第8話 阿寒湖でマリモを見た日
第8話 阿寒湖でマリモを見た日
阿寒湖へ向かう朝。
美佐子は車の窓から、流れていく北海道の景色を眺めていた。
昨日は釧路湿原で二羽の丹頂鶴を見た。
和商市場では海鮮丼を食べ、夕方には幣舞橋から夕日を眺めた。
そして今日は、阿寒湖。
「お母さん、眠くない?」
長女が運転しながら聞いた。
「大丈夫よ」
「昨日、結構歩いたから疲れてるかと思って」
「大丈夫。北海道に来たら、不思議と元気になるみたい」
「それならよかった」
後部座席から次女が顔を出した。
「阿寒湖、楽しみだね」
「ええ」
「お母さん、お父さんと来たときも阿寒湖に行ったんだよね?」
「そうよ」
美佐子は窓の外を見ながら頷いた。
「遊覧船に乗ったの」
その一言で、40年以上前の記憶が静かによみがえった。
若かった自分と修一。
阿寒湖の遊覧船に乗り、湖を進んだ。
船の上から眺める山々。
穏やかな湖面。
そして、船の中で案内されたマリモ展示観察センター。
「大きいね」
若い修一が、展示されたマリモを見ながら言った。
「本当に丸い」
美佐子も驚いた。
二人で並んで、じっとマリモを眺めた。
修一はしばらく考えたあと、
「これ、ずっと転がってたら丸くなるのかな」
と言った。
「そんなわけないでしょう」
美佐子が笑う。
「でも、丸くなるってすごいよな」
「何が?」
「何十年も生きて、ずっとここにいるんだろ?」
美佐子は、修一の横顔を見た。
「じゃあ、私たちも何十年も一緒にいられるといいわね」
そう言うと、修一は少し照れたように笑った。
「そうだな」
それが、二人で見たマリモの思い出だった。
――そして今。
車は阿寒湖に到着した。
「着いた!」
次女が嬉しそうに声を上げる。
三人は車を降りた。
目の前には阿寒湖が広がっている。
湖の向こうには山々。
澄んだ空気。
釧路とはまた違う、静かな景色だった。
「きれいね」
美佐子が湖を眺める。
「お母さん、昔と同じ?」
長女が聞く。
「そうね」
美佐子は頷いた。
「湖は、昔と変わらない気がするわ」
三人はまずアイヌコタンへ向かった。
木造の建物が並ぶ通りには、アイヌの文化を感じさせる民芸品が並んでいる。
「見て、お母さん」
次女が店先の商品を指差した。
「これ、かわいい」
「本当ね」
木彫りの作品や小物などを眺めながら、三人で店を巡る。
「お母さん、これ好きそう」
長女がある民芸品を手に取った。
「どう?」
「いいわね」
「買う?」
「どうしようかしら」
美佐子はしばらく迷った。
「旅の記念に一つくらい買おうかしら」
「いいじゃん」
娘たちが嬉しそうに笑う。
「お父さんへのお土産は?」
次女が冗談っぽく聞いた。
美佐子は一瞬考えてから、
「そうね……」
と笑った。
「お父さんには、写真を見せてあげるわ」
「それが一番いいかもね」
三人で笑った。
そのあと、湖畔の遊歩道を歩いた。
木々の間を抜ける風が心地いい。
鳥の声も聞こえる。
「気持ちいいね」
長女が言った。
「うん」
美佐子も頷いた。
しばらく歩いていると、次女が突然立ち止まった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「あそこ!」
木の枝を指差している。
美佐子が目を凝らす。
小さな動物が枝の上を走っていた。
「エゾリス!」
三人が同時に声を上げた。
エゾリスは長いふさふさの尻尾を揺らしながら、木の枝を素早く移動していく。
「かわいい!」
次女がスマートフォンを構える。
「待って、写真!」
しかし、シャッターを押そうとした瞬間、エゾリスは別の木へ飛び移った。
「あっ!」
「速い!」
「撮れた?」
「……撮れてない」
次女が残念そうに肩を落とす。
美佐子は笑った。
「でも、ちゃんと見られたでしょう?」
「うん」
「だったら十分よ」
「お母さん、前にも同じこと言ってたね」
長女が笑う。
「そうだった?」
「丹頂鶴のとき」
「そうね」
美佐子も笑った。
写真に残らなくても、心に残る景色はある。
そう思った。
三人はまた歩き始めた。
やがて、遊歩道の先に阿寒湖が見えてきた。
美佐子は湖を眺めた。
40年前、修一と乗った遊覧船。
二人で見たマリモ。
そして今、娘たちと歩いている阿寒湖。
同じ場所に来ても、時間は同じではない。
若いころの自分には、こんな未来が来るなんて想像もできなかった。
夫と長い年月を過ごし、娘たちを育て、そして今、一人でこの場所に戻ってきた。
けれど、一人ではなかった。
隣には二人の娘がいる。
「お母さん」
長女が呼んだ。
「そろそろ遊覧船の時間だよ」
美佐子は振り返った。
「そうね」
40年前に修一と乗った遊覧船に、今度は娘たちと乗る。
それを思うと、不思議な気持ちになった。
「じゃあ、行きましょう」
三人は湖へ向かって歩き出した。
阿寒湖の水面が、陽の光を受けて静かに輝いていた。




