第34話 カレーの匂いと、これからの話
庭先に置いた作業台の上で、ケンは金属製の筒を慎重に転がし、内側を覗き込んでいた。
昨夜の一件――魔王ヴァンドレッドを“星”にして追い返した後、頭の中に残ったのは「勝った」という手応えよりも、「もっと安全に、もっと確実に」という改善点だった。
金属の筒は、ライフルのバレル。
ほんのわずかな歪み、厚み、重心のズレが、射撃の癖や反動の出方に影響する。危ないのは敵に対してだけでいい。家族の近くで扱うなら、なおさらだ。
「……もう少し、ここを広げるか」
ケンは無詠唱で土魔法を唱えバレル内部に奇麗な楕円形の石を出し徐々に大きくしてバレル内部を押し広げる。
その瞬間――ふわり、と風が変わった。
鼻先をくすぐる匂い。
焦がした玉ねぎの甘さ、油の香ばしさ、そして胸の奥の記憶を一気に引っ張り出す刺激。
ケンは思わず顔を上げ、鼻で空気を吸い込んだ。
「……この匂い。今日はカレーか?」
作業台の上に工具を置き、手を拭きながら家の中へ入る。
台所から湯気が立ち上り、鍋の中身が静かに煮えていた。サオリが木べらで鍋をかき混ぜ、ケンを見るなり口角を上げる。
「そうよ。隠すつもりだったけど……無理ね。あなたの鼻、こういう時だけ異常に良いんだから」
「こういう時だけって何だよ。……でも、匂いが“完成した匂い”だ。スパイス、だいたい揃ったんだな?」
サオリは嬉しそうに頷く。
「ええ。だいたいね。今日の森の“お宝”が効いてる。これでやっと、思い描いてた味に近づけるわ」
ケンは鍋を覗き込み、懐かしさに小さく笑った。
「今まででも十分うまかったけど、そこは料理人の意地か」
「意地よ。食べる人が喜ぶ顔も好きだけど、作る側にも“譲れない完成形”があるの」
サオリが蓋を閉めた瞬間、香りがいったん抑えられる。
けれど、次にくる“解放”を予感させるように台所の空気がふくらんだ。
そこへ、階段を駆け下りる音が響いた。
「待ってたぁぁぁ!!」
飛び込んできたのはリナ。今日の採取帰りからずっと「カレー!カレー!」と言っていた張本人だ。顔は期待で輝き、胃袋が先に踊っている。
「ママ、今日カレーでしょ!? 話を聞いてからずっとカレーの口なんだけど! やっとだよ!」
「はいはい、落ち着きなさい。ちゃんと作ってるわよ」
「落ち着けるわけないじゃん! ねえパパ、これ絶対ご飯で食べたいよね!」
ケンは苦笑して椅子に腰掛ける。
「……だよな。カレーを作ると、いよいよ“ご飯”が欲しくなる」
サオリも同じ気持ちなのだろう、鍋の方を見たまま、少しだけ真面目な声になった。
「そうなのよ。パンでも食べられるし、こっちの主食でも工夫はできる。でも、カレーは……ご飯があって完成するの」
「完成する! それ!」
リナが大きく頷く。
「絶対そう! カレーライスのために生まれてきたと言っても過言じゃない!」
「過言だよ」
即ツッコミを入れつつも、ケンの頭の中では現実的な計算が回り始めていた。
米がないのは日本人として致命的だ。日常の主食として流通を確保する必要がある。
「お米か……確か、この国の南の方で取れるって話は聞いたな」
「あと、ヴォルガノン帝国でも食べるって言ってたよ」
リナがさらりと言うと、ケンは表情を少し曇らせた。
「あそこは軍事国家だ。なるべく近づきたくない」
リナは口を尖らせたが、すぐに引っ込めた。
ケンが“家族の安全”に敏感なのは、誰よりも近くで見ているからだ。
サオリが鍋の火を調整し、きっぱり言った。
「じゃあ、明日にでも商業ギルドに聞きに行ってくる。流通のことなら、あそこが早いもの」
「助かる。……商業ギルドに行くなら、ついでに土地のことも聞いてきてくれないか?」
「土地?」
サオリが首を傾げる。
今の三好家は借家暮らし。サオリの屋台は村の広場で大繁盛しているが、あくまで“仮の形”だ。ケンの作業も庭先が中心で、雨風が強い日は一気にやりづらくなる。便利に回っているようで、そろそろ「限界の手前」まで来ている。
ケンは少し照れくさそうに頬をかきながら言った。
「こっちに来て大体一か月だろ。今月の収支を見たら……そろそろ現実的になってきた。家を建てるって話」
サオリの目が“家計管理の目”になる。
「今月の収支が金貨四百五十枚の黒字……確かに、継続できそうなら考えてもいいわね」
数字の重みが部屋に落ちた瞬間、リナがびくっとした。
「ねえ、何の話? また大人だけでコソコソしてる!」
むすっとする娘に、ケンは笑って手を上げた。
「ごめんごめん。リナにもちゃんと関係ある。……そろそろ家を建ててもいいんじゃないかって話さ」
「家!? 新しい家!?」
リナの顔が一気に晴れる。
「じゃあ私の部屋も! 広くして! あと、訓練できる場所!」
「訓練場所は外でいいだろ」
「外は寒いじゃん!」
「じゃあ、まずは勉強を――」
「うっ……!」
反射で弱点を突かれ、リナが固まる。
ケンはわざとらしく咳払いして、人差し指を立てた。
「その前に、だ。俺もお母さんも、この国で家を建てる手順をちゃんと知らない。土地は買えるのか、借りるのか、相場はいくらか。建材や職人の手配は? 家を建てるのにどれくらい金がかかる? まずはそこを調べないと、勢いだけじゃ決められない」
サオリは頷いた。
「分かった。お米のことと一緒に、商業ギルドで聞いてくる」
「私もついて行きたいけど、明日はお師匠様の所に行くんだよね……」
リナがしゅんとする。
「だからママ一人で大丈夫よ。あなたはあなたのやることをやってきなさい」
「……うん」
サオリの声は優しいが、生活を動かす“決める声”だった。
ケンは窓の外を見やり、道具袋を手に取った。
「そのためにも、俺は今日の夜に狩りに行くぞ。冒険者ギルドの依頼にケルピーの魔石採取があった。前に見た場所を確認して、ついでに色々見てくる。二人とも寝てていい」
「はーい!」
返事だけは即答のリナが、すぐに笑顔に戻る。
「パパ、カエル肉も多めに取ってきてね! 竜田揚げ食べたい!」
「了解……全く、一週間前とは全然違うな」
ケンが呆れると、リナは胸を張った。
「カエル肉のおいしさを知ったから、もう大丈夫だよ!」
「その順応力を勉強にも回せ」
「うっ……!」
サオリがくすくす笑い、鍋の火を少し弱める。
部屋の中はカレーの香りで満ち、未来の計画が言葉になっていく。
――家を建てる。
――米の流通を探す。
――この村で、もっと根を張って生きていく。
それは大げさな夢ではなく、今日の夕飯の延長線にある、確かな生活の話だった。
「じゃあ、行ってくる。帰りは遅くなるかもしれない」
「気をつけてね」
「パパ、変なのがまた空から降ってきたら――」
「降ってこない。……たぶん」
「“たぶん”なんだ!」
リナが突っ込み、サオリが笑う。
家族の軽口の中で、夜はゆっくり更けていった。
明日、商業ギルドで何が分かるだろう。
米はどこから来るのか。
土地はどう手に入れるのか。
借家暮らしの三好家は、この異世界で本当の意味で“家”を持てるのか。
答えはまだ先。
けれど今夜だけは、懐かしい匂い――カレーが、すべてを肯定してくれる気がした。




