014 食後
甘く痺れるような時間は、あっけなく幕を閉じた。
すこしして余韻も消えた。残ったのは、コンドルの白い首筋にぽっかりと空いた二つの小さな穴と、気恥ずかしさのみ。夕子はまともに相手の顔を見ることもできず、無言でそっと身体を離した。
「それで?」
コンドルはいつもと変わらない調子で訊く。
「お嬢様の口に合いましたかね?」
「……まずい」
「ああっ?」
「なに食べたらこんなまずい血になるの?」
ちらっと目を向けたら、端正な顔がむすっとしていた。スーツの腕を組み、苛立たしげに指がリズムを刻んでいる。心外だとでも言いたそうだ。――当然だろう。
無意識のうちに、夕子は自分の唇に指を這わせていた。すこし前の熱が蘇ってくる。濃厚な味わいと香りだけではなかった。唇に触れた冷たい肌の感触と、流れ込んでくる雫の温かさ。なによりその瑞々しさ。コンドルの血は、舌がとろけそうなほど甘く美味しかったのだ。
「やっぱりラーメンだよ」
夕子は大きくため息をつき、顔をしかめてみせる。
「とんこつ味のラーメン。罰ゲームみたい」
「はっ。それが恵んでもらって言うことかよ」
「はいはいありがとね。まずくてもお腹いっぱいになりましたよっと」
「まずくねーし」
「冗談。ものすごくまず――」
冷たい手が、前置きもなく夕子の首に触れた。びくっと夕子の肩が跳ねる。おもわずコンドルの顔を仰いだ。すこし言い過ぎたのかもしれない。しかし。
「なに動揺してんだよ」
「はあ? なんで私が動揺して……!」
「へえ? 耳まで顔が赤いのはオレの見間違いかよ?」
目の前のコンドルはニヤついた口元を隠そうともせず、喉の奥からくぐもった笑いを洩らした。夕子は反論しようと口を開き、けっきょく黙って赤い顔を背けた。見間違いにきまっている。――一瞬コンドルがとてもやさしい眼差しを向けているように見えた。しかしこっそり視線を戻したら、やはりコンドルはいつも通りの人を小バカにしたような顔をしていた。
「なに、怒ったの? しかたないでしょ、だって――」
「まずいんだろ。わかったって」
大きな手が夕子の頬を掠った。ひやっとした感触に上体が微かに仰け反る。
「コンド――」
「黙ってろ」
エメラルドの瞳がすっと細められたかと思ったら、次の瞬間、ぐいっと近づいた。ほとんど反射的に、夕子はぎゅっと目をつむった。
耳元でコンドルの手が動く気配がした。
「……治ったみたいだな」
小さく呟くようなその言葉に、夕子はゆっくりとまぶたをひらいた。ちょうどコンドルが突き出していた上体を戻すところだった。再び胡座をかき、白いシャツのボタンを器用に片手で閉めていく。
夕子はスースーする首元を見下ろした。いつのまにか、伸びっぱなしだった髪が耳にかかっている。首筋にそっと指を当てたら、すこし前まであった二つの痕が消えていた。
夕子はコンドルを振り返った。
「気づいてたの?」
「しっかしひどいご主人様だな――おっと、お前にとっては養父だっけか」
コンドルはスーツの上着に袖を通しながら、ちらっと夕子に目を向けた。
「なんでお前の血飲むんだよ。ふつう自分の娘に牙立てるか? アイツなら餌なんて選び放題だろうに」
「最近忙しいらしいよ。だから飲みに行く暇ないんだって」
「なんだよそれ」
心なしか、コンドルの声はすこし苛立っている。
「仮にもお前、お嬢様だろ? なのに血ぃ吸われてこれじゃオレらと変わんないだろ。アイツ何考えてんだよ。いや――何も考えないからか。バカっぽいもんなオールホワイト」
「庇うわけじゃないけど……直接飲まないとダメなんだって。なんかポリシーだとか。それにしばらくの間だけだよ。元々私の血なんて飲んでなかったし、余裕が出れば他の人の血飲むはずだよ」
「そういうこと言ってんじゃねえよ。アイツなら他に――」
そこで言葉を切り、コンドルはじっと夕子を見た。何か考えているようだ。迷っているような雰囲気がしばらく続き、やがてコンドルは諦めたように短く息を吐いて、まあいいと話を結んだ。
「アイツもすぐ飽きんだろ。お前の血まずそうだし」
「あはは。コンドルには負けるけどね」
「うるせぇ」
コンドルの大きな手が伸びてきて、夕子の頭を乱暴に撫でる。
「そんなにオレの血まずいかよ?」
「えー?」
もったいぶったように夕子は小首を傾げる。すこし大袈裟に唸りながらちらっとコンドルに目線を向けて、「ぷっ」と小さく笑ってみせる。
「残念がるか喜ぶかはっきりしなよー」
「……るせぇ」
そっぽを向いたコンドルの横顔には、どこか安心したようなほっとしたような、喜びの色が浮かんでいた。
乱れたスーツをピシっと直し、手櫛で髪を整えた後、コンドルはベッドに尻をついたままの夕子を振り返った。別れの挨拶は既に済んでいる。一瞬だけ視線を交わし、胸の前で小さく手を振る夕子に軽く顎を引いてみせると、コンドルはすっと表情を引き締めた。言葉もなく背中を向けて歩き出す。夕子は静かに手を下ろし、ドアを押すコンドルに視線を送った。
びくっと、弾かれたようにコンドルは一瞬硬直した。それからバッとこちらを振り返り、険しい顔をつくってみせる。
首を傾げた夕子は、まもなくその理由を知ることとなった。
「リンドウ……」
いつからいたのだろうか。
コンドルと入れ違うように、執事のリンドウが部屋にやってきた。
頭を下げると同時にリンドウは抑揚のない声で尋ねる。
「お食事はお済みでしょうか」
「あ、うん。どうしたの?」
「申し訳ございません。さきほどは忘れておりました」
そう言って渡されたのは、一輪のピンクのバラだった。桜色よりもすこしだけ濃い、可愛らしいピンク色だ。今朝方摘んだのか、まだ元気がある。
トゲに気をつけながら夕子はくるくる回してみた。
「バラ……だよね」
「グイド様からです。昨夜の密なる思い出に――と」
「はあああ? 思い出ってべつになにも……!」
「それでは私はこれで」
「ち、ちがっ――」
取り乱す夕子に目もくれず、リンドウは頭を下げるとすぐに部屋を出て行った。残された夕子はパタンと閉じたドアに顔を向けたまま、「血……吸われただけだし……」と言葉を続けた。もちろん答えは返ってこなかった。
手元のバラを覗く。おずおずとピンクの花弁に指を触れてみる。それからそっと鼻を近づけた。上品な花の香りだ。しっかりとしているが、どこか色っぽい艶のある匂い。なんだかグイドのようだ。
「……ふん、キザなやつ」
しかたなく、夕子は床に素足を下ろした。チェストに花瓶が置いてあったはずだ。しかし探してみたがどこにも見当たらなかった。リンドウが片付けたのだろうか。ふと、足先に硬いものが当たった。ささくれた黒い木片は椅子の脚だったものだ。壁にぶつかった拍子にいくつかの塊に分かれたようだ。
紫の床には、コンドルが壊した椅子の残骸が散らばっていた。




