閑話:イケメングレート諜報員の憂鬱
ある林の中、すばやく動き回る人影があります。
その人影は木を駆けのぼり、とある屋敷の様子をじっとうかがっています。
とても人間とは思えない跳躍力。そこから落ちればただでは済まない高さであるにも関わらず、一切の躊躇がない、精神力。
その人影は周囲を伺うと、一瞬で屋敷の屋根に飛び移りました。
その屋敷はディノアマト准将の屋敷です。
山のふもとにあり、周囲の林にはオオカミやクマが住み着いているので、夜間は天然の要塞となり、屋敷周辺の警備が手薄なのです。
ディノアマト准将といえども、まさか命知らずにも林から屋敷を狙う男がいるとは考えていなかったのです。
屋根に飛び乗った男は、壁に移動してはりつくと、特殊な機械を耳と壁につけました。
この機械で部屋の中の音声を聞くことができるのです。
この男の名前はリチャード・フォスター。オルドワーズ国の諜報員です。
オルドワーズ国はキャルトナータ帝国に対して現状中立に近い立場です。けれど過去には戦争があり、いつまた戦をしかけられるかわからない状況。そのため常にキャルトナータ帝国の様子をうかがっているのです。
リチャードはオルドワーズ国の随一の諜報員。高い身体能力と甘いルックスで、あらゆるところに潜入し、情報をつかみ取ってきました。どれほど困難なミッションでも、彼は必ず成功に導いてきた凄腕です。
(……ディノアマト准将。彼の最近の活躍は目覚ましい。聞くところによると、グリンロッド王国との和平条約は彼の根回しによるもの。
最近では付近の教会への寄付も熱心で、地域からの信頼も厚いらしい。かつて『血の通わない男』との異名を持っていた、冷血な男とは思えない変貌っぷりだ。彼の変化には、ある使用人が深くかかわっていると見ている)
リチャード諜報員は、ディノアマト准将の活躍を耳にし、監視の必要があると考えたのです。
リチャードがはりついている壁はディノアマト准将の執務室。ディノアマト准将は屋敷で仕事の話をすることはほとんどありませんが、最近は執務室に使用人が出入りし、夜間でも話し込んでいることがあるのです。
今日もまた、その使用人がディノアマト准将の執務室を尋ねました。
(使用人、ロロメルテ。彼女は『栄養士』として一か月前に屋敷に雇われた。しかし我々は彼女はただの栄養士ではないと考えている)
ロロメルテは神妙な面持ちで、ディノアマト准将と何かを話しています。
リチャードが付けている聴診器のような機械は、厚い壁でも中の音声を聞こえるようにするものですが、万能ではありません。音はこもりますし、反響音で明確には聞き取れません。
この曖昧な音でも会話の内容を掴むのが、凄腕であるリチャードの仕事です。
(和平条約の締結も、教会への寄付も、彼女が屋敷に来てから行われた。そのどちらも、彼女の口添えによるものではないだろうか。つまり彼女は栄養士ではなく、作戦指揮官のようなもの。ディノアマト准将の右腕として雇われたのだ。
今でこそディノアマト准将は停戦派を主張しているが、かつて彼は強硬派の父に従い、多くの犠牲者を出して来た。彼の影響力が大きくなった後、また交戦を主張し始めれば、我が国は血の海となる。彼の魂胆を常に把握しておかなければならない)
リチャードはロロメルテとディノアマト准将の会話に耳をそばだてます。
「……は、ございますか?」
「ああそうだな、以前の…………はすばらしかった、また……」
(やはり聞き取りにくいな。しかし、何か功績をほめたたえている様子だ。最近の軍事作戦が把握できそうだ。聞き漏らさないようにしなければ)
「……クロカンブッシュですね。あれは大変でした。しかしお喜びいただけるのであれば、また尽力いたします」
「ああ、また頼む。期待しているぞ」
(…………!!)
リチャードは目を見開き、息を呑みます。恐ろしい単語をきいてしまった、と。
今の会話に、いったいどんな恐ろしさがあるのでしょう。
(やはりそうだったか!今の言葉は、もはや言い逃れができん。私はしっかりと聞いたぞ!クロキ……『黒きアンブッシュ』と!!)
リチャードはわなわなと手を震わせながら、証拠をつかんだ!と、達成感にもあふれた表情をしています。
アンブッシュとは軍事行動において、待ち伏せや奇襲を意味する言葉です。
リチャード諜報員は、クロカンブッシュをアンブッシュと聞き間違え、何か大きな勘違いをしたようです。
(『黒き』……闇に紛れて奇襲をかけたのか!やはり停戦派に見せかけて、奴は変わっていない。どの地域で奇襲作戦を実行したのか、調べる必要がある!!次は我が国が標的になるかもしれない!)
リチャードは、またしばらく会話に耳をそばだてた後、これ以上は有益な情報がないと判断したのか、オルドワーズ国軍に報告のためその場を立ち去りました。
そう。彼はとても優秀な諜報員ですが、ディノアマト准将の屋敷を見張るものとしては、致命的な問題がありました。
それは、彼にお菓子の知識が全くないということです。
ディノアマト准将が夜な夜な使用人と会っているのは、夜間のホットミルクやはちみつ入りの紅茶を入れてもらうため。その際の雑談で、ときおりスイーツのリクエストをしているのです。クロカンブッシュはスイーツの名前です。
しかし幼いころから諜報員になるべく厳格な教育を受けたリチャードは、そんなことは知りません。
まして、かつて強硬派の『血の通わない男』と呼ばれた准将が、『ほっとみるく』なんて軟弱なものを夜間にたしなみ、次のおやつのリクエストをしているとはつゆほども思わないのです。
リチャードのこの報告は、もちろん特に意味を成しません。
ディノアマト准将は奇襲作戦を予定していないからです。
オルドワーズ国はリチャードの報告を受けたものの、ディノアマト准将が奇襲作戦を実施したという証拠が出てこないため、不思議に思いました。
しかし優秀なリチャード諜報員のこと。彼のこれまでの功績を考えれば、報告を受け流すことはできません。このひとつの報告で、国が救われるかもしれないのです。
念のため山間部の警戒を強めたオルドワーズ国軍は、結果的に山に住み着いていた山賊を退治することになり、周辺地域が平和になりました。
もちろん奇襲作戦は起こされませんでしたが、まあ、よかったんじゃないか?と、軍部でもうやむやになりました。
リチャード諜報員のディノアマト准将への警戒は、今後も続いていくことでしょう。




