016 お茶会1
約束の時間より三十分早く中庭に着いた。
五月の澄んだ空は緑の匂いがした。穏やかなそよ風が、足元に敷き詰められた青々とした絨毯の毛先を撫でていく。誰かが水を放ったのだろう。小さな雫を載せた芝生は、太陽の光を反射してキラキラしている。
いっそ雨でも雷でも、叶うことならこの辺り一帯めがけて槍でも降ってくれればいいのにと思っていた。しかし夕子の願いは天に聞き入れられることはなく、それならばと慌てて部屋のドアを開けてみたところ、いつから待っていたのかリンドウが驚く様子もなく頭を下げた。それが五分前のことだった。
「絶対早いよ……早いんだからね……」
前を歩くリンドウの背中に向けて、夕子は沈んだ声でぶつぶつ言う。リンドウは答える必要はないと判断したのか、一度も振り返らない。
「基本は十五分前行動なんだよ。なんでそんなに急ぐの? 吸血鬼なんだから時間は飽きるほどあるんでしょ?」
右に左にと規則正しくリンドウの足が動くたび、腰から生えた安っぽいネコのしっぽがぴょこんぴょこんと元気よく揺れる。驚くほど似合わないその光景に最初こそ噴き出しかけた夕子だったが、腰の短剣がちらっと視界に入った瞬間、浮ついた気持ちは急速に萎んでいった。それからはため息ばかりが口をつく。面白いことなんてない。楽しいことなんてない。この先に待っているのは悪夢のような時間だけ。
こうなったら――。
目の前を進む青色の頭を見上げる。ガシャン、と短剣が厳つい音を響かせ、夕子は一瞬だけ弱気になる。しかしすぐに首を伸ばし、尖ったネコ耳を目に焼き付けた。大丈夫。怖くなんかない。
「お待たせしました」
タイミングを見計らったようにリンドウの足が止まる。しっぽがふにゃっといった感じで垂れる。また動く。
「会場はこちらになります」
「あのさ、リンドウは先に戻ってて。他に仕事あると思うし! 私は平気だよ。一人で待ってるし、時間までその辺ぶらぶらしてようかなぁって……大丈夫だよ、ちゃんと戻ってくるから! だからリンドウは早く行って――」
笑顔を残したまま、夕子の動きが止まった。冷たい風が吹き抜けるように「ひゅうっ」と息を吸い込む音が口から洩れた。それを吐き出すことはなかった。時間が止まったように、夕子は凍りついていた。
リンドウが身体ごとこちらに向き直る。
「それではお言葉に甘えさせてもらいます。どうぞお楽しみください」
「――待って!」
はっと正気に返る。一礼して引き返そうとしたリンドウの手を慌てて両手で握る。強く乱暴に引っ張ると同時に、さほど大きくない目を精一杯見ひらいてリンドウの青い瞳を覗く。知っていたのだろうか。あるいはそういう計画だったのか。
その疑問は、すこし高めのハスキーな声がそれとなく答えてくれた。
「なんだきたの。こないと思って一人で楽しんでたよ」
「……アリス」
ぎこちなく首を回せば、大きな白いパラソルの下で、一見するとビスクドールと見間違うほど儚くも美しい金髪の先客が、白い椅子の背にもたれていた。その名を体現するように、水色のドレスに白いエプロンをつけ、真っ白なタイツで細い足を隠している。頭には水色の大きなリボン。
「ご用の際はお呼びつけください」
深々と頭を下げ、今度こそリンドウは去って行った。
夕子は伸ばした手を力なく下ろした。
「どうするの? 帰る?」
「……帰らないけど」
「そうよかった」
「よかったぁ?」
白いガーデンテーブルはすでに準備が整っていた。薄ピンクのバスケットに積み重ねられたクッキーと、その隣には大きさの違う三つの皿が連なったケーキスタンド。一番下の段に小さく切り分けられたサンドイッチ、真ん中にスコーン、一番上はなんとも体に悪そうな赤や青、緑、黄色など着色料たっぷりのクリームで飾られたカップケーキが揃えてある。
ほかには小洒落たティーポットやシュガーポット、それにティーカップが二つ。一つは白いソーサーに逆さに置かれ、もう一つからは微かに湯気が昇っている。それを、水色の指先がつまむように傾けてバラ色の唇まで運んだ。
夕子は黙って向かいの椅子を引いた。
「普通だね」
口元から僅かにカップを離したアリスが目線だけをこちらに向ける。いや、ワンピースにか。
夕子は自分の姿を見下ろした。贈り主を知ったことで迷いはあったものの、けっきょく黒いワンピースに着替えたのだ。服に罪はないのだとしばし頭の中で繰り返されていた言葉は、袖を通して鏡に向き直った瞬間ピタリとやんでいた。普通のワンピースは普通の夕子におそろしくピッタリだった。
「……どうしてこれを?」
「お礼。ティーパーティーに招待してくれた」
「それはリンドウが勝手に――」
「と見せかけてほんとはお詫び」
カチャッと静かな音を立ててアリスはカップを置いた。白い底が覗いている。
ティーポットはアリスのすぐそばに置いてあった。注ぎ口からはまだ白い湯気が立ち込めている。しかしアリスはパチンと指を鳴らし、ほどなくしてメイド服の女がやってきた。こちらは本物のメイドなのだろう。夕子のカップにも新しいポットでたっぷりと注いでくれた。
さわやかな香りの紅茶だった。甘酸っぱいフルーツの味が口の中いっぱいに広がっていく。
「それで?」
再び二人きりになった中庭で夕子は訊く。ティースプーンをかき回すアリスの指が止まる。
「反省したんだ」
「半生? 人生の話?」
「反省だよ。僕は君にすこし意地悪だったみたいだからね。これからは態度を改めることにしたんだ」
「なんの冗談?」
と夕子はおもわず鼻で笑ってしまった。
アリスは長いことこの屋敷に滞在していた。しかしグイドに呼び出され互いの紹介をしたときを含めても、顔を合わせたのは片手で足りるほどしかない。というのも、苦手だとはっきりわかるまでそれほど時間はかからなかったのだ。
なぜかアリスは初めて会う前から夕子のことを敵対しているようだったし、それはグイドのいないところだとあからさまな行動として現れた。夕子が悲鳴を上げるとアリスは心底愉しそうに嗤い、夕子が笑うと途端に表情をなくす。夕子の不幸せがアリスの幸せで、夕子の幸せがアリスの不幸せ。そんな彼女が反省だなんてまずありえない話だろう。
夕子は注意深くアリスを観察した。すこしでも疑わしい行動を見せるなら、すぐにでもここから離れたほうがいい。
「今度はなにを企んでるの?」
「疑うの? 僕だって君と仲良くする意思はあるんだよ」
「信じると思う?」
「信じていいよ」
「無理でしょ」
「そうかな。友達になろうよ夕子」




