5
三時限目の授業を終えて、四時限目は空いていた。筆記用具とノートを鞄に詰め込んで、この授業をとっていた名も知らぬ生徒達に紛れて教室を後にする。
以前交わしていた約束を果たすため、僕は、正門へと至る坂の途中にあるカフェへと急いだ。あいつは確か、今日は三、四限と授業が無かったはずだから、もういるだろう。もっとも、こちらが「してあげる」のだから、僕が焦って行くほどのことはないのだけれど。
カフェに着き、入り口のドアを開ける。付いた鈴が、ドアの開く動きに合わせて、ちりりん、と、心地よく鳴った。
テストが近いにもかかわらず、というか、近いからなのだろうか、カフェの中には、結構な数の学生たちがいた。ぺちゃくちゃと喋る声が、ちょっぴりやかましい。ざっと見ると、ノートを手にして話している者たちもちらほら見える。あいつと同じ理由でここに来ている奴らもいるということだ。
「修」
呼ぶ声がしたのでそちらを向く。達也が手を上げてこっちだと合図していた。
達也の方へ歩いて行き、彼の向かいの席に腰を落ち着けた。
「見えたよ、お前が来るとこ」
そう言って達也は、鞄を下ろしている僕に向かって首を使って横を示した。彼が指し示した方を見る。窓からは、僕が先程通ってきた坂道が見えた。
「何だ、見てたのか」
「見てたよ。悪いか」
「悪くない」
ははは、と笑うと、達也はテーブルに置いてあったセブンスターの箱を取り、一本抜くと、ゆっくりとした動作で口にくわえて火をつけた。紫煙が舞う。
「よく吸うよな。一日に二箱だろ?」
「まあな」
「僕には信じられない」
「煙草は俺の人生だ」
「なんだそりゃ」
ツインテールの女の店員が注文を取りに来た。アメリカンを頼むと彼女は厨房へ向かった。
達也は美味そうに煙草を吸っていた。指に挟んだ煙草をとんとんとして灰皿に灰を落とす。
「よかったな」
少し笑いながら、僕は言った。
「何が」
「鼻血が止まって」
煙草を口につけていた達也は、激しくむせた。ごほ、ごほ、と、咳に合わせて彼の口や鼻から煙が出てくる。
「おいおい、また出すんじゃないぞ」
「だ、出すわけねーだろ」
苦しそうにしながら彼はそう言い、コーヒーを一口すすって一息ついた。さっきのツインテールの店員がアメリカンを持ってきた。黒い液体の入ったカップを、かちゃり、と音を立てて僕の前に置き、伝票を換えて去っていった。もう一口コーヒーを飲んでから煙草を吸うと、達也は切り出した。
「で、ブツは?」
煙草を灰皿でもみ消す。半分くらいしか吸っていない。いつもそうだった。以前僕がもったいないと言うと、「その分税金を余計に納めることになるから大丈夫。俺はいいことをしてるんだ」と言って彼は飄々としていた。
「あるよ」
「くれくれ」
達也は掌を天井に向けて両手を前に出し、促した。僕は鞄から一冊のノートを出すと、「ほらよ」と言って彼に手渡した。
大学生は、結構多忙である。学生によって理由は様々であるが、アルバイトをしたり、部活に勤しんだりと、色々な事情で自分が履修している授業に出席できないことが多々ある。中には、一度も授業に顔を出さないでテストだけ受ける場合もある。
そんな時に、学生同士でノートの貸し借りをするのだ。出席した学生が授業でとったノートを出席していない学生に貸し与える。その代わり、また違う授業で代返なりノートなりで助けてもらう。誰が言い出したわけでもなく、そんなイカサマのような互助が学生の間に広まっていた。持つべきものは友、ということである。
ただ、僕の場合は、殆ど僕だけが一方的に達也に貸しを作っていて、達也が僕を授業関係で助けてくれたことは、一回生の時の語学の授業、ただ一回だった。何だかしょっちゅう、達也にノートを貸しているような気がするが、まあ、細かいことは気にしないでおこう。
僕から渡されたノートをパラパラとめくって中を確認し終えると、達也はまた新しい煙草を箱から一本抜き取り、それを口に持っていって火をつけた。
「よく出来てるじゃん」
「どうも」
達也は上を向いて口から煙をふーっと吐き出している。僕はその時初めて、ツインテールの店員が持ってきたアメリカンを飲んだ。相変わらず、ここのアメリカンは美味い。達也は受け取ったノートを自分のスケルトンの鞄にしまった。
「ところで、小説の方はどうなの」
少し腰を浮かせて組んでいた足を組み直し、達也は僕に尋ねた。
「ちょっと、詰まってる、かな」
躊躇いがちに言葉をとぎらせながら、僕は答えた。
「ふーん。なあ、前から思ってたんだけどさあ」
「前から言ってるだろ」
「あ、そうだっけ」
「何で小説なんて書くの、だろ」
「そうそう。だってめんどくせーじゃん。そんなことしなくてもさあ、普通に就職して会社に勤めるほうがラクじゃん。そりゃ、100万部くらい売って大もうけしようっていう修の気はわからないでもないけど」
「ちょっと待て、そんなこと言ってないぞ。僕は金のために書いてるんじゃない。そりゃあ、金も大事だけどさ」
「そうなの?」
「何度も言っただろ」
「そうだっけ?」
「何で忘れてるんだよ」
僕は首を左右に振った。それから窓の外を見た。陽光が輝いていた。
「あれ、怒った?」
素っ頓狂な感じのする声で達也は言った。何回も説明したことなのに、合点がいってないようだった。おそらく彼にとっては、自分がいかにして効率よく金を稼ぎ、効率よく遊び、効率よく長生きするかが重要なのである。そんな、自分の価値観に相反する、というか真逆の志を持っている僕の生き方が彼には全く理解できないのだろう。小説なんて時間と労力の無駄、女の子と遊ぶ方がよっぽど良い、と、彼はそう思っているのだ。
「怒ってないよ。呆れただけ」
窓から視線を離さずに、僕はそう言った。
「何が?」
「だから、忘れてるだろ」
「そうだっけ?」
「……」
毎度のことながら、改めて呆れた。彼の能天気さが羨ましくさえあった。こういうところが彼の良いところでもあるのだが、たまに腹が立ちそうになる。
「まあまあ、そうカリカリすんなよ」
火のついた煙草を灰皿に押し付ける音が聞こえる。どうせ、また半分しか吸っていないんだろう。
「……そうだな」
「なあ、文芸部には、まだ行ってんのか」
カフェ内を流れる雑音の中、達也の声が僕の耳に真っ直ぐ届き、僕は彼の方を向いた。達也は新しい煙草に火をつけた。
「今日、久しぶりに行った」
「どうだった?」
「相変わらずだった」
「ふぅん。修はさあ、どうしてあんなやつらのところに行くわけ。はっきり言ってさあ、あいつらきもいじゃん。なんか、自分たちだけの世界作ってて。修はさあ、あんなやつらのいるところには行かなくていいような気がするけどなあ。お前の隠れファン、結構いるんだぜ」
「いいよ、そういうのは。興味無いし」
「何言ってんだよ。二十歳の男子が言うセリフじゃねえな。遊べ遊べ、ぱーっと遊べ」
そう言うと、達也は、威勢よく高らかに笑い声をあげた。指に挟んでいる煙草を灰皿のふちにとんとんとんとして、灰を落とす。
「小説に差し支える」
「でた、小説、でた。小説がなんなんだよ、若いのは今だけだぞ、いつまでも大学生でいられるわけじゃないんだぞ。遊べよ、修、女遊びしろ」
達也は、煙草を持っている方の手で、僕の顔を指差した。そしてもう一方の手でカップを持ち上げてコーヒーを飲んだ。僕は、やれやれ、と思い、再び窓外に視線をやった。
「あ」
目を大きく見開き、思わず声がもれた。
「何だよ、どうしたんだよ」
視界の端で、達也が僕の見ている同じ方向に首を曲げたのが見えた。
「あ」
彼の口からも、そう声がもれた。
僕と達也の視線は、同じ人物を捉えていた。
王女である。
成人式の会場で、達也が話しかけた時に、盛大なびんたをかまし、一言セリフを吐いて悠然と去っていった、あの女である。
遠目から見ても、はっきり認識することが出来た。顔立ちは、見た時そのままに、腰の上あたりまで伸びている茶髪をなびかせながら、坂をこちらに向かって下って来ている。どうやら今日は一人のようだ。それにしても、美しい。ただ歩いているだけなのに、まるで後ろに供の者を従えているお姫様のようだ。
嫌な予感がして達也を見た。案の定、だった。
彼の瞳が、輝いていた。やっと会えたねマイハニーこの時を待っていたよ、という言葉が聞こえてきたが、それが空耳であることを願った。
「行くぞ、修」
座っていた椅子を後ろに倒さんばかりの勢いで、がたんっと音を立てて達也は立ち上がると、鞄と伝票を手に取り、レジへと向かった。
「ここは俺が出す」
大声でそう言った。一分一秒も惜しい、逃してなるものか、という気迫が伝わってきた。
目立つからやめてくれ。




