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やがて、壇上の演説は終わりを迎えた。おじいさんの横柄な態度は最後まで変わらなかったが、あるいはそれは僕の錯覚だったのかもしれない。
新成人の皆は、演説の終わりを知ると、一様に緊張をとき、リラックスし出したようだった。ぽつりぽつりと、話し声が聞こえ始め、すぐに、海岸に打ち寄せる波のようなざわめきが僕の周囲を支配していった。
僕は後ろを振り向いた。そこにいるべきである人物に向き合うために。
しかし、達也はいなかった。
「……あれ?」
おかしいな確かにいたはずなのに、と瞬間思った刹那、「おーい」、という、僕に対して言っているらしい呼び声を耳にし、声の方を向いた。達也だった。
こちらに向かって手招きしている彼は、すでにというかいつの間にかというか、僕から数メートル離れた場所に移動していて、
「何してるんだ、行くぞ、修」
と、スーツに身を包む同い年の群れの中にいても十分聞こえる声量で、僕にそう言った。それにしても、行動が早い。瞬間移動だ。
自分の声が届いたのを見定めると、達也は、僕の返事を待ちもしないで180度回転し、歩き出した。
慌てて達也の後を追う。追いながら達也が向かっている先を視認した。彼は、真っ直ぐにさっき差し示した女性のもとへ歩みを進めている。堅実な足取りで、人の群れの中を、すいすいと川で泳ぐ魚のように歩いていく。
その一直線具合に、僕は、ある映画で未来から来たロボットがショッピングモール内のゲームセンターでターゲットの主人公を発見した時のあの突進を思い出した。未来から来たロボットが達也で、主人公がまだ見ぬ彼女である。映画との違いは、達也は彼女を殺すために近付くのではなくて、ちょっかいをかけるために近付く点だった。後、障害となる人間を突き飛ばしていない。
僕は、人を避けながらやや小走りになり、ようやく達也に追いついた。彼の右斜め後ろに位置を占め、同じ歩調で歩いていく。
達也の表情は、ここからではうかがい知れないが、きっと、いつものように結構真面目な顔をしているに違いない。
達也のいいところは、女の子に対して、紳士とまではいかないが、割と真剣なところだろう。色んな女の子にちょっかいをかけるくせに、一人一人に真剣なのだ。やってることは軽いのだが、彼はとにかく女の子に真面目で、愚直と言えるほどだ。幼少の頃から長年の付き合いがある僕には、それがわかっていた。だから達也が女性関係で何らかのトラブルに巻き込まれても、僕はなるべく達也の側に回った。そうすることが、幼馴染の義務であるように感じていたし、それに、何となく味方になってあげたくなるのだ。
ただ、やっていることは、ただのナンパである。ちょっと気に入ったからといって(達也的には「ちょっと」ではないのだろうが僕の感覚からすると「ちょっと」だった)知らない女の子に手当たり次第声をかけるのは、僕にははばかられる。妙なトラブルの元になりかねないし、小説にも悪影響だ。
女の子との距離が、ぐんぐん狭まってくる。達也の足取りに、迷いはない。今までの経験上、今の彼には、こちらに背を向けて目の前の友達と何か喋っているあの子、あの子しか、見えていない。一心不乱だ。二人彼女がいるのに。いつも思うのだが、これは浮気というやつではないのか。
達也のターゲットである女の子と向かい合っている女の子の顔が見える。楽しそうに話している。どうやら長い髪を後ろで括っているようだ。ポニーテールだった。背は、ターゲットに比べて少し低めで、胸はそこそこ豊かに膨らんでいる。垂れ目がちで、ぼくはなぜか、彼女の顔から飼い慣らされたチワワを連想した。
互いの距離が目算で数歩となった。二人は僕たちに気付かない。
「ねえ、君」
立ち止まると同時に、いや、立ち止まる寸前くらいに、達也は声をかけた。相変わらず、彼には迷いがなかった。一見すると、自信が根底にあるように見受けられるが、そうではない。単に、何も考えていないのだ。達也には、「この俺が声をかけるんだから女がなびかないはずがない」とか、「いきなり声をかけて無視されたり薄情な対応をされたらどうしよう」などという、自惚れや不安といった類の感情が、こと、女性に関しては、存在しないのだ。きっと女性に対して邪念が薄いからだろう、と、僕は分析している。
はっきりとした呼びかけを受けたにも関わらず、女の子二人は全く気付かない。
「ねえ、君」
一度目よりも大きな声で、達也は再び同じセリフを口にした。いらいらしている声音ではなく、穏やかに、よく通る性質を持った声だった。
ポニーテールの子が、気付いたのか、視線を一瞬ちらりと僕達に投げかけてまた戻し、そして「あれ?」という言葉が聞こえてきそうな戸惑った視線を向けてきた。「知らない、誰?」とでも頭の中で言っているのではないだろうか。
一方ターゲットは、全く、こちらを振り向く気配がない。ただポニーテールの子を見ていて、僕たちには形の良い(近くまで来てわかったのだが、ターゲットの頭は、とても形が良い)後頭部を見せているだけだった。聞こえていないはずはない。現にポニーテールの子には聞こえているのだから、位置的に近くにいるターゲットに聞こえていないというのはおかしい。それに、ポニーテールの子は視線をこちらに向けている。話をしている相手が急に不自然に視線をそらしたら「何かあるのかな?」となって、その視線の先を追おうとする。この場合、「振り向く」はずである。
しかし、ターゲットは、微動だにしていない。
僕は、目だけを動かして隣にいる達也を見た。ここからなら、わずかに彼の顔が見える。やはりと言うべきか、達也も僕と同じく異変を感じているようだ。彼の表情には狼狽の色が出ていた。
「ね、ねえ、君」
狼狽を押し殺すようにして、達也は三度、声をかけた。
ターゲットは振り向かない。それどころか、出で立ちに、何の変化も見られない。まるで高所から民衆を見下ろす女王のように、威厳すら感じられる。
反応の全くないターゲットだったが、ポニーテールの子は別だった。今ここにいる僕たち四人の中で、誰が一番動揺しているのかと問われれば、答えは間違いなく、彼女だった。目を白黒させている様子が一目でわかる。視線はせわしなくターゲットと僕たちとを行き来し、口も、何か言いたそうにぱくぱく開いたり閉じたりしている。両手を胸の前に上げておろおろしている。
達也の表情が、わずかに強張ったのが見えた。無視されていると判断し、苦々しい顔になった。達也は無視を最も嫌う。
「おい」
彼には珍しく、強めの声が出た。挑むような響きを持っている。
ポニーテールの子が、手を口にやった。マンガでよく見る「あわわ」というセリフが入った吹き出しが見えるようである。
挑戦のような達也の声が放たれた直後、ターゲットが、ぴくっと身を震わせたように思われた。ほんのちょっとだったから、僕の見間違いかもしれないが、振動したように見えた。確証はない。
くるっと回転して、ターゲットはこちらを向いた。
僕は目を見張った。
達也の言った通り、だった。彼は言った。「絶世の美女」と。
目の前にいる、名も知らぬ女性。「絶世の美女」という言葉は、正にこの女性のためにある言葉ではないだろうか。
透き通るような白い肌、ぱっちりと開かれた二重瞼の目、気高く上を向いた鼻、バラの蕾のような赤い口。
ポニーテールの子も、かわいいのだが、この子は別格だ。どこかの国の王女だと言われても納得してしまう。
アジアンビューティーとヨーロピアンビューティーの、丁度中間にこの子は位置している。中途半端という悪い意味ではなく、良い意味でアジアとヨーロッパの真ん中にいるのだ。
こんな子がいたのか、と僕は心底驚いた。同じ人間とは思えない。
辺りには、匂いが漂っていた。彼女のものだった。彼女が振り向いた際に、ふわっと、いい香りがしたのだ。
彼女は、なんだか、何とも言えない眼差しで達也を見ていた。意思のような何かを感じたのだが、彼女の全身から醸し出されている、オーラが、僕にそう感じさせるだけかもしれなかった。真相はわからない。彼女はただじっと、彼の目を見ていた。
一瞬の沈黙の後、達也はたじろいだ。たじろいで、首をやや前に傾け、目を動かして僕を見た。明らかに戸惑っている。どう話を切り出していいのかわからない様子だった。こんな達也を見るのは初めてだ。「あわわ」という言葉が耳に入った。達也ではない。ポニーテールの子が、実際にそう言ったのだ。マンガかよ、と思った。
「何か用?」
王女の声が僕の鼓膜を震わせた。その声はソプラノだった。程よく高い、女性らしい声だ。心地よかった。この子は、見た目だけじゃなく、声まで美しい。
達也は顔を上げようとしなかった。斜め下に顔を向けたまま、目を泳がせている。
すると、王女は、ふっ、とため息をつき、ゆっくりした動作でポニーテールの子の方に向き直ろうとした。と同時に達也が、意を決したのだろう、顔を上げ、「あの」と言った。
「あなた、誰」
機先を制しようとでも言うように王女は達也の呼びかけにかぶせて言葉を投げつけた。タイミングと声の大きさが、抜群に役者の違いを見せつけていた。
王女は再び達也の方に体を向けた。
達也は、またたじろいだ。だが、今度は違った。下を向くこともなく、王女の目を見つめて、
「君、なま」
と言ったが、王女はまたしてもその質問にかぶせて「あなた、誰」と言った。
きっと先に名乗れということなのだろう。ふと、ポニーテールの子を見た。あわあわ言いながら青くなっている。
達也はそんな王女の意図を察したのか、ごほんと咳払いを一つして、王女の目を見た。そして言った。
「俺、金森達也っていうんだ」
王女は黙って達也を見つめている。達也の目を真っ直ぐに見ている。品定めしているという風でも、拒絶しているという風でもない。まるで、無心だった。ただそんな中でも、鋼のような強靭な意志を、王女の横顔から感じずにはいられなかった。
沈黙が続く。王女は喋ろうとしない。達也はたまりかねたように手で自分の髪をくしゃくしゃっとすると、口を開いた。
「あの、君の名前はなん」
「どうしてあんたに教えなきゃなんないのよ」
王女はきっぱりと、虫も殺せないような綺麗な、しかしよく通る声で、そう言った。
僕は「あれ?」と思った。耳を疑った。どうして? どうしてとはどういう意味だ。達也は名乗ったじゃないか。そっちが名乗らせたんじゃないか。そっちが尋ねたんじゃないか。名前を尋ねて言わせておいて自分は名乗らないとは、どういうことだ。
達也もそう思ったらしく、彼の頭の周りにクエスチョンマークが出ているのが目に見えるようだ。彼は小さく「え」と言った。それから、
「いや、君が尋ねたから……」
と尻すぼみになりながら言うと、王女は頬の筋肉をぴくぴくぴく、と痙攣させた。そして、
「なによ! あたしに意見する気!」
と怒気に任せた鋭い声で叫んだ。
え、何、逆ギレ? 僕は呆気に取られてしまった。同時に、周囲にいる歓談中の新成人の何人かが何事かとこちらを見始めたのを感じた。
びっくりした達也は上体を少しのけぞらせてさかんに目をしばたたいた。
「い、いや、君がかわいいから、その……」
突然いわれもなく怒られて激しく動揺してしまったのであろう達也は本音を小さな声でこぼした。
と、次の瞬間。
王女は、ずいっと一歩、達也の目の前に近付いた。達也は「へ?」と間の抜けた声を出した。そして。
王女は、思いっきり、達也をびんたした。
ばちいいいいん、と、これまで聞いたことがない音がして、達也はぶたれた頬を押さえながら、二、三歩後ずさりしてうずくまった。
僕は唖然としてしまった。何が起こったのか、眼前の状況が理解できなかった。端から見ている僕がそうなのだから、本気びんたをまともに食らった当の達也はもっとだろう。まさか、びんたするとは。それにしても、すごい音だ。
うずくまる達也を王女は完全に見下ろしていた。追い討ちをかけるわけでもなく、ただ見下ろしていた。鋼のような意志を秘めた横顔を僕に向けながら。
達也は、首を上に向けて王女を見上げた。彼の体全体に無数のクエスチョンマークが明滅しているかのようだ。
まるで達也がそうするのを待っていたかのように、王女は上半身を達也に向けてちょっとだけ曲げると、びんたした手の人差し指を彼の顔に向けて、こう言った。
「口のきき方に気をつけなさい」
絶世の美女と言われてもおかしくない美貌を持つ彼女の言葉には、有無を言わせぬ迫力があった。
達也は、硬直してしまっていた。
ポニーテールの子は、きまり悪そうに下を向いてしまった。
そして僕は、口を開けてしまった。
口のきき方? なんだ? 何か言ったか? かわいいって言っただけだぞ、達也は。それのどこがいけなかったんだ?
頭の中は、すぐに疑問符でいっぱいになった。
すると、王女は、微塵も揺らがぬ動作で首を曲げ、僕を見た。
視線と視線が、まともにかち合う。
僕は息を呑んだ。
見たこともない、深く澄んだ瞳だったからだ。
達也は、こんな瞳に見つめられていたのか。
「ふん」
王女は、くだらない、と言わんばかりにそう言うと、下を向いたままのポニーテールの子に「行こう」と言って、歩き出した。すたすたすたと、脇目もふらない。
ポニーテールの子は慌てた様子で王女の後を追った。しかし追い始める前に、僕たちの方を振り向き、
「ごめんなさい」
と言って、腰を折って頭を下げた。ぺこり、と聞こえてくるかのような、律儀なお辞儀だった。
僕は、ただ二人を、呆然と見送った。それ以外になす術がなかった。達也はまだしゃがんだままだ。
僕と達也は頭の整理がつかず、顔を見合わせた。
すると、達也の鼻から、つつーっと、鼻血が出てきた。
周囲のざわめきを意識することができたのはその時だった。
嵐のような女だったな、と、成人式の日の衝撃的で不可解な出来事を思い起こしながら、僕はそう思った。
「鼻血かよ」
またもや、くっくっと喉だけで笑う。
だが、よく考えると、綺麗だけど、無茶苦茶な女だった。名前を聞いておきながら名乗らないわ、逆ギレするわ、あまつさえびんたするわ、意味不明な言葉を吐いて立ち去るわ。
「あんな女、嫌いだな」
僕は声に出してそうひとりごちた。
結局、小説の続きは思い浮かばなかった。どう頑張っても浮かばない。
こういう時は、動くに限る。さっさと学校に行こう。切り替えも大事だ。
鞄を手に取り、部屋を後にする。玄関で靴を履き、まだ眠っている両親を起こさないように小さな声でいってきますと言うと、家を出た。
表にとめてある自転車にまたがり、こぎだす。僕を乗せた自転車は、速度を上げ、風を切って走る。
道々僕は、なぜか、思い出していた。
今朝見た夢を。
内容は、もう、あまり思い出せない。夢はいつまでも人間の中に留まってはくれない。
ただ、あの言葉。夢の中で最後に言おうとした、あの言葉。
あれだけは、はっきりと覚えていた。
自分が相手の女性に夢の最後、何を言おうとしていたのか。
僕は覚えている。
街路樹の間を通り抜けていく。吐く息は白い。いつもの見慣れた街の風景が、風と共に通り過ぎていく。
夢の中では、言えなかった。けど、いまなら言える。誰も聞いてないけど誰にも邪魔されない。
僕だけの夢。僕だけの世界。
決して存在しない、僕だけの、君。
今、言うよ。
言おうとした言葉は、
「愛してる」




