7話 幣舞橋の夕日
第7話 幣舞橋の夕日
釧路和商市場を出た三人は、いったんホテルに戻った。
朝早くから動いていたこともあり、少し休んでから夕方、再び外へ出た。
今日最後の目的地は、幣舞橋。
釧路の夕日を見るためだった。
「お母さん、夕日って何時くらい?」
次女がスマートフォンを見ながら聞いた。
「もうすぐじゃない?」
長女が空を見上げる。
「少しずつ色が変わってきてるね」
三人は橋の上を歩いた。
川を渡る風が少し冷たい。
けれど、不思議と気持ちよかった。
やがて、三人は夕日がよく見える場所で足を止めた。
目の前には釧路川。
その向こうに広がる空が、少しずつオレンジ色に染まり始めている。
「きれい……」
美佐子が小さく呟いた。
娘たちも黙って夕日を眺めていた。
太陽はゆっくりと西へ傾いていく。
水面に光が伸びて、川全体が輝いて見えた。
「お母さん」
長女が静かに声をかけた。
「なに?」
「お父さんも、この夕日を見たんだよね」
美佐子は頷いた。
「ええ」
「新婚旅行のときに」
「そうよ」
娘たちは、両親が若いころ、この北海道を旅行したことを知っている。
写真も見たことがある。
だからこそ、今こうして母と同じ景色を見ながら、父のことを聞きたくなった。
次女が夕日を見たまま尋ねた。
「お父さん、この夕日を見たとき、どんな感じだったの?」
美佐子は少し驚いたように娘を見る。
「どんな感じ?」
「うん」
「何て言ってたの?」
美佐子はしばらく考えた。
そして、ふっと笑った。
「感動してた……というよりね」
「というより?」
「お腹空いたって言ってた」
「え?」
娘たちが同時に母を見る。
美佐子は笑いをこらえながら続けた。
「夕日を見ながら、『きれいだなあ』って言ったあと……」
「あと?」
「『で、晩飯は何?』って」
「お父さん!」
次女が吹き出した。
長女も笑っている。
「ロマンチックじゃない!」
「でしょう?」
美佐子も声を上げて笑った。
「せっかく北海道のきれいな夕日を見てるのに」
「でも、お父さんらしいね」
長女が笑った。
「そうなのよ」
美佐子は夕日を見つめながら言った。
「昔からそういう人だったわ」
少し笑ったあと、美佐子の表情がゆっくり穏やかになった。
「でもね……」
「うん」
「そのあと、ちゃんと言ったのよ」
「何て?」
「『きれいだな。二人で見られてよかった』って」
娘たちは黙った。
美佐子は遠くの夕日を見つめた。
「その言葉は覚えてる」
「……お父さん、ちゃんといいこと言うじゃん」
次女が笑った。
「たまにはね」
「たまに?」
「たまに」
三人で笑った。
夕日はさらに低くなり、空は濃いオレンジ色に染まっていく。
長女が母の横顔を見ながら聞いた。
「お母さんは、そのときどう思ったの?」
「私?」
「うん」
美佐子は少し考えた。
「私も、きれいだなって思ったわ」
「それだけ?」
「それだけじゃないわよ」
美佐子は笑った。
「この人と結婚してよかったなって、思った」
娘たちは何も言わなかった。
美佐子は少し照れたように夕日へ視線を戻した。
「若かったからね。何も考えてなかったけど……」
「何も?」
「うん。お金もそんなになかったし、旅行の計画も今ほどちゃんとしてなかったし」
「お父さん、ちゃんと計画してた?」
「してるつもりだったみたい」
「つもり?」
「道に迷ったもの」
「やっぱり!」
娘たちの笑い声が響いた。
美佐子も笑った。
「でもね」
笑いが落ち着くと、美佐子は静かに続けた。
「そんな二人だったけど、あの夕日は今でも覚えてる」
長女が母の手を握った。
「今日、お母さんがまた見られてよかったね」
美佐子は娘の手を握り返した。
「そうね」
少し間を置いて、静かに言った。
「今度は、あなたたちと一緒だけどね」
「うん」
「お父さんと見た夕日とは、また違うわね」
次女が笑った。
「じゃあ、今日の夕日も忘れないね」
「ええ」
美佐子は頷いた。
夕日がゆっくりと沈んでいく。
空には赤い光が残っている。
美佐子はその景色を眺めながら、心の中で修一に語りかけた。
――あなた。
あのときと同じ場所で、今日は娘たちと夕日を見ているわ。
あなたは、今ごろ何て言ってるかしら。
「晩飯は何だ」って言ってるかもしれないわね。
そう思ったら、美佐子は思わず笑った。
「お母さん?」
娘たちが振り向く。
「何でもないわ」
美佐子は笑った。
「ちょっと、お父さんのことを思い出してただけ」
三人は並んで、沈んでいく夕日を最後まで眺めた。
釧路での一日が終わっていく。
けれど、美佐子の中には、また一つ新しい思い出が増えていた。
修一と見た夕日。
そして今日、娘たちと見た夕日。
同じ場所でも、思い出は一つではない。
美佐子は二人の娘と並んで歩きながら、明日の旅を少しだけ楽しみにしていた。




