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鋼色の青春  作者: 泉流計
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 授業終了を告げるチャイムが鳴った。机の上に出してあるノートと筆記用具を鞄にしまうと、僕は、教室を出て、近くにある教授棟を目指した。

「ああ、本城君ですか。ちょっと君にねえ、お伝えしたいことがあるんですよ。急なもんでねえ、授業が全部終わった後でもいいですから、今日中に、教授棟の僕のところまで来てもらえませんかねえ。いや、なに、悪い話じゃないんですよ。それじゃ、よろしく」

文芸部顧問の横島先生は、それだけ言うと、一方的に電話を切ってしまった。

 横島先生から直々に呼び出されるのは初めてだった。先生の言う「お伝えしたいこと」が、どのような内容なのか、文学部教授としてのものなのかそれとも文芸部顧問としてのものなのか、見当がつかない。僕の携帯電話に直接かけてきたんだし、もしかしたら、個人的な話なのかもしれない。

 教授棟の入り口にさしかかり、郵便受けで部屋を確認した。横島先生の部屋は503号室だった。一番上である。今時にしては珍しく、教授棟にはエレベーターが無かった。僕は階段で503号室に向かった。

 横島先生は、はっきりした年はわからないが、もうかなりの高齢だった。あの横島先生が毎日ではないにせよこの階段を上ったり下りたりするのは大変だろうな、と、階段を一歩一歩上りながら、僕はそんなことを考えていた。

 503号室に辿り着き、ドアの札に横島先生の名前があるのを確認してから、ドアを四回ノックした。ひっそりとした廊下にその音は高く響き渡った。「横島先生、僕です、本城です」と、僕はドア越しに室内に向かって声をかけた。中から椅子のきしむ音がかすかにして、それとほぼ同時に「どうぞ」という横島先生のしわがれ声が聞こえた。僕はドアを開けた。

 先生は、奥の事務机で新聞を読んでいた。「どうもこんにちは」と声をかけると、先生は新聞を畳んで傍らに置いて、「こんにちは」と挨拶を返してきた。髪は真っ白で幾分はげており、顔には無数の皺が刻まれている。

「どうぞ、かけてください」

そう言って先生は事務机の前にある応接用の椅子を指し示した。僕はその椅子に腰を下ろした。

「今お茶を淹れますんで」

と言って先生はゆっくりとした動作で立ち上がると、給湯室の方へと歩いて行き、二人分のお茶を淹れた。

「突然お呼び立てして、悪かったですねえ」

暖かいお茶の入った二つの湯呑みを応接机の上に置きながら、先生はそう言った。そして、僕の座っている椅子と向かいの椅子に腰掛けた。

「いやあ、いい天気ですねえ。でも、明日は雨だそうですよ」

横島先生は天気の話をして、湯呑みを持ち、お茶をすすった。暢気な感じだった。僕も、先生に倣い、お茶をすすった。

「小説の方は、どうですか」

持っていた湯呑みを机に置いて、先生は僕に尋ねた。僕は湯呑みを置き、両肘を膝の上に乗せて手と手を組んでから答えた。

「着想を得て、一応書き出してはいるんですが、今ちょっと詰まってます」

先生は、そうですか、と言い、

「まあ、中々難しいものですからねえ」

と言って笑った。至急、と言ってた割には用件を切り出さない。言いづらいことなのだろうか。しかし横島先生は、至極、マイペースな人でもある。言いづらいから用件を切り出さないのか、はたまたマイペースだから切り出さないのか。僕にはわからなかった。

 先生は再び湯呑みを持ち、音を立ててお茶をすすった。それから、ふうっ、と一息ついた。この上なくリラックスしている。緊張感がかけらもない。どうやらこちらから言い出すしかなさそうだ、と、僕は判断した。

「先生、お伝えしたいことって何ですか」

先生が湯呑みを置いたのを時機と見計らって、そう尋ねた。

 僕の言葉を聞いて、先生は一瞬目を大きく見開いた。そして、「はて?」と呟きながら首を傾げて目を天井に向けた。間違いない。忘れている。やっぱりマイペースだ。

「いや、だから、先生はさっき電話で」

僕は右手の親指と小指を立ててそれを耳に持っていき、「電話」をゼスチャーした。

「え? ああ、そうでしたそうでした」

先生は、すまなかったという風に頭をぼりぼり搔き、そう言った。僕は、再び手を膝の前で組み合わせた。

「何ですか」

僕の問いかけに呼応するかのように、横島先生はおほん、と軽く咳払いした。

「実はですねえ、本城君に、提案があるのですよ」

かけている銀縁眼鏡を左手で上げながら、先生はそう言った。

「提案……ですか」

「そうです、提案です」

「何の提案ですか」

「ペンハウスです」

そう言って先生は、にっこりと微笑んだ。ペンハウス?

「あの、ペンハウスって何ですか」

「読んで字のごとくです」

「字のごとくって……」

「実はですねえ、学内で、密かに企画が持ち上がってまして。要約して言いますと、我が校から文学賞受賞者を出そうじゃないか、と、そんな企画でして。そしてそのために、誰か、まあ言っちゃうと、見込みがありそうな学生を応援することになったんです」

「はあ」

「それでですね、本城君に是非、大学が提供するペンハウスで、今書いている小説で構いませんから、一本、書いてもらいたいのです。それを文学賞に応募する、と」

「そんな企画があるんですか」

「信じられないかもしれないですけど、実際あるんですよ。家賃や光熱費、食費といった諸費用は、大学で負担します。作風も自由でよろしい。どの賞に応募するかも君が決めてもらって結構。どうですか。やってくれますか」

先生は、少しだけ前のめりになった。彼の瞳には、期待を表すきらめきが宿っていた。

「食費ってことは、そこに住み込むんですか」

「そうです。応募用に一本書き上げるか完成間近になるかするまでは、住み込みでやってもらいます」

「授業はどうするんですか」

「特例措置として、書き上げるまでは履修した全単位、テストを受けなくとも取得できます。もちろん、出席して講義を受けることは可能です。そこは君の希望に沿いましょう」

「わざと完成を先延ばしにして単位取得をズルするかもしれませんよ」

「君はそんなことはしないでしょう。その辺も勘案しての人選です」

「経費は後で返すことになったりしないんですか。例えば、応募した小説が落選した時とか」

「そんな事態にはなりません。これは大学側から君へのお願いですから」

 僕は腕組みした。本当だとしたら、これは自分にとってかなり良い話だと思った。最近、家での作業に限界を感じていた。執筆の状況を変えてみたいと考えていたところだった。渡りに船とは、この事なのかも知れない。

「どうです、やってもらえますか」

両膝を、ぱんっ、と叩いてから、先生はそう言った。

 僕は右手をあごにやって考え込み、逡巡した。嘘のような話に頭の理解がついていってなかった。しかし、先生が嘘を言っているようには思えなかった。これは一種の、チャンスかも知れない。もしもここで断ったら、僕じゃない他の誰かに話がいくだろう。それは何だか勿体無いような気がする。費用は出すと言っている。後日請求されることもない。それに何より、自由な環境で執筆を進めることができる。願ってもないことだ。

 ええい、ままよ。

「わかりました、やりましょう」

「そうですか、やってくれますか!」

満面の笑みでそう言うと、先生は立ち上がって事務机に向かい、引き出しの中から二枚の紙を取り出した。そして戻ってきて、その二枚の紙を応接机に置いた。

「ここにサインしてもらえますか」

僕にペンを渡して、一方の紙の自署欄を指し示した。

 僕はサインしようとした。が、思いとどまって紙を眺めた。細かい文字で何やら書かれている。

「あの、これって……」

「ああ、細かい約款です。そんな気にしなくて大丈夫ですから。僕は本城君を騙したりしませんよ」

そう言うと先生は、わははと笑い、さ、どうぞ、と僕に自署を勧めてくる。多少訝しく感じながらも、僕は自署欄に「本城修」と明記した。

「これでいいですか」

「はい、結構です」

先生は、ひったくるようにして僕が自署した紙を手に取った。

「これが、現場への地図です。マンションですので。明日、見に行って下さい」

もう一枚、まだ応接机に乗ったままの紙を先生は示した。僕はその紙を手に取り、ちょっと眺めてから鞄にしまった。

「力作を期待していますよ」

先生は僕に握手を求めてきた。僕はその手を握った。先生の手はやけに汗ばんでいた。

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