024 廊下にて
ゆっくりと眉間にしわが寄っていく端正な顔を見て、断られるのだろうと夕子は思った。当たり前だ、とも。足元の青年がそういったタイプでないことはなんとなくわかっていたし、そもそも彼の主は夕子ではなく、グイドなのだ。ふつうに考えれば夕子の誘いに乗るはずがない。だから、レイが渋い顔で小さく息を吸って、静かな声で、申し訳がございませんが、と切り出したときもさほど驚きはなかった。
耳を疑ったのは、そのあとに続いた言葉のほうだった。
「自分はグイド様に怒りを感じてるわけではありません。ですので、一緒になって鉄槌を下すことはできかねます」
「……ですよね」
「なので、同行するということでよろしいでしょうか?」
「えっ――いいの?」
驚いた声を上げた夕子にレイは驚いたようだ。そこでようやく、長らく目を合わせていることにも気づいたらしい。弾かれたように視線を下ろし、レイは小さく頷くと、ですが、と遠慮がちなな様子で続けた。
「先ほども話した通り、自分は従者です。主人を見下ろすわけには……」
「それだったら前歩いてください。私うしろ歩くので。そしたら大丈夫ですよね」
ほんの一瞬考える素振りを見せた後、レイはまた小さく頭を動かして同意してくれた。
かくして二人はレイを先頭に縦に並び、グイドとアリスのいる中庭を目指し、長い廊下を引き返しはじめた。
道中、他愛もない話をした。
夕子の歩幅に合わせるようにゆっくりと前を歩くレイの大きな背中に向けて、夕子はとりとめのない質問を重ねた。最初は戸惑いながら答えていたレイも、しばらくすると気を許してくれたのか、返ってくる声に余裕が見られるようになった。その中でいくつかの事実が判明した。
「なるほど……面白い解釈ですね」
「やっぱり!」
「はい。ゆうこなのに、優しい子ではない、と……」
レイは、ほんとうに文学青年だったのだ。
本の虫なのだとレイは自分のことを揶揄した。その副産物として語学に堪能だということらしい。十ヶ国にも渡る様々な国の言語を操り、漢字やひらがな、カタカナも習得しているのだと彼は恥ずかしそうに話してくれた。それを聞いた夕子は、さきほどアリスに話していまいちな反応をもらった、自分の名前についての考察をお披露目してみた。
結果は予想以上のものだった。
「つまり、夕暮れの子――ですか」
「夕暮れ?」
新しい解釈に夕子は腕を組んでうーんと唸る。
「夕暮れ……夕暮れの子……うーんなんか吸血鬼みたい。あっ、もしかしたら……この名前のせいでこんな目に?」
「それはちがうかと。古くから吸血鬼は夜の生き物とされています。対する人間は昼の生き物。夕暮れとは、昼と夜のちょうど境目を意味します」
「中途半端な時間ってこと? まるで誰かみたい」
「どなたですか?」
そう真面目に訊き返してくるので、夕子はつい苦笑してしまった。肩をすくめて濁そうとしたところで、レイからはこちらが見えていないのだと思い出し、すこし迷ってからにやっと笑い、「実は……」と声を震わせた。
「私……半端者って言われてるんです……。ベビーじゃなくてお前は半端者だって……」
「まさか。そんなはずは――」
「まあアリスにですけど」
「……そうでしたか」
「だからもうびっくりですよ。レイさんまで私のこと半端者って言うんですから」
「そんな、自分は!」
ばっと振り返りかけて、寸前のところでレイは止まった。おもわず夕子は感心してしまう。レイはどうしても見下ろすことに抵抗があるらしい。夕子のほうに向けて身体を半分ほどひねった状態で俯き、横顔をこわばらせている。
硬直したレイの腕を、夕子は人差し指で軽くつついた。
「セーフですね」
「……申し訳ございません」
「むしろこちらこそ?」
そう言って小首を傾げてみせると、レイの口からほっとしたような息が洩れた。それからレイは視線をそらしたまま困ったように、「そんなことありません」といった意味のことを言い、また前を向く。
二人はふたたび歩きはじめた。
「レイさんも名前を変えるべきだと思いますか? 鬼子はやだけど……たとえば、夜子とか。そしたら吸血鬼っぽいかも。アリスに言われたからそうするみたいでちょっとむかつくけど」
「慣わしに従うならそうすべきかもしれません。ですが……もったいないですね。せっかく素敵な名前をもっていらっしゃるのに」
「中途半端じゃなくて?」
「はい。夕子様は……もしかすると、人間がお好きなのではありませんか?」
すぐには答えられなかった。夕子はわざとらしく「ええっと……」と声に出す。レイは何も言わない。返答を待っているのだろう。
答えに迷ったわけではなかった。それは確かだ。人間が嫌いなわけでもないし、どちらかと言えばきっと好きなように思える。なにせつい最近まで自分も人間だったのだ。それならば何を迷っているのだろう。会ったばかりのレイにまで半端者と思われるのが嫌なのか。そう考えてみたけれど、すこしちがうような気がした。たぶん後ろめたいのだ。
果たして例のスイッチを起動をした自分に人間を好きだと言う資格はあるのだろうか。それがストーリー通りの展開でけして避けられないことだとしても、やっぱり心のどこかに罪の意識があったのだろう。たった一言の問いが、それを突きつけた。今になってわかる。大神英雄の死を悔やむのだって、けっきょくは人類の未来を憂いてのことだ。だとしたら、アリスに嫌われても無理はない。ほんとうに中途半端だ。半端者だ。
さんざん迷って夕子の口からこぼれたのは、好きとも嫌いともとれない、曖昧な言葉だった。それでもレイはその意図を汲み取ってくれたように、なるほど、と小さく相槌を打った。
そして続けられた言葉を、夕子は生涯忘れることはないのだと思う。
「夕暮れは昼と夜の中間です。昼は人間、夜は吸血鬼を指します」
「それさっきも聞い……」
その指摘は流された。落ち着いた口調で、ですから、とレイは話を繋ぐ。
「夕暮れの子とは中間者だとも解釈できます。吸血鬼と人の間に立つ存在――それは果たして半端者でしょうか。もしかすると、どちらにも寄り添える存在なのではありませんか? 吸血鬼も最初は人間です。争わずに済むならそれが一番です。ですから夕子様――あなたのその名はとても情け深く優しい、少しも恥じることのない素敵な名前だと、自分は思います」
夕子の足が止まりそうになって、一歩、二歩とまたゆっくり歩きはじめる。しかししだいに歩幅が狭まっていき、それに合わせて歩みもゆるやかになる。先を行くレイとの距離がひらく。そのうちに、足は完全に止まった。
途切れた一人分の靴音に気づいたレイが、長い廊下のすこし先で足を止める。完璧な静寂が訪れる。いつのまにか長い廊下はオレンジ色に染まり、ちょうど窓の前で立ち止まった真っ黒なうしろ姿は、暖かい光でやさしく照らされている。
静かな時間だった。
ここには夕子とレイの二人きり。
「あの……申し訳ありません。出過ぎた発言だったと――」
「ううん、いいなあと思って」
レイは頑なだ。背中を真っすぐ伸ばして廊下の先を向いている。
夕子はふと窓の外に視線を移した。青い芝生が延々と広がり、遠くにバラのアーチが見える。そこにおぼろな人の姿がある。一人、二人。使用人が庭の手入れをしているのだろう。
「あの――夕子様?」
「レイさんのその感性好きですよ」
「えっ……」
「グイドとアリスも見習ってくれればいいのに」
「その……身に余る光栄です」
背を向けたままレイは小さく頭を下げる。ズボンの横で拳が震えている。夕子は小さく笑って、のんびりとした足取りでレイの元まで近づいた。
中庭までもうすこしだ。




