第5話 釧路湿原の二羽の丹頂鶴
第5話 釧路湿原の二羽の丹頂鶴
北海道に来て二日目の朝。
美佐子は、いつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の床を淡く照らしている。
時計を見ると、まだ六時半だった。
「……早いわね」
そう呟きながら、美佐子はゆっくりと起き上がった。
今日は釧路湿原へ行く。
そして、丹頂鶴を見る。
そのことを考えると、自然と目が覚めてしまった。
身支度を整えて朝食を済ませると、娘たちと一緒に車へ乗り込んだ。
釧路の街を抜け、車は広い道路を走っていく。
窓の外には、どこまでも続くような空が広がっていた。
「お母さん、眠くない?」
運転している長女が聞いた。
「大丈夫よ」
「昨日も飛行機だったし、疲れてるかなと思って」
「それより、楽しみなの」
美佐子は笑った。
「釧路湿原、久しぶりだから」
その言葉を口にした瞬間、美佐子の胸の奥が少しだけざわついた。
久しぶり。
そう言ったけれど、実際には四十年以上ぶりだった。
修一と二人で訪れた、あの日以来だった。
やがて車が止まった。
美佐子は外へ出る。
目の前に広がる景色を見て、思わず息をのんだ。
広い。
ただ広い。
草原と湿地が遠くまで続き、その向こうに大きな空がある。
風がゆっくりと吹いている。
「……すごい」
「やっぱり広いね」
娘たちも景色を眺めている。
美佐子は少しずつ歩きながら、湿原の向こうを見渡した。
そのときだった。
「あっ、お母さん!」
次女の声がした。
「何?」
「あそこ見て!」
指差す先に、白い姿があった。
一羽。
そして、その少し後ろにもう一羽。
「……丹頂鶴」
美佐子の足が止まった。
二羽の丹頂鶴が、湿原の中に立っている。
互いに少し離れている。
けれど、どちらかが歩き出すと、もう一羽も後を追う。
二羽はまた並ぶ。
その姿を見つめているうちに、美佐子の中で、遠い日の景色が静かによみがえった。
四十年以上前――
北海道へ来たばかりの二人は、釧路湿原を歩いていた。
若い美佐子は、慣れない靴で少し歩き疲れていた。
「ちょっと待って」
「疲れた?」
先を歩いていた修一が振り返る。
「少しだけ」
「じゃあ、休もうか」
「うん」
二人が立ち止まった、そのときだった。
修一が突然、遠くを指差した。
「あれ、見て」
「何?」
「鳥」
美佐子が目を凝らす。
湿原の向こうに、白い鳥が二羽いる。
「……丹頂鶴?」
「たぶん」
二人は並んで立ち、その姿を眺めた。
二羽の丹頂鶴は、ゆっくりと歩いていた。
一羽が進む。
もう一羽も進む。
少し離れる。
また近づく。
美佐子は、思わず笑った。
「仲良しね」
「俺たちみたいだな」
「何それ」
「だって二羽でいるじゃん」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
修一は真面目な顔で二羽を見つめた。
「ずっと二羽でいるみたいだろ」
美佐子は修一を見る。
結婚したばかりだった。
二人の前には、まだ長い人生が待っていると思っていた。
「私たちも、ずっとこうしていられるかしら」
美佐子が何気なく言うと、修一はすぐに答えた。
「いられるよ」
「どうして?」
「俺がそうするから」
「何それ」
美佐子が笑う。
修一も笑った。
そして、少し照れながら言った。
「年を取ってもさ、こうやって二人で旅行しよう」
「旅行?」
「そう。若いときだけじゃなくて」
修一は遠くの丹頂鶴を指差した。
「年を取っても、あんなふうに二人で歩こう」
美佐子は少し照れながら頷いた。
「……約束ね」
「ああ、約束」
二人は並んで立った。
その向こうには、二羽の丹頂鶴。
若い二人は、いつまでもその姿を眺めていた。
現在――
「お母さん?」
娘の声が聞こえた。
美佐子はゆっくりと現実に戻った。
目の前には、今も二羽の丹頂鶴がいる。
四十年以上前と同じように、二羽は並んで歩いている。
「……お母さん、どうしたの?」
長女が心配そうに尋ねる。
美佐子はしばらく二羽を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「昔ね」
「うん」
「お父さんとここに来たときも、二羽の丹頂鶴を見たの」
「そうなんだ」
「そのとき、お父さんが言ったのよ」
美佐子は二羽を見つめたまま話した。
「年を取っても、二人でこうやって旅行しようって」
娘たちは黙って母の話を聞いていた。
「……お父さんらしいね」
次女が静かに言った。
「そうね」
美佐子は笑った。
けれど、その目には涙が浮かんでいた。
「でも……約束、守れなかったわね」
一瞬、寂しそうな表情になる。
修一は七十歳で亡くなった。
二人でまた北海道へ来ることもできなかった。
摩周湖を見ることも。
この釧路湿原を一緒に歩くことも。
もうできない。
それでも、美佐子は二羽の丹頂鶴から目を離さなかった。
やがて、一羽が大きく羽を広げた。
もう一羽も続く。
二羽はゆっくりと空へ舞い上がった。
「……あ」
娘たちが声を上げる。
美佐子は空を見上げた。
二羽の丹頂鶴が並んで飛んでいる。
その姿を見ながら、美佐子はそっと呟いた。
「あなた……」
風が吹いた。
「見てる?」
返事はない。
けれど、美佐子は微笑んだ。
「私、来たわよ」
そして、少しだけ涙を拭った。
「今度は娘たちと一緒だけどね」
長女が母の肩にそっと手を置く。
「お母さん」
「何?」
「きっと、お父さんも喜んでるよ」
美佐子は娘を見る。
「そうかしら?」
「うん」
次女も笑った。
「だって、お母さんが旅行に来てくれたんだもん」
美佐子は二人の娘を見て、ふっと笑った。
「……そうね」
そして、もう一度空を見上げる。
二羽の丹頂鶴は、遠い空へ飛んでいった。
美佐子はその姿を見送りながら思った。
約束は、叶わなかった。
けれど、約束を交わした日のことは、今も胸の中に残っている。
そして、その記憶があるからこそ――
今日、この場所へ来ることができた。
「そろそろ行こうか」
長女が言った。
「ええ」
美佐子は歩き出した。
娘たちと並んで。
四十年前、修一と並んで歩いた湿原を。
今度は娘たちと一緒に。
その一歩一歩を踏みしめながら、美佐子は静かに笑っていた。
娘たちと歩く釧路湿原
釧路湿原の遊歩道を、三人でゆっくり歩いていた。
広い空の下に、どこまでも続く湿原。
風が草を揺らし、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
「お母さん、こっち」
長女が振り返った。
「ゆっくりでいいからね」
「大丈夫よ。そんなに年寄り扱いしないで」
「してないって」
次女が笑った。
「でも、お母さんが北海道で転んだら、お父さんに怒られそう」
その言葉に、美佐子は思わず笑った。
「そうね。あの人なら言いそうね」
「何て?」
「『だから無理するなって言っただろ』って」
「言いそう!」
三人で笑った。
しばらく歩いていると、次女が足を止めた。
「……あっ」
「どうしたの?」
「あそこ」
指差した先に、白い姿が見えた。
美佐子も目を凝らす。
長い首。
白い体。
頭の上には赤い色。
「丹頂鶴……」
そこには、二羽の丹頂鶴がいた。
一羽だけではない。
二羽が少し離れながら、並ぶように立っている。
「昨日と同じだね」
長女が言った。
美佐子は静かに頷いた。
「……そうね」
二羽を見つめていると、次女が美佐子の顔を覗き込んだ。
「お母さん?」
「ん?」
「やっぱり、お父さんと昔ここで見たの?」
美佐子は少し驚いた。
「よく分かったわね」
「だって、さっきからずっと見てるから」
長女も笑った。
「聞きたい」
「何を?」
「お父さんと見たときの話」
美佐子は二羽の丹頂鶴に目を向けた。
「そうね……」
少し考えてから、ゆっくり話し始めた。
「あなたたちが生まれるずっと前。お父さんと新婚旅行で北海道に来たの」
「うん」
「そのときも、ここで丹頂鶴を見たのよ」
「二羽?」
「ええ。二羽」
次女が嬉しそうに笑った。
「やっぱり!」
「それでね」
美佐子は笑った。
「お父さんったら、丹頂鶴を見た途端に、『俺たちもあんなふうになろう』って言ったの」
「お父さんらしい」
長女が笑う。
「でしょう?」
美佐子も笑った。
「まだ新婚なのに、そんなこと言うのよ」
「でも、いいじゃん」
「まあね」
美佐子は二羽を見つめた。
「私が『あんなふうに?』って聞いたらね」
「うん」
「『ずっと二人でいようってこと』って」
娘たちは黙って聞いている。
美佐子は少し照れたように笑った。
「それから、お父さんは『年を取ったら、また北海道に来よう』って言ったの」
「……」
「『今度はもっとゆっくり旅行しよう』って」
次女が小さく息を吐いた。
「本当に来たかったんだね」
「ええ」
美佐子は頷いた。
「私も来たかった」
長女が母の手をそっと握った。
「でも……」
美佐子は二羽の丹頂鶴を見た。
「結局、二人では来られなかったわね」
一瞬だけ、風の音が大きく聞こえた。
けれど、美佐子は泣かなかった。
むしろ、穏やかな顔をしていた。
「でも、お母さん」
長女が言った。
「今、北海道にいるよ」
美佐子は娘を見る。
「そうね」
次女も笑った。
「しかも私たちと一緒」
「そうね」
美佐子は二人の娘を見た。
そして、遠くの二羽の丹頂鶴に目を戻す。
「お父さんにも見せたかったわね」
「うん」
「この景色」
「うん」
三人はしばらく黙って、二羽を眺めた。
すると、一羽の丹頂鶴がゆっくりと歩き始めた。
もう一羽も、その後を追う。
二羽は離れることなく、並んで湿原の中を進んでいった。
「……お父さんみたい」
次女がぽつりと言った。
「何が?」
「お母さんが歩いたら、絶対ついていきそう」
美佐子は吹き出した。
「そうね。あの人、私より先に歩いて迷子になるくせに、私がいないと『どこ行った?』って探す人だったもの」
「何それ」
「お父さんらしいね」
三人で笑った。
美佐子は、笑いながら二羽を見送った。
「ありがとうね」
娘たちが振り返る。
「何が?」
「連れてきてくれて」
「まだ初日だよ?」
「そうだけど」
美佐子は笑った。
「来てよかったわ」
長女が嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、まだまだ行こう」
「次はどこ?」
「お昼!」
次女が即答した。
「お母さん、北海道来てまで食べ物の話?」
「いいじゃない。北海道なんだから」
「それもそうね」
三人はまた笑った。
美佐子は最後にもう一度、湿原を振り返った。
遠くに二羽の丹頂鶴が見える。
若いころ、修一と見た二羽。
そして今、娘たちと見ている二羽。
同じ景色なのに、そこに重なる時間は違っていた。
美佐子は二人の娘の間を歩きながら、ゆっくりと前を向いた。
北海道の旅は、まだ始まったばかりだった。




