
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。コンドルが忙しいのなら、こちらから会いに行けばいい。造血所はいつでも門がひらかれているのだから。
夕子はガラス窓に薄っすらと映る自分の顔を見つめた。その暗く沈んだ顔に、大丈夫だと励ますように、笑顔をつくる。けれど目の前の少女は、あいかわらず辛気臭い顔をして、無言でこちらを見返していた。
屋敷を出たとき、だいぶ日は陰りはじめていた。
誰にも会わないようにと、夕子は慎重に行動した。もしもリンドウに見つかったらそこで終わりだ。どんなに抵抗したところでかならず連れ戻されるだろう。同じ理由で使用人の姿も避けた。そのかいあって、夕子は誰にも見咎められることなく、広大な敷地の東側に位置する、最辺境の手前まで辿り着いた。
目の前にそびえる鬱蒼とした森を見上げる。無意識に傘の取っ手をぎゅっと握っていた。緊張したように口元が引きつっていくのを感じる。話には聞いていた。だけど――。
横なぐりの雨は踏ん張る夕子を目がけて容赦なく打ちつけ、吹き荒れる強風は地響きのような低い唸りを上げ、狂ったように暴れる傘をかっさらおうとする。それを、大きな口をぽっかりあけて待っている巨大な怪物――この森の入口が、恐ろしい息遣いとともに吸い寄せようとしていた。
見ると、大人三人が並んで通れるほどの広いでこぼこ道が、徐々に幅を狭めながら真っ直ぐ闇へと続いていた。目的地はおそらくこの先にある。だとすれば、これはさながら地獄への入口というわけか。
夕子は辿ってきた道を振り返る。明かりのついた屋敷が遠くに見える。今頃、夕子が部屋を抜け出したことに気づき、探しはじめているかもしれない。
ためらいはあった。しかし、それを振り払うように夕子は最初の一歩を大きく踏み出した。
中は一段と暗く、そして静かだ。
雨音が遠く、降り方も穏やかなのは、頭上高くに生い茂る樹木が雨の勢いを殺しているからだ。手付かずの自然が残っていた。生えっぱなしの草や、雨で揺れる大きな葉。木々の間隔が狭いところや道に向かって伸びているところでは何度も傘をぶつけ、そのたびに夕子の口から短い悲鳴が上がった。ぬかるんだ大地に足を取られ、あやうく転倒しかけたときもそうだ。険しい道を進みながら、ひょっとしたら自分が知らないだけでどこかべつの舗装された道があるのかもしれないと、夕子は思った。
雨はさらに強まり、徐々に霧も立ち込めてきた。じきに日も落ちるだろう。すでに空からは光が遠のきつつある。
自然と足は速まり、それからまたしばらく経った頃、突如前方に強烈な光が広がった。
ひと目で、それが造血所だとわかった。
そこだけ森を抜けたかのように視界がひらけていた。実際はまだ森のど真ん中だ。ライトアップされたのは時間帯によるものなのか、広い敷地内に前後で並んだ二棟の建物を囲むように、四隅の低い位置から白い光で照らされている。建物の外観は、細長くて平たい宿舎のようなもので、質素な洋風の造りだ。後方のほうが収容所として使われているのだろうと夕子は直感的に思った。前方のよりいくらか長さのあるかわりに屋根はずっと低く、見たところ窓の数も少ないのだ。
ということは、使用人のコンドルは手前の建物にいるはずだ。
夕子はおそるおそる近づき、窓の外から中を覗いた。しかし曇りガラスのせいで少しも様子を窺うことはできない。ほかの窓も似たようなものか、中には強い光を嫌ったように、ベニヤ板が打ちつけられているところもある。
しかたなしに、夕子は右端の扉の前に立つ。ノックするのは緊張した。が、反応はない。留守だろうか。
建物を見上げながら、そのままため息混じりに後退する。煙突から煙が流れている。可能性としては、ここにどのくらいの使用人が暮らしているのかは知らないが、全員揃ってうしろの収容所に出払っていると考えるのが、一番しっくりくる。
足取りは重たく、気分も悪かった。水を吸い込んだ靴下が、今になってひどく気持ち悪く感じた。いつかのコンドルの言葉が耳に蘇る。――みんなには悪いけどさ、こうして少しでもあそこから離れられて内心喜んでんだぜ? お前が呼んでくれなきゃ一生あそこから……。
中はどうなっているのだろう。やはり目を覆いたくなるほど凄惨な光景が広がっているのか。ここで待っているべきか、それとも――。
パキッと乾いた音がやけに大きく耳についた。枝を踏んだのだとわかるとほっとして一気に肩の力が抜けていく。息を洩らしながら顔を上げ、夕子は大きく目をひらいた。
久しぶりなのにちっとも変わっていない。
「コンドル……!」
驚いたように目を丸くするコンドルが、今出てきた扉を押さえたまま固まっている。その背後から物音が聞こえるが、雨に掻き消されてはっきりとは聞き取れない。
夕子は小さく息をついて小走りで近づく。コンドルが叫ぶ。
「帰れ!」
「は?」
「なんでここにきた!」
ぴたっと足が止まる。傘を持っていないほうの手で、濡れて束になった髪を耳にかける。そうすれば、今度こそ正しい言葉が聞こえるのだというかのように。
コンドルのエメラルドの瞳がやさしく細められて、夕子はまた胸を撫で下ろし、その重たい足をゆっくりと運ぶ。それを、大きな吐息が制止した。
「帰れって、言ってんだろ?」




