029 小さな海
すすり泣く声が聞こえる……。
そこは、小さな海だった。
波の音や揺らぎはなく、風もない。潮の香りというよりは、どこか塩辛い。まるで涙だ。涙でできた海に、夕子は一人、いつからか二人掛けの小さな木舟に横たわっていた。
夕子は上体を起こして水面を覗き、あっと息を呑んだ。
ここは小さな海で、涙でできていて、しかも――バラの花畑でもあったのだ。
きれいだと思うにはいささか多すぎた。不気味というのがふさわしい。たくさんのバラが水面を余すことなく埋めていたが、その種類や色は無頓着という言葉がピッタリだったし、やはりバラは棘があるからいっそ美しさが引き立ち、枝と葉があるから可憐な花束をつくることができるのだ。ぽとりと花の部分だけ落とされたバラは、数が集まれば集まるほどその失われたものが際立つようで、夕子は漠然とした不安に襲われた。きっとそれは、この場所のせいでもあるのだろう。
静かすぎる。
どこか遠くから聞こえるすすり泣く声が、はっきりと耳を打つほどにあたりは静まり返っている。長い眠りについたように、この閉ざされた世界は時が停滞しているようにさえ思えた。仮にそうだとしたら納得もいく。波がないのも、こんなにもバラで埋め尽くされているのに、その香りを少しも感じないことも。水面を覆うバラは死んだようにまるで生気がない。
夕子はあたりを見回し、僅かに目を見ひらいた。
すこし進んだ先にぽっかりとあいた穴のようなものが見える。よく目を凝らしてみると、それは海面が出ているだけにすぎないとすぐに気づいたが、だからこそ引っかかった。小さな円を描くように、その場所だけバラが浮かんでいないのだ。
夕子はちょっとだけ思い悩んだ。困ったことに舟を漕ぐオールのようなものは見当たらない。波にも期待できないだろう。では、手で漕ぐのはどうだろう。と、夕子がワンピースの袖をまくり上げたそのとき、
「あっ……」
ひとりでに舟は動き出していた。
驚く夕子を乗せた舟は目的地に向かって静かに進んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと、たくさんのバラを掻き分けて前進する。夕子はふとうしろを振り返り、すぐさま前を向いた。辿ってきた道に水面の姿はなく、異様なまでにぴったりとバラで覆い隠されていた。なぜだかそれが、夕子にはとても怖いことのように感じられた。
そして、怖いのはうしろも前も同じだった。
「なに……これ……」
ようやく辿り着いた水面は墨汁を薄めたように黒かった。底は見えない。一切の光もない。これが本当に涙の海だとしたらすごく恐ろしくもあり、同時に哀しくもある。引き返せ、と夕子の頭のどこかが警鐘を鳴らす。だけど――。
「っ待って……!」
気がつけば、夕子の手が伸びていた。指先が冷たい水面に触れる。途端にぞっとした感覚が這い上がってくる。ぐらり、と身体が傾き、それから、暗い海に飲み込まれて――。
その闇に、見覚えのある顔が揺らぐのを見た。
夕子は叫んていた。
彼は、泣いている。
◆◆◆
「いやぁあああああ!」
ほとんど悲鳴のような叫びと、何かが壁にぶつかる派手な音。続いて、陶器らしきものが落下して砕け散る音が聞こえ、短い怒声が上がった。
シックな紫の床が目に飛び込んだ。少し視線をずらすと、砕け散った花瓶の破片と、バラバラになって壊れた椅子が目に入る。真新しい黒色だ。そこに人影が差したかと思った直後、力強い腕に手を掴まれた。
「っ離して!」
振り払おうとした拍子に、夕子の手から何かがぼとっと落ちた。それは、黒い木の塊だった。小さな苺が彫られた木片であり、床に散り散りになって壊れた椅子の背板にほかならない。
夕子は肩で息を繰り返しながら、やがて顔を上げた。
部屋は荒れ果てていた。椅子や花瓶だけでなく、飾られた調度品やガラス窓までもが破壊され、突風に見舞われた後のように、奇妙な静けさが漂っている。その中に、ただ一人の友人の姿を認めた。ズタボロに引き裂かれた、ベッドの天蓋カーテンの横に、その人物はいた。
愕然としている。傷ついた肩を押さえるようにしてこちらを向くコンドルの顔には、引っ掻かれたような赤い線がいくつも浮かんでいる。
夕子ははっとして、息を震わせながら自分の手を見下ろした。そこでやっと、白いグローブに掴まれたままであることに気がついた。
こんな状況にもかかわらず、グイドはいつもの穏やかな微笑みを絶やすことはなかった。それがなぜだか夕子には、とてつもない裏切りに見えて、さらなる焦燥感に駆り立てられた。
「吸血鬼なんて最低! もうやだ! やめる!」
そう叫ぶと、「残念だけれど……」というようなことをグイドはやさしく言い含めるように口にした。
夕子はグイドの体を力任せに押しのけた。
「なんで……なんで私を吸血鬼にしたの! 頼んでない! どうにかしてよ!」
離れたところでコンドルが何かを叫んだ。それを、グイドは振り返らずに片手を上げるだけで黙らせると、やはり微笑みを崩さず静かに首を横に振る。
夕子の声が、途端に涙で滲んだ。
「ほんとに無理なの……? だったら……私……」
キィと音を立てて背後のドアがひらいた。反射的に首をひねると、入り口に立つメイド姿のリンドウの隣で、アリスがうっすら笑っている。バラ色の唇が音もなく刻まれる――や、め、れ、ば?
夕子はぎゅっと唇を横に引き結んだ。一歩、二歩、とゆっくり後ずさりながら一同を見回すように顔を動かす。アリス、リンドウ、コンドル、そしてグイドの順にその顔を確認する。吸血鬼の姿を強く目に焼き付ける。みんなもまた、それぞれが異なる表情を浮かべて夕子を見つめていた。
かたん、という小さな音とともに夕子のおしりに軽い衝撃が走った。机にぶつかったのだ。視線を外さずうしろ手に引き出しの取っ手を探る。すぐに見つかる。
気づいたのか、グイドの顔から初めて笑みが消え、こちらに向けて踏み出したが、そのときにはもう夕子は絶叫にも近い声を響かせていた。
「いいよだったら……死んでやる!」
素早く身体を反転させると同時に引き出しを滑らせ、闇雲に掴み取ったカッターの刃を一気に出すと、悲鳴と、いくつかの叫び声が聞こえた。
◆◆◆
叫び声が途絶えることはなかった。
夕子は石造りの長い廊下を走っていた。走って、走って、走って、それでも声は追いかけてくる。恐ろしいまでに高い天井も、左右から迫ってくると錯覚するほどに大きな壁も、冷たい靴音を響かせる床も、すべて石造りで、日の当たらない廊下は昼間だというのに薄暗く、たいまつが灯されている。人の気配はなく、薄汚れた壁には、足を絡ませながら逃げ続ける夕子の影だけが浮かんでいる。
叫び声はしだいに小さくなり、やがて曲がり角に入るとともに完全に聞こえなくなった。しかし夕子の足は止まらない。耳の奥にまだあの身を裂くような悲鳴と叫びが残っていた。
ようやくその足が止まったのは、だいぶ後になって、前方に大きな扉を見つけたときだった。
出口だ。
年季の入った木製の両開きの扉だった。厚みがあり、頑丈そうで、なにより夕子の背丈の何倍もの大きさがある。黒ずんだ焦げ茶色だったが、今はやわらかな光を浴びて白く浮かび上がっている。
見ると、右手の壁の上部に小さな四角い窓が一つあった。窓といっても、石の壁をくりぬいただけの簡素なものだ。ガラスや鉄格子もなければ窓枠すらなく、直接外と繋がっている。そこから、穏やかな光がこの暗く陰気な廊下に射し込んでいた。
近づくと、光のシャワーが全身に降り注いだ。暖かくて、やさしくて、ほっとする。張りつめていた空気が穏やかになるとともに、緊張した身体からも力が抜けていくのがわかった。早くこの場所から出た――。
「っ……!」
衝動的にワンピースの胸を掴み、喘ぎ、赦しを請うように夕子は、四角く切り取られた青空を仰いだ。その歪んだ顔に太い光の束が降りかかる。
まばゆさに、夕子はまぶたを閉じた。
◆◆◆
まぶたをひらく。おかしそうにクスクス笑う声が聞こえてきた。
夕子は声のするほうを振り向こうとし、おもわず「うっ」と短く唸り、慌てて顔を伏せた。それから少ししてもう一度、今度はゆっくりと顔を上げ、忘れずに目を細めた。
眩しい……。
春先の中庭はまだ少し肌寒く、その分空気はとても澄んでいる。そのせいなのか、空の青さが痛いぐらい目に強い。僅かにだが風がある。狭まった視界の端で、束ねられた銀色の長い髪が静かにそよいでいる。
毛先の短い薄緑の芝生を、夕子とグイドは並んで歩いていた。
夕子は薄いジャケットの下で身を縮こまらせながら、隣ではためく白いコートを見つめて、ふと訊ねてみる。
「そのアリスってどんな吸血鬼?」
「おや、気になるのかい?」
「まあね」
と夕子が不服そうに唇を尖らせて答えると、グイドは拳を口元に当ておかしそうに笑った。夕子の顔がむすっとする。
グイドは軽い調子で謝りながらも笑うことはやめず、そうこうしているうちに白いブーツがおもむろに止まり、それから夕子のほうをちらりと向いて
「ふふっ会えばわかるよ。……さあ」
すっと白いコートの腕が上がる。険しく細められていた夕子の目がいっぱいに見ひらかれる。また笑い声。予想通りだとでも言いたそうにグイドの肩は揺れている。
グイドは、中庭に設けられたガーデンテーブルのほうを手のひらで示したまま、こんな風にそれぞれを紹介してみせた。
「美しいビスクドールと見間違うのも無理はないさ。紹介しよう、アリスだ。そして彼女が私の愛しい娘――夕子だ」
その後もグイドの言葉は続いたが、その内容はおろかグイドの声もちっとも頭に入ってこなかった。夕子は最初の衝撃から抜け出せずにいた。不思議なことに、大きな白いパラソルの下でテーブルに両肘をつき、手のひらで小さな顔を支えた相手も同じように見えた。長いまつげで縁取られた大きな瞳を、じっとこちらに傾けている。
時間にしてほんの数十秒のことだったろう。夕子もアリスも一度も瞬きをすることなく互いを見つめていた。そして、その均衡はふいに破られる。
大空を称え始めたグイドの目を盗むかのように、アリスは小さく手招きした。あまりにも優雅に微笑を浮かべるものだから、夕子はどきっとしてしまう。ぎこちなく足を動かしてパラソルの下に近づき、誘われるがままに腰をかがめ、激しく胸を動揺させながら美しい顔にそっと耳を寄せた。
バラ色の唇が早口に言葉を紡いでいく。
驚いて離れた夕子に、人形のように可愛らしいアリスはにこりと微笑んで、微かに首を傾げてみせる。
「――どうする?」
それに戸惑いながらも答えようとした夕子の身体を、うしろから現れた二本の腕が引き止めた。
夕子は振り返る。
◆◆◆
気がつくと、あの最初の部屋に横たわっていた。
視界は白く霞んでいたが感覚でわかった。やけに底冷えた空気も、ブーンと低く唸る無数のテレビの音も、なにより咽るような鉄の臭いも、ひどく覚えのあるものだ。腹部の鈍い痛みにしたってそうだ。苦しいのに呼吸は浅く、息も絶え絶えで、あの日と同じように夕子は死にかけていた。
だけどこれは――
夢だ。
夕子の意識がはっきりとそう告げる。長い夢を見ているのだと。
その証拠に、だんだんと眠りが浅くなっていき、もうじき覚醒しようとしているかのように頭は明瞭だ。起きているときと同じか、いやそれ以上にきちんと働いている。例えるのならば、長いあいだ暗く覆っていた霧が晴れたようにさっぱりとしている。
全部、覚えている。
いいや。
全部、思い出した。
コツコツと靴音が響き、近づいてきたその人物の顔が闇に浮かぶやいなや、夕子は叫ばずにはいられなかった。
「グイド! 私、全部全部思い出した!」
体を起こそうとしたがうまくいかない。動けない。金縛りにあったように指先ひとつ思い通りにならない。
それでも、口はまわった。
「わかってるんだよ! グイドが……グイドが私にしたこと!」
グイドは何も言わなかった。当たり前だ。これはただの夕子の夢で、過去の記憶をなぞっているだけにすぎない。この先の展開を覚えている。グイドの血を飲まされ、鬼化し、そして吸血鬼になるのだ。
「ねえ! グイドどうし……」
ふっ、とグイドの顔が微笑んだ。やさしく、悲しい、そんな微笑みに夕子は言葉を失う。
グイドは膝をつく。白いコートが赤く染まることなんて微塵も気にかけず、やさしく夕子の上体を抱き起こし、額に張りついた前髪をそっとはらう。そして――。
ぐっ、とグイドの牙が夕子の首筋を貫いた。夕子は目を見張る。熱い血がゆっくりと流れ出ていく。
「グイ……ド……?」
その言葉に反応したかのように、グイドの目がすっと上がった。その瞬間、夕子は悟った。
「やめ」
「これも夢だよ。悪い夢なんて全部忘れなさい」
いつかの言葉が繰り返される。それはまじないのようであり、願いであり、けして抗えない命令だ。
グイドの言葉に従うように、周りの景色が揺らぎはじめた。崩れゆく世界でグイドは微笑んだままこちらを見つめている。夕子の叫びは声にならない。届かない。
ふたたび濃い闇が夕子の身体を絡めとった。




