023 秘書のようなもの
乱暴な足音を響かせて、やたらと豪華な装飾が施された長い廊下を引き返していた夕子は、はっと立ち止まる。
名前を呼ばれた気がした。
振り返ってみるが誰もいない。なんだ、気のせいだったのか――そんなことを思いながらふたたびグイドへの怒りを燃やし、鼻息荒く視線を落として、驚いた。
男がいた。
黒いカラスを連想させる、黒ずくめの男。
「夕子様、お時間をよろしいでしょうか」
「えっと……どちらさまで?」
おもわず声が上ずった。ひくっと動きそうになる口端に力を入れて、夕子はぎこちない笑顔をつくる。
「というか、その格好は……?」
こてんと首を傾けてみせたところで、どうせ相手には見えていないのだろう。繕った表情にしたって同じだ。それでも夕子は目を釘付けにしたまま引きつった笑顔を貼りつけ、これは初めてのパターンだと内心で舌を巻いていた。
お嬢様扱いはよくあることだ。
この大きな屋敷の主はグイドで、何を隠そう夕子はそのグイドの養女で、正真正銘のお嬢様だ。にもかかわらず、どういうわけかその事実は見過ごされがちである。客人のアリスはともかく、教育係のリンドウは頻繁に夕子を脅し、使用人のコンドルは友達ということもあって二人きりのときは無礼講、ほかの使用人だってどこか舐めているふしがある。そんなこともあって、目の前の状況――もとい眼下の光景に、夕子は自分で思っているよりずっと動揺していた。
「――レイと申します。夕子様の教育係を兼任なされたリンドウ様の穴を埋めるベく、グイド様のもとで秘書のようなものをしています。お初にお目にかかれて光栄です」
「はぁ……」
しばらく待ってみたが、レイと名乗った男はそれ以上何も続けなかった。けっきょく返ってきた答えはひとつだけ。二番目の――一番重要な疑問はなんの解決もされないまま。しかたなしに、夕子は自分なりの答えを弾き出してみた。
「つまり、家来だから、とか?」
レイは跪いていた。
廊下の真ん中で赤いカーペットに片膝をつき、身をかがめ、俯いている。その頭を見下ろしながら珍しいなと夕子は微かに目を丸くした。
真っ黒な髪だ。金や銀、青など派手な色が目立つこの屋敷においては滅多にお目にかかることのない、夕子と同じ黒。しかし夕子が純日本人の髪だとするならば、足元の男はわざと染め直したような、いやに黒光りした色だった。だからカラスを思い起こしたのだろう。それに先日のコンドルと似たような黒いスーツを身に纏っている。
おもむろに夕子がしゃがみ込むと、その気配を察したのか、俯いているレイの肩がぴくりと動いた。
「夕子様――?」
「とりあえず顔上げてもらえません?」
ぴくっといった感じでまたスーツの肩が揺れた。おそるおそるレイの頭が動く。その顔がこちらを向くまでずいぶんと時間がかかったような気がするが、実際は数秒なのだろう。
思いのほか若かった。といっても、吸血鬼は見た目から実年齢を計れない。おそらく目の前の男――いや、青年もその風貌からは想像もつかないほど長く生きているにちがいない。それでも夕子には大学生ぐらいのお兄さんにしか見えなかった。線の細さと長い前髪からして文学青年といったところか。いかにも控えめな、悪くいえば消極的で気弱なタイプ。その印象はあながち間違いでもないらしい。
目が合うと、慌てた様子でレイは顔を伏せた。滅相もございませんと硬直した全身が物語っている。
「いけません、そのような格好……お召し物が汚れてしまいます」
「そっちだって」
「自分は従僕です。主人を見下ろすなどあってはなりません」
「見下ろす?」
その言葉に夕子は小首を傾げた。すこし遅れて気づく。
「ええっ、気にすることないのに! そんなこと言ったらこの屋敷の使用人全員私の前では歩けなくなるし、だいたい男の人なら私より背が高くてふつーだよ!」
言いながら笑ってしまった。つまりレイが気にしているのは、夕子に言わせればしょうもないことなのだ。身長百五十センチ前半は今にはじまったことでもないので見下されるなんて慣れている。それこそお嬢様扱いよりも。
そういった意味のことをしばし訴えたが、レイはなかなか身体を起こそうとはしなかった。意外と頑固でもあるらしい。
困ったな、と先に立ち上がった夕子は黒い頭を見下ろしながら考える。傍から見たらどうしたって夕子がレイを足元に跪かせているように見えてしまう。こんな光景をほかの誰かに見られたらまた変な噂が立つのは確実だ。しかたないので方法を変えることにする。お願いしてダメなら、一刻も早く用件を聞き出してお取り引きを願うほかない。
「それでなんの用ですか?」
「実はお聞きしたいことがあります」
「はい」
「グイド様のことなのですが……」
「なにかやらかしました?」
「いえ、そのようなことはけして……!」
レイの声が慌てふためいた。真面目な性格ゆえに冗談も通じないのだろう。
冗談ですよ、と夕子が首をすくめながら教えると、レイの肩からほっと力が抜けるのがわかった。
「お訊きしたいというのは、グイド様が今どちらにおられるかご存知ないかということです」
「ああそれなら」
と探している人物なら中庭にいると伝えると、レイは「えっ」と驚いた声を上げて、ついでに顔も上げた。不可解だ、といった表情を浮かべている。案の定、すぐに訊き返してきた。
「中庭……ですか?」
「邪魔しにきたんですよ」
思い出すとまたイライラしてくる。
「私とアリス――あっ、アリスって知ってますか?」
「大切な客人だとグイド様より伺っています。丁重にもてなすようにと」
「へえー……」
「あの、それで――?」
レイは続きを促す。
「ああえっと……理由ですか? アリスとお茶会してたらグイドがきたんです。中庭に。それで」
「しかしグイド様は、夕子様のご様子を伺いに行くとおっしゃって執務を……」
「執務?」
はっとしたようにレイは自分の口に手を当てたが手遅れだった。
夕子はぴこーんと閃いた。つまり、それは。
「把握しました」
「あの……?」
「さぼりですね。ええ、さぼりですよ、あいつ」
「いえ、けしてグイド様はそのような真似は――」
「だって嘘ですもん、嘘」
僅かに驚いたような表情を向けるレイに、夕子はもう一度「嘘ですし」と繰り返し、仰々しく首を横に振ってみせた。レイは疑っているのだろう。何か言いたそうだ。それを遮って夕子は説明する。
「私の様子を見にきたってのは嘘。追い出されたんです。私を追い出したんです、あの野郎は。アリスに用があるから二人きりにしてほしいとかなんとか言っちゃって」
「用?……なるほど」
レイはなにやら思案顔をして軽く頷き、次の瞬間、ぎょっとした顔に変わる。目を白黒させて、夕子と、差し出された手を交互に見る。
「ゆ、夕子様――?」
「行きますよ」
んっ、と夕子は差し出した手をさらに前に突き出した。困惑するレイの眼前で、んっ、んっ、と催促するように何度か動かす。
さっぱり事情が飲み込めていないといった様子のレイに、夕子はなるべく穏やかな口調でもう一度言った。
「行きましょう中庭へ。私とあなたでグイドに怒りの鉄槌を下してやりましょう」
私を追い出してアリスと仲良くお喋り――いいや、仕事をさぼるなんて許せない! そう思うと夕子の目はますます怒りと復讐に燃えるのだった。




