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夕子 ― 夕暮れの子 ―  作者: りん
episode3 ダウト
30/42

032 既視感

 六月の第ニ週を終えても青空は続いていた。もしかしたらこのまま梅雨はやってこなくて、ずっとお茶会日和が続くのではないかと、最近ではそんな風に思うこともある。そしてここのところ、新しい朝の日課ができつつあった。

 ノックの音が響く。あいかわらずの趣味の悪いドレスに辟易しながら袖を通し、夕子はドア越しに応答する。





「お嬢様、失礼いたします」





 その声とともにドアがひらき、現れたリンドウが頭を下げる。その瞬間を狙って、素早く夕子は訊ねるのだ。





「ねえリンドウ、今日こそコンドルは……」

「仕事が立て込んでおります」

「またぁ?」





 つい声を荒げてしまう。

 頭を下げたリンドウはその体勢のまま、申し訳ございません、と抑揚のない声で言った。夕子はそれに荒々しい鼻息で返す。もう長いことコンドルに会っていなかった。

 さすがに限界だ――この日ついに夕子の中で何かが崩れる音がした。





「立て込んでるって……なにかあったの? あそこで」

「そうです。なにかありました」

「なにが?」

「詳細にお聞きになりますか」

「もちろ」

「造血所で起きた出来事について、詳細にお聞きになりますか」





 強調してそう訊いてくるのはやはり意図的にだろう。そうとわかっていながら夕子は言葉に詰まり、けっきょく肩を落として首を横に振るしかなかった。すると奇妙なことに、一瞬だけリンドウの瞳に暗い影のようなものが見えた。

 そんな話を午後のお茶会でアリスにしたのが間違いだった。





「つまりなにが言いたいの」

「つまらないというか……毎日が」

「ふうん」



 と、どうでもよさそうな顔で、アリスは目の前の白いティーカップに口をつけると静かにそれを離した。バラ色の唇が微かに濡れている。アリスの華奢な手がテーブルのほうへと伸びる。





「たぶん慣れたのかも」

「へぇ?」

「慣れたんだと、思う」





 呆れられているのかもしれない。ナプキンで上品に口元を拭うアリスは何も言わなかった。

 夕子は、目の前のアリスをこれ以上呆れさせないようにと口をつぐんだが、頭の中ではそのことばかりを巡らせていた。

 退屈だ――と。


 きっと前からそうだった。なにも今に始まったことではない。だけど単調な毎日が最近特につまらなくなったのは、やはり友人のコンドルと会えないせいだろう。



 毎日が、同じことの繰り返しだ。


 朝目覚めると窓から空を眺め、ため息混じりに趣味の悪いドレスに着替え、リンドウと短い挨拶を交わす。そうして呼びつけたランタナときっちり一時間過ごすと、昼までの自由時間。時計の針が十二時を回る頃、夕子の部屋には豪華な料理が運ばれてくる。一日一回で事足りるようになった人間のときと同じ食事メニューは、吸血鬼の体ではすぐに満腹になり、かわりに、ワイングラスに注がれた血液をたっぷりと味わう。そして三時になると中庭でお茶会が開催され、夜が深まる頃、部屋にノックの音が響くのだ。一日の終りはグイドに血を吸われて訪れる。


 そこに、変化はない。





「傲慢。刺激が欲しいの?」

「刺激っていうか……メリハリは大事でしょう?」

「恥知らずだね」





 言葉とは裏腹に、アリスの声はどこか面白がっている。

 夕子は、軽いため息をついて椅子にもたれかかった。いくらか雲がかかってきた空を仰ぐ。――平穏。そんな言葉が頭の中に浮かんでくる。少しだけ冷たい風が横髪を揺らして通り抜けていくと、湿った大地の匂いを微かに感じた。


 また小さく息をついた夕子を見かねたように、アリスの口から飛び出したのは、意外な言葉だった。





「いいよ。連れてってあげる」

「え?」

「退屈なんでしょ」





 呆気にとられたように瞬いて、夕子は相手を見つめる。

 アリスはくすりと笑うと前に乗り出した。反射的に夕子は身を引く。両肘をテーブルにつき、手のひらを頬に当て、それから、アリスは初めて見せるような友好的な笑みを浮かべ、言う。





「ちょうど僕も退屈だったんだ。君の望みを叶えてあげる」

「ほんと? じゃあ――」





 暗闇が視界を遮った。ひんやりとした感触。すうっと鼻孔に流れてくる香り。――覚えがある。

 硬直した夕子のすぐうしろで、聞き慣れた声がした。





「やあ。麗しい集まりだね。私もいいかな」

「もうグイドってば!」





 夕子は叫ぶ。

 グイドは目隠したその手をどかすと、愛想よく二人に笑いかけた。夕子はぶすっとして腕を組み、アリスの顔からは微笑みが消え、いつもの不機嫌な顔に戻っている。しかしグイドはお構いなしだ。





「今日の議題はなにかな? 美味しい紅茶かクッキーか……それとも美しいバラの話かい? まさか、この屋敷の気品溢れる主人というオチでは……」

「誰かと思いました」

「ふふ」

「もうここにはこないものとばかり」

「それはいけないね」





 グイドを見つめるアリスの瞳に鋭さが増す。が、すぐに観念したかのようにすっと目線を下げると、かわりに睨みつけたのは夕子だった。冷たい視線に夕子はたじろぐ。

 事態を飲み込めずに困惑する夕子を庇うように、グイドは夕子の肩に片手を置き、一歩前に進み出た。大袈裟に肩をすくめて首を横に振る。





「反省するよ。君に顔を忘れられてしまったら悲しいからね。仕事にばかりかまけるのは控えるとするよ」

「グイドのとこもなにかあったの?」

「ふふ、夕子が気にするようなことはなにもないさ」

「どうだかね」と冷たく言い放ったのはアリスだ。





 グイドは小さく微笑んで、丸いガーデンテーブルに沿うようにして反対側に移動した。アリスはもう睨んでこそいなかったが不機嫌なのは変わらずだ。椅子に背中をくっつけて、夕子からもグイドからも顔を背けている。


 どうするのだろうと見守る夕子の前で、グイドはちょうど優雅に一礼するように左手をうしろに当て、軽く腰をかがめた。そして、おもむろに右手を伸ばすとアリスの金色の髪を一房すくい上げ、吸い寄せられるように、その端正な顔が近づいていく。





「……悪いけど私はアリスに用があってね」





 ぴたり、とグイドの動きが止まったのは、その口元がアリスの髪に触れる寸前のことだった。

 体勢を戻したグイドが振り返る。白いグローブからさらさらと金色の髪が滑り落ちていく。





「楽しいお茶会はこれでおひらきとしよう。夕子は先に部屋に戻ってなさい」

「でも……」

「いいね?」





 言い聞かすよりもずっと強い物言いに、夕子はぐっと押し黙る。

 ややあって、諦めるようにそっと息を吐き出した。





「仲間はずれ反対なんだけど」

「誰が仲間?」

「ひどーい! アリスのばー……かじゃないけどさ」





 慌てて立ち上がり、グイドの横をすり抜けた、そのときだった。





「夕子」

「ん?」

「待ってておくれ。今宵もきっと君の部屋の扉を叩くから」

「はいはい。はらぺこ吸血鬼さん」





 グイドのうしろで明後日の方向を見つめたアリスの頭が動く気配がして、今度こそ急いでこの場を離れようとした。しかし、そう進まないうちにふと疑問が頭をもたげた。あれ、と思った。それは小さな引っかかりだ。不思議な感覚。前にもこんなことがあった気がしたのだ。

 自然と足が止まり、なんの気なしに振り返った。





「っ……!」





 ぞくりとした。慌てて顔を戻し、逃げるように足早に去っていく。角を曲がり、中庭から見えなくなってからは、走り出した。


 なんか嫌だ、嫌だ、嫌だ――。


 ガーデンテーブルの二人は、なんだかとても恐ろしいような、ひどく冷たい目をして、こちらを見ていた。





 部屋に着く頃には、そんなこともすっかり頭の隅へと消えていた。きっと、ふと視界に入った花瓶に目を留めなかったらそのまま忘れていただろう。

 白い陶器の花瓶が、テーブルの中央に載せられていた。そこに、あの日以来毎晩グイドから贈られる赤いバラがいくつも咲いている。そういえば、と突然夕子は思い出す。


 あのとき、何かを忘れている気がしたんだ。


 そのこと事態をずっと忘れていた。だからその程度のことなのだと夕子は自分に言い聞かせた。その一方で、なんだったのだろうという疑問の嵐が頭の中で止まない。――忘れるようなことだ。だけど気になる。そんな相反する感情がせめぎ合えば合うほどけっきょく気になって、考えずにはいられなくなった。そして思い出すのは、さきほどの二人の視線。



 あのとても冷たい目――。



 落ちていく言葉にヒントが隠されていて、それを引き出そうとするかのように、夕子の口が無意識に言葉を呟く。




「なんだったかな……なにか……なにか……」




 低く轟くような音が外から聞こえた。

 カーテンをずらして窓の外を見上げると、あれだけ晴れ渡っていた空に灰色の雲が垂れ込めていた。



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