第55話 サフラン畑と、母の拳
朝、サオリが目を覚ますと、部屋に一人だった。
布団の温もりが残っているのに、空気が少し広い。ほんの一瞬だけ、胸の奥に小さな寂しさが広がる。
「そっか……リナはパーティーの部屋に泊まりに行ってるんだった」
異世界に来てから、三好家はいつも一緒だった。食事も、買い出しも、ギルドの用事も、気がつけば三人で動いていた。だからこそ、たった一人の朝が、やけに静かに感じる。
日本にいた頃は違った。
リナは高校へ。ケンは美容室へ。サオリは家事をこなしてからレストランへ。忙しく、それぞれの時間を走って、夜に合流する。家族仲は良かったし、ケンと喧嘩らしい喧嘩をした記憶もない。でも進学、独立、収入、夢――目的は別々で、家族がばらばらに動くことが“当たり前”だった。
それが、この世界に来て一変した。
神様に貰った力のおかげでリナは冒険者になり、信じられない額を稼ぎ、次は二人とも店を持つ話まで出ている。日本で必死に積み上げてきたものが、こっちでは一か月もかからず現実になりそうになっている。
「……神様に感謝しないとね」
サオリは小さく呟いて、自分の頬をぺちんと叩いた。
「よし。今日も頑張ろう」
気合を入れ直し、部屋を出る。
*
軽く朝食を済ませ、家事を一通り片付けたサオリは、マジックバックを肩にかけた。
行き先は北の湖方面。目的は二つ――リナの様子を見つつ、スパイスを探すこと。
リナとニノンのために、いつもより多めに作ったお弁当もマジックバックに入っている。容量無限だから遠慮はいらない。ついでに、料理人の手を守るためにケンが用意してくれた軍手みたいな手袋も装着した。
「それにしても気持ちいい。ちょうどいい季節ね」
ケンの聞いた話では、今は秋。コトコト村は雪もほとんど降らず、冬もそこまで寒くならないらしい。ケンは「多分台湾くらいの気候帯かな」と言っていた。
なるほど、空気が柔らかい。日差しが優しく、風が軽い。散歩のように湖の周辺を歩きながら、サオリは鑑定しつつ採取を繰り返した。
少し歩いては、立ち止まって葉を撫で、香りを確かめる。
少し進んでは、土を掘り、根を取る。
そんな調子で歩いていると――木陰に、紫色の花が群生しているのが見えた。
「綺麗ね」
足が止まる。サオリはしゃがみ込み、鑑定を使った。
その瞬間、目を丸くした。
〈サラン 暖かい地域に咲く花 めしべを色付けに使う 地球名:サフラン〉
「……地球名がついてる」
鑑定を使い続けて、レベルアップしたのか。そんなことより――。
「サフラン!? 世界一高級なスパイスじゃない!」
サオリの目の色が変わった。
頭の中に料理が次々浮かぶ。サフランライス。魚介が手に入るならパエリア。スープにも使えるし、香りの層が一気に増える。
「これで調理の幅が……!」
サオリは夢中になって、めしべを丁寧に摘み始めた。
そのときだ。
草むらを割って、巨大な猪――ジャイアントボアが現れた。鼻息が荒く、目がこちらを捉え、攻撃態勢に入っている。
サオリは――気にせずサフランを摘んだ。
ジャイアントボアは蹄を研ぐように地面を掻き、突進の準備をする。その動きで、サフランの花が――ぐしゃりと潰れた。
サオリが顔を上げる。
目が笑っていない。
「……私のサフランが、勿体ないでしょ!」
正拳突き一発。
ドン、と鈍い音がして、ジャイアントボアがその場に沈んだ。
そして――その断末魔を聞いたのか、さらに大きい影が飛び出した。
グレートジャイアントボア。
怒りの突進。だがサオリは軽く身体をひねって避ける。
避けた――が。
突進した猪は、サフラン畑と化していた花畑を踏み荒らした。
紫が、ぐちゃりと潰れていく。
サオリの眉がぴくりと動いた。
そのタイミングで、別方向から駆けてくる足音がした。
コトコト・キッチン――リナ、ニノン、クルトン、ルーの四人が、グレートジャイアントボアを追ってきたらしい。
だが、サオリの視界にそれは入っていなかった。
「何てことしてくれるのよ!」
またしても、一撃。
グレートジャイアントボアが崩れ落ちる。
そしてサオリは、倒れた巨体にさえ興味を示さず、花畑へ戻った。
「あ~もったいない……まだ残ってるかしら」
採取、再開。
邪魔な巨体が転がっている。サオリはため息をつくと、片手で――投げ飛ばした。
「ちょっと邪魔でしょ」
ごろごろ転がる猪。花畑の端がようやく空く。
「……これくらいなら大丈夫」
サオリはそう言って、めしべを摘み続けた。
後ろで、リナが恐る恐る声をかける。
「え、えーっと……ママ?」
「え? ……リナじゃないの、どうしたの? こんな所で」
サオリは振り向いて、ようやく娘を認識した。次の瞬間、興奮した声になる。
「それより見て! この花、サフランよ! これがあれば色々調理の幅が広がるわよ!」
「うん、良かったね……」
リナが引きつり気味に笑う。
「それでね、この魔物は……」
「だって、せっかく見つけたサフランなのよ。その花を潰しちゃうから」
「……潰しちゃうから?」
「エイって」
「倒しちゃったの?」
「うん」
「うんって……」
リナの声が震えた。
背後では、ニノン、クルトン、ルーの三人が小声で相談していた。
「見たかにゃ……素手で一撃だったにゃ」
「一撃で倒せるのは、当てた時に衝撃が全身を通り抜けたのよ」
「ルー、そんな分析いらないから」
クルトンが即座に止めた。ニノンも無言で頷く。顔が引きつっている。
サオリはふと思い出したように手を止めた。
「あ、そうだった。皆の分もお弁当作ったのよ。食べましょうか?」
「は、はい……ありがとうございます」
ルーが震えながら答える。ニノンも静かに頷いた。クルトンも頷いた。
三人はサオリ特製のお弁当を受け取り、食べ始めた――が。
味が分からない。
うまいはずなのに、心が別のところに持っていかれている。咀嚼するたびに、さっきの“拳”が脳裏に浮かぶ。
そして三人は、同じ結論に達した。
(この人を怒らせたら、絶対ダメだ)
秋風が湖を撫で、サフランの香りが微かに漂う。
その平和な景色の中で、コトコト・キッチンは“母”という存在の別の顔を、はっきりと学んだのだった。




