013 朝食
「――やっぱむりっ!」
そう叫びながら立ち上がると、夕子は素早くベッドから距離を取り、一呼吸置いて視線を下げた。――震えている。ベッドに腰かけたまま、コンドルはみぞおちを抑えるようにして身体を丸め、蹲っていた。当然だろう。突き飛ばしたとき、夕子が拳を叩き込んだのだ。わざとではなかった。
「……てめぇ」
ギロッとこちらを睨みつけるエメラルドの瞳に、薄っすらと涙が浮かんでいる。
「覚悟はできてんだろな……?」
「ち、ちが――」
ぎゅるるると場違いな音が夕子の言い訳を遮った。大きくて、勇ましくて、急き立てるような音。それは連続して鳴り響き、顔を赤くした夕子が慌てて自分のお腹を押さえつけても消えることはなく、しばらくの間繰り返された。
すこしして訪れた静寂の中、夕子とコンドルは互いに微妙な表情を浮かべ、おもわず顔を見合わせた。
「……腹ペコかよ」
「……腹ペコだよ」
コンドルはため息をつく。それから、けだるそうに上体を起こし、これからひと運動するみたいに首をコキコキ鳴らしてから、どっしりと構えるように大きく足を開いた。はだけたシャツの首元をぐいっと引き下ろす。
「ほらこいよ――吸血鬼なんだろ?」
「タ、タイム!」
「あっおい!」
背後から呼び止める声が聞こえたが、夕子は無視して部屋の反対端まで急いで向かった。
猫足の黒い机の引き出しを順番に開けていく。上から三番目に、目当てのものはあった。夕子は弾んだ足取りでベッドに引き返す。
不機嫌な吐息と、しかめっ面が夕子を出迎えた。
「お願いコンドル」
「却下」
「どうしても?」
「却下だ」
「だめかな?」
物は試しだ。小首をちょこんと傾げて訊いてみる。
コンドルの視線がちらっと夕子の手元に落ちるのがわかった。間髪をいれずに、大きなため息がコンドルの口をついて出る。コンドルはゆっくりと首を横に振った。
「どうしても? 絶対に?」
何度尋ねてもコンドルは首を縦に振らなかった。そのうちに、肩を落とした夕子が失望した顔で「がっかりだ」と呟いたが、答えは変わらなかった。
夕子が持ってきたのはなんの変哲もない、グリップが黄色の――工作用のカッターだった。
「それでどうしろってんだよ」
「こうね――ぐさっと」
刃を隠したカッターで、自分の腕を切りつける動きをしてみせる。つづけてその場所に顔を近づけて、喉をごくごくと鳴らすふり。最後に満面の笑みで両手をパンと叩いて解説終了だ。
反応は、すこぶる悪かった。
「効果音おかしいだろ。つーかあの女にバレるに決まってんだろ。毎回吸血痕チェックしてくるんだぜ。『すみやかに脱ぎなさい』――だとよ。変態かよ」
「大丈夫だよ。私意外と手先器用だし。吸血痕って二つだよね。これでうまいこと丸くえぐったら――」
「いてーよ! 鬼かお前!」
「そりゃあ吸血鬼だし」
「なら直接吸え」
「だって……」
苦手なのだ、という言葉は飲み込んだ。
夕子が俯いてもじもじしていると、何度目かになるため息が耳元に届いた。コンドルはすっかり呆れてしまったようだ。リンドウもそうだった。これではベビーなどと言われても反論できない。自分でさえそう思うのだ。情けなくて、惨めで、嫌になってくる。だけど――。
こっそりとコンドルの首元に目を向ける。男性の首だ。太い血管が浮き出て、ほどよく引き締まった首筋。それでいて滑らかで、軽く嫉妬してしまいそうなほど美しい白い肌。もし牙を突き立てたら、しっかりとした噛み応えに慄くだろう。――想像の中でならたやすい行為も、いざ現実で行うとなると途端に腰が引けてしまう。やはり苦手なのだ。
どこが、と問われれば夕子は答えに迷う。不思議と血を飲むこと自体には抵抗はない。最初からそうだった。たぶん、吸血鬼の体になったとき、渇きと新たな食欲――血を求めるようにと、頭の一部が書き換えられたにちがいない。だから赤い血はトマトジュースの百倍は美味しいことを知っているし、今だって本当は、早く渇いた喉に温かな血を流し込みたくてたまらない。
問題は、その方法にある。
「なにがそんなにイヤなんだよ」
「うーん……牙かな?」
「牙?」
「牙で穴を開けて流れた血をすするーーなんか動物みたい。吸血鬼じゃなくて獣になった気分」
「なれよ獣に」
コンドルは他人事みたいに言う。牙を立てられるのは自分だということを忘れているのか。
夕子とコンドルはしばし無言で顔を見合わせた。けっきょく最後に折れるのは自分なのだと夕子はわかっていた。このやりとりだって初めてではない。ただ毎回、踏ん切りがつかないだけ。コンドルもそれをわかっているから夕子の戯言に付き合い、辛抱強く待つ。そんなコンドルのやさしさに甘えているのだ。嫌なことをできるだけ長く引き延ばそうとしている、子供だ。さっさと大人に――吸血鬼になるほかない。
「いけそうか?」
「たぶんね」
コンドルがベッドの中央にずれる。もう一度視線を交わして夕子の気持ちを確かめると、背中を向けて胡座をかいた。スーツの上着を脱ぎ、皺にならないように軽く畳んで自分の脇に置く。つづいてシャツのボタンをいくつか外したのが、腕の動きからわかった。見えない胸元を大きくはだけさせ、右肩を完全に晒し、すっと首を左に傾けた。白い首筋がくっきりと浮かび出る。
「こいよ」
コンドルの長い指が、肩越しに動いた。自分の首筋をとんとん、と示す。
夕子の喉がごくりと上下する。
「噛み損じるなよ」
「そんな難しいこと言われても……」
「ばーか。欲求に従え。渇きに身を委ねろ。さんにーいちだからな」
「ま、待って!」
さん、とコンドルがカウントを始める。耳の横で指が三本立てられている。それが二本に減る。――くそっ。
なけなしの度胸を振り絞った。お風呂上がりのようないい香りが、鼻先を撫でた。夕子は口を大きく開いた。
いち、と告げられた声は衝撃と痛みのせいで揺れていた。
「んっ……」
夕子の鼻から吐息が洩れる。立ち込める濃い香りと、ドクドクと溢れ出す血。舌先に触れた瞬間、身体の奥底にまるで雪のように溶け込んでいく甘い雫。渇いた喉が満たされるたび、夕子の身体が静かに喜びに震えた。祝福された気分だ。やさしい手つきで、コンドルが頭を撫でていてくれるせいもあるだろう。
「そうだ……良い子だ……」
息の上がった声が耳のすぐすばで聞こえた。夕子の黒い髪に長い指を絡ませて、後頭部を支えるコンドルの手に、わずかに力が込められる。甘い香りが、口の中いっぱいに広がっていく。
「……どうだ、オレの味は」
コンドルの血は濃厚で、甘くて、その人柄を表したようにやさしい味だった。




