025 衝撃
なんとなく照れくさい空気になってしまった。あれきり夕子もレイも口を閉ざし、会話は途切れたままだ。二つの足音だけがあたりに小さく響いている。
長い廊下を抜けて外に通じるドアから中庭に出ても、その沈黙は変わらなかった。途中、通り過ぎたメイドに会釈されても同じだ。
そうこうしているうちにガーデンテーブルの前に辿り着いた。
もぬけの殻だった。
「……いませんね」
「どこ行ったんだろう?」
立ち止まったレイを追い越して夕子はテーブルに歩み寄る。慌ててレイが顔をそらすのがわかった。申し訳ないと思いつつも、すこし前まで自分が座っていた椅子の横に立ち、テーブルを見下ろす。
いじった形跡がない。
グイドに追いやられて席を立ったときと同じ状態だ。ティーカップの残量も、アリスがまったく手をつけなかったクッキーやケーキの余りもそのままだし、新しいカップの姿だって見られない。二人で楽しくお茶会をしていると思ったが、そういうわけではないらしい。
夕子は振り返る。
「心当たりありませんか?」
「いいえ、自分にはわかりかねます」
そりゃあそうだ、と夕子はわかりきった質問をした自分に突っ込みを入れる。
レイはすっかり困惑しているようだった。顔をそらし、さらに俯いているので表情は窺えないが、その程度のことなら夕子にも推察がついた。この短時間過ごしてみて知ったレイの性格からすると、徒労に終わってしまった夕子のことを気に病んでいるのだろう。べつにレイが悪いわけでもないのに。
思ったとおり、レイは深々と頭を下げた。
「お役に立てなくて申し訳ありません」
「いえいえ巻き込んでしまってすみません」
「そんな、自分は……」
「あれ?」
そう言うと夕子はぐるりとあたりを見回す。つま先立ちをし、片手を額にかざして、三百六十度全体に首を伸ばす。その気配を察したらしく、何か言いかけたレイを素早く「しっ」と黙らせ、夕子はギリギリまで目を細めた。
なにも見えない。しかし音は聞こえる。
微かな話し声――。
「あっちです」
と夕子は左手の遠くのほうを指差した。そこに小さく見えるのは、さきほど廊下から見たバラのアーチだった。となると、使用人だと思った二人はグイドとアリスだったのか。
夕子を見下ろすことはできないレイも、真っ直ぐ伸ばした腕なら問題ないらしい。
「グイド様の……ローズガーデンですか?」
「たぶんですけど。一瞬声が聞こえたような気が。レイさんはどうですか?」
「いえ、自分はなにも……」
「やっぱり気のせいだったのかも」
吸血鬼になって目だけではなく耳もよくなった。とはいえ、先輩吸血鬼であるレイが聞き取れない声を夕子が聞こえたとなると、おそらく勘違いなのだろう。夕子は肩を落とし、ふるふると首を横に振った。
ところが。
「夕子様が聞こえたのならそうだと思います。行ってみましょうか」
「でもまた無駄足になるかも……」
「大丈夫です。夕子様は立派な吸血鬼ですから」
「レイさんはリップサービスの天才?」
慌てた様子で否定しようとしたレイに、夕子は早々と「あ、冗談ですからね」と笑いながら付け加えておいた。
ローズガーデンまでは歩いて三分ほどだった。
むだに広い敷地のわりと奥まった場所に、人目を避けるようにグイドの憩いの場はある。グイドが「私の楽園」と話しているのを何度となく耳にしたことがあるので存在は知っていたし、遠目で確認したことだってある。しかし、こうして間近で眺めるのは初めてだ。第一印象は、緑のドーム。一般に想像するローズガーデンとはかけ離れた姿に、夕子は軽く驚いた。
たくさんのバラが寄せ植えされていた。途中で接ぎ木して、接ぎ木して、そうしてやっと大きなドーム状に形づくられたのだろう。緑のドームの壁は、その名の通り、複雑に絡み合ったバラの枝が生い茂ってできたものだった。そこに赤やピンク、白、黄色など鮮やかなバラが咲いているのだが、その様相はまるで子どもが花をボンドか何かで飾りつけたようにちぐはぐだ。彩りが乱雑なら花の形も多種多様で、まだつぼみも目立つ。美しいかと問われれば夕子は答えに詰まるだろう。
外観からして、中はぽっかりあいた空洞のようだ。おそらく日の当たらない静かな場所。これがどれほどの労力をかけてつくりあげたものか、そしてなんのためにこんな形につくられたものなのか、夕子にはさっぱり想像がつかない。
レイを先頭にしてバラのアーチに近づいた。さきほどあの二人を見た場所だ。おおかた中に入る途中だったのだろう。緑のドームの壁に沿って一周する長いアーチは、唯一の入り口らしい。
一歩足を踏み入れれば、たちまちむせ返るほど華やかな香りに襲われた。先日部屋で嗅いだバラの香りを何十倍にも濃くした匂いに頭がくらくらする。鼻が効きすぎるのも吸血鬼ならではだ。
「でもいい匂い。バラと……」
そのとき、軽い衝撃が鼻先に走った。おもわず潰れたカエルのような情けない声が出た。涙目で鼻を押さえ、目の前の大きな背中を睨み上げる。急に、レイが足を止めたのだ。
「どうしたんです……?」
そう訊ねてみるが反応はない。
いや――。
こっそり首だけ回り込んでその顔を見上げ、夕子は眉をひそめた。
「レイさん?」
一目でわかるほど端正な顔は赤くうろたえていた。まるで熱病だ。
荒い息遣いに合わせて上下する広い肩。だらしなくひらいた薄い唇。苦しそうにひくひくする高い鼻。こちらが驚くほどいっぱいに開いた瞳孔は忙しく揺れ動きながらも一点を見つめている。その視線の先は――。
無意識に踏み出していた夕子の足がふいに止まった。反射的に振り返ってみれば、うしろから伸びてきたスーツの腕が右手をつかんでいる。そのままさらに視線を上げるとレイと目が合った。熱っぽくうるんだ瞳。何かを訴えかけようとしている。唇が震える。
その手を、夕子は振り払った。
駆け出していた。
無我夢中だった。何も考えてなんかいない。頭の中は真っ白だ。それでも、アーチの終わりが近づくにつれて速度はゆるやかになり、しまいには足音を殺して、出口へと近づいた。冷たい空気が肌に絡みつく。薄暗い中心部は底冷えする冷蔵室のようだ。あいかわらず花の華やかな香りは続いていたが、今では空気中に混じるべつの匂いもはっきりと嗅ぎ取れた。それなのに、夕子は目を疑った。
アーチの影に隠れて覗いたその中心部の光景に、喉の奥が震えた。
「っ――!」
「静かに……声……出さないでください…」
囁き声が耳元で告げた。レイだ。追いかけてきたのだろう。
乱れた呼吸を必死に整えながらレイは夕子の腰に回した左腕と、口をふさいだ右手に力をこめる。
「……戻りましょう。グイド様は邪魔されるのを良しとはしません」
「まっ――!」
乱暴に腕を引かれて走ってきた道へと足が動き出す。あまりの力強さに夕子は抗えない。そうでなくとも、さきほど視界に飛び込んできた光景が脳裏にこびりついて夕子の頭を混乱させていた。すぐ前から聞こえるレイの声もどこか遠くで耳にしているように現実味がない。
「申し訳ありません、私が迂闊でした……。アリス様とおられると聞いてもしやとは思いましたが、まさかこちらがその密会場所だったとは……」
「どうして……」
「どうやら、本日の食事はまだだったようですね。ご存知かもしれませんが、グイド様は間接的な摂取を嫌います。だからあのようにして時折、使用人や客人から直接摂るんです……」
あとの言葉は何も耳に入らなかった。
投げ出された細い腕。覆い被さる白いコート。輝く銀色の頭髪。クスクス笑う声。絡められた指。滴る赤。流れ出す赤。零れ落ちる赤。赤く濡れた水色のドレスと、グイドの――グイドの――……。
「なんで……」
「夕子様……?」
「だって……なんで……?」
夕子の震えた指先が、何かを確かめるようにそっと自分の首筋に触れた。




