030 忘却
真っ逆さまに、夕子の身体は落下していた。
いくつもの映像が、通り過ぎていく闇にきらめく。見知った顔。訪れた場所。交わした会話。そして――彼も。
夕子は急いで胸を押さえた。きつく蓋をするように手足を曲げ、小さく丸めた身体を硬くし、何かに駆り立てられるかのように、流れ出る記憶を必死にせき止める。それを滑稽だと嘲笑うかのようなすすり泣く声が、どこからか聞こえてくる。その声は数を増し、声量を上げ、深い闇に紛れてそこかしこから夕子を責め立てた。
どこまでも追ってくる。けして逃れられない呪縛のように、落ちていく今でさえ夕子の身体に纏わりつく。そうして何度も何度も繰り返されるのは、あの日突きつけられたこの身の罪。
『せいだ……全部この女吸血鬼の……』
「聞きたくないっ!」
耳をふさいだ。
瞬間、それまで留めていた記憶が堰を切ったように勢いよく流れ出す。夕子は、両手を耳にくっつけたまま自分の胸に目を向けた。ひと繋ぎの映像が螺旋を描くようにくるくると胸から飛び出し、スカートや長い髪をばたばたとはためかせながら落ちていく夕子が、手を伸ばしてもけして届かないほど高く、高く、闇の空の彼方を目指してどこまでも高く、昇っていく。
泣き声はもう聞こえなかった。
何を恐れていたのかもよく思い出せない。
最後に夕子から抜け落ちた記憶は、憎たらしいほど晴れ渡った青い空。大きな白いパラソルと、ガーデンテーブル。いつものお茶会風景だ。黒いワンピースに白いタイツ、きつくリボンで絞られたウエスト、それに白いタイツという夕子の服装は、二度目のお茶会のときのものだろう。
映像の中では、あの日と寸分違わないアリスが可愛らしい人形のような顔を不機嫌そうに歪め、バラ色の唇を尖らせていた。ティーカップを片手に、挑発的な視線を目の前の夕子に投げかける。そして呟く。
その声がこちらまで届くことはなかった。だけど夕子にははっきりと聞こえた。気づくと笑っていた。
「そのとおりだよ……アリスは正しかった……」
頭のほうにまばゆい光が現れた。あれだけ濃かった闇はずいぶんと薄れ、白い光の溢れる終着地は目前だ。じきにこの夢も醒めることだろう。そしてまた忘れてしまうのだ。
薄れゆく意識の中で、あのときのアリスの言葉を確かに耳元で聞いた気がした。
――とてもそんな風には見えないけどね。君の言葉はどうしてか薄っぺらい。紅茶に見せかけたお湯のようにね……。
限界だ。急速に現実の流れに引き戻されていく。白い光に包まれてすべてが曖昧になる。闇が遠のき、そこで、ふっと夕子の意識は途切れた。
はっとして目を開けた。
夜だ。
僅かな月明かりすらなく、あたりはまったくの闇に覆われている。なんの音も聞こえてこない。体は仰向けで横たわっているがここはどこだろう。ずっしりと重い頭では、その問いにすぐに答えを弾き出すことはできなかった。
しかたなく夕子は、意識を緩めるとくっつきそうになるまぶたを開いては閉じ、開いては閉じ、とのろのろ動かしてみる。しばらく繰り返しているうちにまぶたの厚みが取れたのか、素早い動作ができるようになった。そのまま何度か目をしばたたかせてみる。
眼球がしっかり動き出すのを待っていたかのように、同じタイミングで夜目が効いてきた。暗闇に薄っすらと浮かぶ風景には見覚えがある。天井。部屋の天井ではなくベッドの天井。もっと言えば、豪華な天蓋付きベッドのそれだ。
ということは、ここは自分の部屋なのだろう。
次に湧いてきたのは、いつのまに眠ってしまったのだろうという至極当然な疑問だった。まだ頭の芯が目覚めきっていないせいか、時間の感覚がひどく曖昧だ。長いあいだ眠っていたように、今がどれぐらいの時間なのか、そもそも今日が何月なのかも思い出せない。とはいえ心配はいらないのかもしれない。
目の次は鼻だった。鼻詰まりというわけではないが、なんの反応も示さなかった鼻孔が急にひくひく動き始めた。どうやら何かを感じ取ったらしい。まだ感度が戻っていないので、その匂いの正体に辿り着くまでにいくらか時間を要した。それでも、やがて夕子はその答えに思い至った。
色っぽい艶のある華やかな香りは、間違いない、バラだった。
滞っていた血流が一気に流れ出したかのように、身体の感覚をどんどん取り戻していくのを感じた。重みにも気がついた。
何かが体に乗っかっている。それは意思を持った生き物の類らしく、夕子の上で小さく動き、そのむずがゆさに夕子は慌てて目線を下げ、ぎょっとした。
銀色の頭が首元で動いている。
「グイド!」
そう叫んだ直後、首筋に痛みが走った。痛覚までお目覚めだ。鈍く刺すような痛みがなんだか懐かしい。
夕子の驚きなど意に留めるまでもないのか、グイドはいつもと変わらぬ調子で小さく微笑みながら、訊ねる。
「ふふ、ようやくお目覚めかい?」
「ちょっとなにして……」
「君は倒れたんだよ。だから、私が直々に介抱しようと思ってね」
「介抱……?」
そんなばかな、と夕子は耳ではなく、自分の中にある常識を疑った。
「だって血……血飲んでるじゃん!」
「おや驚いたかい? これが私流の介抱なのさ」
「いくらなんでも最低だよ!」
「困ったね……。君に罵られるのもそう悪くはない。むしろ癖になり」
「悪趣味! 変態! バカ! こんのぉ……吸血鬼!」
思いつく限りの罵倒を浴びせてみるが、グイドはにこやかな顔ですべて受け入れるだけだった。子猫のじゃれつき程度にしか思っていないことは、その様子を見れば一目瞭然だ。
勢い余って起き上がった夕子の身体を案ずるように、グイドはそっと夕子の肩を掴んだ。銀色の髪と揃いの瞳に不思議な光を宿してこちらを覗き込んでいる。
「君だって吸血鬼だよ。……覚えてるかい?」
「私のことバカだって思ってるんでしょ? そのぐらい覚えてるよ。忘れるわけないじゃん」
「それはよかった」
グイドに促されてふたたび横になる。
大きな白い手が、枕に載っかった夕子の髪をやさしく梳かすように頭を撫でた。すると、不思議とまぶたが重くなってくる。
夕子は、眠ってしまわないようにとグイドのほうに寝返りを打った。
「私なんで倒れたんだっけ……」
「ただの貧血さ。おそらく血が不足してたのだろうね。次からは摂取法だけでなく、量についても指導していくから安心するといい」
「えぇーそんなぁ……」
「他に疑問はないかい?」
そう問われてちょっと考えた。
体はまだ少しだるい。もしかするとそれは、今さっきグイドに血を吸われたせいかもしれない。それ以外の調子はいつもとほとんど変わりないように思える。眠気もなんとか追い払えそうだし、頭もしっかり働いている。だけど、一つだけ気になるのは――。
夕子は額に手を当てる。すぐに「おや?」といった顔がこちらを向く。問いかけるようなその瞳が本当に尋ねてくる前に、夕子は考えながら口をひらいた。
「うーん私やっぱなんか忘れてる気がする……なにか……」
「なにか?」
「そう、なにをだろう?」
夕子とグイドは顔を見合わせた。すぐに夕子は小さく舌を出す。
「たぶん、くだらないことだね。忘れるぐらいだし」
「そのとおりさ」
グイドの大きな手がまた頭の上に降ってきた。夕子の長い黒髪を指先に絡め、指のあいだからさらさらとこぼして弄んでいる。それを何度か楽しんだ後、名残惜しそうに髪に唇を落とし、そっと離れていく。
「仕事が残ってるからね。私はこれで失礼するよ。――そうそう」
天蓋カーテンを片手でよけ、こちらに背中を向けたグイドが、思い出したかのように声を上げた。夕子は黙って続きを待つ。
輝く銀色の髪を揺らして、グイドの顔が僅かにこちらを向いた。
「君の友人――コンドルだけど、残念なことに、しばらくここには来れないって話だよ。なんでも本業が忙しいらしくてね。この際だ、君は二番目の男でも見つけておくといい」
「ちょっ待って……!」
最後の最後にそんな爆弾を投下し、グイドは颯爽と部屋を去っていった。
気の重くなるような話だ。へなへなと座り込みたい気分だが、あいにく元々横になっているのでそうもいかない。かわりに夕子は、この闇よりも深くて重い、そんなため息を長々とついた。
目覚めてすぐに感じた匂いの出どころに気づいたのは、それから少し経ってからだった。
枕元に一本のバラが載せられていた。ご丁寧にも枝の真ん中に銀色のリボンが結ばれている。
夕子はおもむろに立ち上がるとサイドテーブルの明かりをつけ、バラを片手に入口のほうへ向かった。ところが、テーブルにもチェストにもお目当てのものは見つからない。不思議に思いながらも弱々しい明かりで照らされた室内をぐるりと見回してみるが、やはりその姿はどこにもない。
途方に暮れたように、夕子は手元の白いバラに視線を落とし、そして、誰に言うわけでもなくぽつりと呟いた。
「どこいったんだろ、花瓶……」




