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鋼色の青春  作者: 泉流計
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 風が吹いている。強くはない。しかし、弱くもない。

 風は、まるでそれ自体が何らかの意識を持っているかのように、静かに、僕の周りを通っている。なびく髪、はためく服。

 僕は、わずかに上を向き、遥か彼方を仰ぎ見た。

 思わず目を細める。太陽が、視界の中に飛び込んで来たからだった。太陽は、抜けるような、雲一つ無い水色の空の中で、誇り高く、ぽつんとぎらぎら、輝いている。勝利。そんな言葉が浮かび、溢れる光の輪の中で輪郭が定まらない太陽に、勝利の栄光を読み取った感じがして、僕の胸は自然と高鳴った。

 首を戻し、真正面を見ると、遠くに山の峰が、うっすらと見える。境界線ははっきりしないが、空の水色とはまた違った青色をしていて、僕はその美しさに、幾分酔いそうになる。

 確かに僕はここにいる。この場所に立ち、風を感じ、太陽に向き合い、空に包まれている。なのに、頭のどこかに、もう一人、冷静な自分がいて、その、僕であって僕でないような、不確かな僕が、僕の心の中のどこかで、こう言った。ここは楽園か。

 その声に、僕が耳を貸すことはなかった。声の存在は認めている。認めているのに、心ここにあらずというか、意識はしていても無視しているというか、全く別の僕が、そこにはいた。

 辺りには、一面、綺麗な花が咲いていた。お花畑、なんてものじゃない。本当に、見渡す限りの花の中に、僕は立っていた。花々は、世界を統べる王者の光を反射していて、それだけじゃなく、それ自体もきらきらしていて、黄金の安らぎを放っている。眩しい。僕はそう思った。

 満ち足りた気分だった。空気は限りなく澄んでいる。喧騒もない。ここほど孤独と無縁の場所はない。何もかもが素晴らしく感じられて、僕の顔には、意図せずほころびが生じた。

 僕は歩き出した。黄金色に輝く花々の中を、一歩一歩、踏みしめるようにして、歩き出した。不思議と、足音は聞こえなかった。服と花のこすれ合う音も、聞こえない。冷静な方の僕が、一瞬、おかしいぞ、と声を出したが、別の僕は意に介さなかった。どうでもいいとか、そんなことも、思わなかった。初めからそんな声は存在していないかのように考えていて、それでいてそれは不自然なことではなかった。

 こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。何というか、世界の仕組みを全て余すところ無く理解したような、そんな達成感が永遠に続いているような、すっきりと爽やかな真理の中に身をゆだねているような、そんな感じだった。不足という言葉が、ここにはなかった。

 ゆっくりとした調子で歩きながら、僕は、当たり前のように右を向いた。

 右手は少しだけ横に伸び、何かを握っていた。

 人間の、手、だった。

 僕は、手を繋いでいた。

 顔はわからない。しかし、その女性は、とても綺麗な顔をしていることを、僕は知っていた。

 太古の昔から、僕とその女性とは、ずっとそうしていた。そうしながら二人で、優しく、微笑みあっていた。

 女性の顔は見えない。だが僕には、その女性が笑っている、微笑んでいることが、わかっていた。なぜかはわからないが、そのなぜが、僕には全く気にならなかった。ただ、もう一人の冷静な自分には、気になるらしく、彼の思考が僕の中に流れ込んでいた。

 この気持ちは何なのだろう。この世界は何なのだろう。

 相変わらず、風が、ゆるやかに吹いている。陽光が溢れている。何も聞こえないのに、自然の喝采が聞こえてくる。僕達二人を、僕と彼女とを、祝福する音が、声となり、僕の耳に届く。僕は理解している。この祝福が、彼女にも、手を取り合って今ここに確かに存在している女性にも聞こえていることを。

 改めて、僕は、彼女に微笑みかけた。顔は見えない。誰かもわからない。

 僕の、この、言いようのない気持ちに、彼女は応えている。確認の必要はなかった。夜空に月が浮かんでいるという事実を否定することができないのと同様に、彼女の僕に対する呼応は紛れもない事実として、僕の胸中を占めていた。

 何という、充実感なんだろう。僕の微笑みに、彼女は微笑みで返し、それだけでもう、彼女の意識の何もかもが、言外に、かおり立つ香のごとく、僕の体の内側に染み渡っていく。勘違いや思い込みではない、彼女の芳情が、目には見えないのに確実に存在すると、僕には言い切れた。真の彼女が、ここにいる。嘘偽りのない、真実の彼女が、今、僕の目の前にいる。追い求めていた、欲しいと祈り続けていたものを、僕は、手にしている。

 素晴らしい世界だ。世界とは、こんなにも素晴らしいものだったのか。

 誰にも邪魔されない。

 二人だけの世界。

 言葉は、要らない。ただここに二人がいる。それだけで、十分だ。

 何も、見えない。

 彼女以外、何も、見えない。

 ふと、どきりとした。心臓の鼓動が一気に速まったのを感じた。

 彼女の顔は見えない。存在が、握っている右手を通して、そして「存在する」という観念を通して、僕の中に実在をもたらしている。彼女の顔が見えるわけではない。

 しかし、僕には、見えた。

 彼女の頬に、すうっと伝う、雫が。

 涙だった。

 彼女は、今正に、泣いたのだ。

 ああ、そうか。君も、そうだったのか。僕は、止めないよ。君が泣くのを、止めないよ。

 僕の目にも、涙が、心を浄化する魂からの贈り物が、溢れてきていた。何も要らない。何も求めない。僕と君には、言葉は要らない。言わなくても、お互いにわかっているから。でも、言うよ。言うことで、世界に対する証明になるから。真実の主張になるから。本当のことを、本当って、胸を張れるから。だから、言うよ。たった一言だけど、この口で、この声で、伝えたい。君に伝えたい。他の誰でもない、ただ一人の君に、伝えたい。その言葉は……。


 突然、無音が有音に転換した。何か聴こえる。けたたましい何かが。

 まどろみの中、機械的反射的に手を伸ばす。ひんやりとした冷気を腕に感じた。

 無機質な塊をつかむと、表面にあるでっぱりを押した。途端に音は止んだ。

 僕は起き上がった。手に取っている目覚まし時計を見る。針は、きっかり八時を指していた。

「夢か……」

誰にともなくそう呟いた。

 カーテンを開け、朝の光を浴びた。暖かい。遠くに車の音が聞こえる。通勤中の人々が見える。

 しばらく窓の外を眺めてから、僕は息をついた。夢の残滓が、いつまでもくすぶっていた。

 苦笑した。馬鹿馬鹿しいと思った。こんな夢は、生まれて初めてだった。やけに現実感があって、やけに幻想的だった。何処だったのだろう。見たこともない場所だった。あんな所に行った覚えは、ない。

 振り向いて窓に背を向け、部屋を出て、洗面所で顔を洗って歯を磨いた。それから牛乳をコップに注いで飲み、生のまま食パンをかじった。

 部屋に戻り、着替え始める。もう、夢のことは考えていなかった。気になる夢ではあったが、僕にはやらねばならないことがある。夢は所詮夢だ。しかし、あの女性は、一体誰だったのだろう。顔がわからないから、誰かわからない。

 着替え終わると、僕は腕組みをして、考え込む体勢に入った。考えていたのは、今書いている小説のことだった。とにもかくにも序盤は先日書き終えていた。ここからどうするかが問題だった。だが、それが解決しそうだった。おもしろい夢を見たのだ。次へ進むための、これはヒントだ。これをもとにして、続きを書いていこう。

 腰に手を当てて、さらに考える。題材をどう組み立てていくかを考える。

 僕は唸り声をあげた。

 だめだ。どうすればいいのかわからない。

 題材は、良い。さっき見た夢と、あの出来事。

 こんなことが起きるなんて、思いもよらないことだ。

 夢と成人式の日の出来事、これらを素材にして、何とかできないものだろうか……。

 眉根が互いに近付いているのがわかる。はたから見たら、今の僕は、さも「考える人」に違いない。

 思わず、ぷっと、ふきだした。

 成人式の日に起こったあの出来事を思い出して、それで笑ったのだ。

 いわゆる「思い出し笑い」である。

「あいつ、災難だったよな」

くっくっと喉だけで笑いながら、僕はそう言った。それから、小説の続きを編み出す端緒を得る目的で、あの出来事をつぶさに思い起こしていった。

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