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僕はマンションの鍵を受け取ると、先生の部屋を出て、教授棟を後にした。外はもう暗くなっていた。
人影もまばらな坂を、正門に向かって下っていく。昼間、達也と落ち合っていたカフェが見えてきて、王女と二度目の対面を果たした場所にさしかかった。そこは街灯に照らされていて、ほんのりと明るかった。
歩きながら、僕は、王女の目を、思い出していた。あの目は、どうでもいい物を見る時の目だった。僕のことを、まるっきり人間扱いしていなかった。自分が正しい、自分こそが選ばれた人間だという揺るぎない自信に満ち満ちた目だった。僕は思った。嫌な女だ。できればもう二度と、関わりたくない。
既に閉店しているカフェの前を通り過ぎ、正門の近くにある駐輪場を目指す。
正門の前には、守衛が立っていた。怪しい者がいないかどうか目をぎらつかせて見張っている。その守衛に心の中でお疲れ様です、と言って、僕は彼の前を五メートルほど遠巻きにしながら通過した。
「あの」
後ろから声がした。女の声だった。どこかで聞いたことがある、と瞬時に思った。王女ではないとも思った。
立ち止まって振り返る。暗くて顔はよく見えないが、その髪型には見覚えがあった。
「突然すみません、あの、先日、お会いしましたよね」
女の子は少し上ずった声でそう言った。
「はあ」
突然の出来事に、僕は間の抜けた声をだした。
「あの、私ちょっと情報処理室で調べものしてて帰りが遅くなって、さっきそこであなたを見かけて、それで今だと思って、それでその」
なぜだかわからないがおろおろしながら彼女は慌ててそう言っている。慌てているというか、あがっていると言った方が正しいかも知れない。なんだ、これは。ナンパか?
「何か」
「あ、申し遅れました。私、ナカガワトモコっていいます。文学部史学地理学科の二回生です、って言っても、先日成人式で会ったから、年齢はおわかりだと思うけど」
女の子は、ぴょこんと頭を下げた。
その頭の下げ方で、僕は思い出した。この子は、成人式で達也にびんたを食らわせたあの女と話していた子だ。
「ナカガワ、トモコ、さん?」
「はい。中国の中と川で中川、知っているの下に日で智、それに子供の子で智子です」
「はあ」
「あの、あなたは」
彼女が何を聞きたいのかわからなかった。しかしすぐに、名前を聞いているんだと理解した。
「僕は、本城修っていいます」
「ホンジョウオサム?」
「本当の本に城で本城、履修の修で修です」
「そうなんですか」
「あの、何か御用ですか」
僕の問いかけを聞くと、智子は一瞬身を震わせて、若干目を泳がせた。
「あ、あの、ケイのことなんですけど……」
おずおずと智子はそう言った。
「ケイ?」
「はい、ケイです。先日、あなたの友達をひっぱたいた子なんですけど」
智子は伏し目がちに話した。ケイ? ひっぱたく? ああ、王女のことか。そうか、ケイという名前なのか。
「ああ、あの子ですか」
「はい。あ、あの、その、大丈夫だったのかなあ、って、思って」
智子は僕の目を見ようとしなかった。おそらく見れないのだろう、と僕は推測した。この子はきっと、そういう性格なのだ。
「うーん、大丈夫だったのかなあ」
「怒っちゃいましたよね」
「いや、怒ってないですよ」
これは事実だった。怒らないばかりか、達也は王女、いや、ケイに、今や首っ丈だった。今日のあの「二度目の対面」の後、どうやら彼はケイに惚れてしまったらしい。一度目はどつかれて、二度目は謝らさせられたというのに、なぜそうなるのかが僕にはわからない。僕なら大嫌いになっているだろう。
「そうですか。よかった」
安心したのか、智子は僕の目を見て笑った。優しい子なんだなあ、と、思った。
「あの、ケイなんですけど」
智子は再び伏し目がちになり、続けた。
「ケイは、その、あんな風につっぱっちゃうところがあるんですけど、根はとっても優しい、いい子なんです。あの子、真っ直ぐなんです。本当に、真っ直ぐなんです。真っ直ぐ過ぎて、ああなっちゃうんだと思うんです。だから、その、誤解しないであげて下さい。ケイのこと、嫌いにならないであげて下さい。あの子、この前外国から帰って来たばかりで、まだ友達がいないんです。幼馴染の私しかいないんです。あの子、あんなだけど、心の中ではきっと、寂しがってるんだと思います。だから、その、良かったらでいいんですけど、あの子と友達になってやって下さい。お願いします!」
言い終わるや否や、智子は僕に向かって深々と頭を下げた。誠意が無ければこんなお辞儀はできないだろう。それほど心のこもったお辞儀だった。
「そうなんですか、うーん」
僕は躊躇った。丁度さっき、二度と関わりたくないと思っていただけに、返答に窮した。
正直言うと、「それは無理です。さようなら」と言ってしまいたかった。だが、目の前でこうも丁寧なお辞儀を女の子にされていると、そう返事をするのもどうかと思われた。
受け入れるべきか断るべきか迷った挙句、僕は中庸を得る答えを述べた。
「まあ、頑張ってみます」
これが精一杯だった。
僕のその言葉を聞くと、智子は上体を起こした。
「ありがとうございます」
自分の気持ちが相手に伝わったと理解したのだろう、彼女は頬を緩めて安堵の表情を浮かべた。
「それじゃあ。お話聞いてくれて、ありがとうございました」
そう言うと、彼女は駅に向かって歩き出した。
僕はその場に立ったまま、彼女を見送った。そして呟いた。
「あの女とえらい違いだな」
唐突に視線を感じた。視線の元を見遣る。
さっきの守衛だった。じろじろとこちらを見ている。
目が合うと、彼は何事も無かったかのように視線をそらし、どこか遠くの方を見た。




