第4話 北海道へ
第4話 北海道へ
飛行機がゆっくりと高度を下げ始めると、窓の外に広々とした大地が見えてきた。
雲の切れ間から見える景色は、東京とはまるで違っていた。
どこまでも続くような緑。
小さく見える道路。
その向こうには、遠くまで広がる大地がある。
窓側の席に座っていた美佐子は、しばらく黙って外を眺めていた。
「お母さん」
隣の席から長女が声をかける。
「ん?」
「北海道、見えてきたよ」
「ええ。見えてるわ」
そう答えながら、美佐子は窓の外から目を離さなかった。
北海道。
四十年以上前にも、こうして飛行機から北海道を見た。
あのときは、隣に修一がいた。
まだ若かった二人。
結婚したばかりで、これから始まる長い夫婦生活のことなど、何も知らなかった。
ただ、
「北海道って、広いなあ」
修一が窓の外を見ながら言ったことだけは、今でも覚えている。
「北海道なんだから広いに決まってるでしょう」
美佐子が笑うと、
「いや、そういう意味じゃなくてさ」
「じゃあ、どういう意味?」
「俺たちのこれからの人生くらい広いなって」
「何それ」
当時の美佐子は、修一の言葉を笑って聞き流した。
けれど今思えば、あれは修一らしい言葉だった。
大げさで、少し恥ずかしくて。
でも、どこか優しかった。
「お母さん?」
長女の声で、美佐子は我に返った。
「何?」
「またお父さんのこと考えてた?」
美佐子は少しだけ笑った。
「……分かる?」
「分かるよ。お母さん、昔のこと思い出すと、すぐ遠くを見るから」
「そんな癖、あったのね」
「あるよ」
長女は笑った。
「でも、今日はいいんじゃない?」
「何が?」
「お父さんとの思い出を思い出す旅なんだから」
美佐子は、少しだけ黙った。
そして窓の外を見る。
「そうね」
小さな声で答えた。
「今日は、思い出していい日なのかもしれないわね」
やがて機内アナウンスが流れた。
飛行機は着陸態勢に入った。
美佐子は座席に深く背を預ける。
胸の奥が、少しだけざわついていた。
楽しみなのか。
寂しいのか。
自分でもよく分からない。
ただ、一つだけ分かっていることがあった。
自分は今、北海道へ向かっている。
四十年以上前に、修一と訪れた場所へ。
そして今度は、娘たちと一緒に。
飛行機が着陸すると、長女がほっとしたように息を吐いた。
「着いた!」
次女も嬉しそうに声を上げる。
「北海道!」
二人の娘がまるで子どものように喜んでいる。
美佐子は思わず笑った。
「あなたたち、修学旅行じゃないんだから」
「いいじゃない。旅行なんだから」
「そうそう。楽しんだ者勝ち」
二人のやり取りを聞きながら、美佐子は笑った。
久しぶりだった。
こんなふうに、心から笑ったのは。
空港を出ると、ひんやりとした空気が頬に触れた。
美佐子は立ち止まった。
「……北海道の匂いがする」
「匂い?」
次女が首を傾げる。
「そう。なんとなく」
もちろん、北海道に特別な匂いがあるわけではない。
けれど美佐子には、そう感じた。
四十年前に初めて北海道へ降り立ったときも、同じように感じた気がする。
「あのときも、こうだったのかしら」
「お父さんと?」
「ええ」
美佐子は小さく笑った。
「修一さんったら、空港を出た途端に『北海道、寒っ!』って言ったのよ」
娘たちは顔を見合わせた。
「お父さんらしい」
「でしょ?」
「それで?」
「私が『東京と同じ服装で来るからよ』って言ったら……」
美佐子は少し考えてから、吹き出した。
「『北海道を甘く見てた』って」
娘たちも笑った。
「何それ」
「本当にお父さんらしいね」
「そうなのよ」
美佐子は笑いながら、ふと空を見上げた。
青い空だった。
その空を見ながら、胸の奥に少しだけ痛みを感じた。
修一はもういない。
一緒に笑うこともできない。
それでも――
こうして思い出を口にすると、すぐそばにいるような気がする。
「お母さん、行こう」
長女が声をかける。
「ええ」
美佐子は歩き出した。
今回の旅では、レンタカーを使って釧路へ向かう。
娘たちが運転を交代しながら、旅を進める予定だった。
車に乗り込むと、次女がカーナビを確認した。
「じゃあ、釧路まで行こう」
「お願いね」
車が走り出す。
窓の外に広がる景色が、少しずつ変わっていく。
建物が減り、緑が増えていく。
広い空。
長い道路。
遠くまで続く大地。
美佐子は窓の外を眺めながら、また四十年前の北海道を思い出していた。
あのときは修一が運転していた。
まだ若かった修一は、ハンドルを握りながら得意そうに言った。
『俺、運転得意だから任せて』
『本当に?』
『任せろって』
ところが――
しばらくすると。
『美佐子……』
『何?』
『次の道、右だっけ? 左だっけ?』
『知らないわよ』
『地図見てくれない?』
『運転得意なんじゃなかったの?』
『運転は得意。道を覚えるのが苦手』
『それ、得意って言わないでしょう』
そんな会話まで、鮮明に蘇ってくる。
美佐子は思わず笑った。
「どうしたの?」
運転していた長女が聞く。
「ううん」
美佐子は笑いながら答えた。
「お父さんのこと思い出してたの」
「また何か変なこと言ってた?」
「ええ」
「やっぱり」
車の中に笑い声が広がった。
北海道の広い道を、車はゆっくりと進んでいく。
しばらくすると、美佐子は小さな声で言った。
「修一さん……」
娘たちには聞こえないほどの声だった。
「来たわよ」
もちろん返事はない。
けれど美佐子は、もう一度窓の外を見た。
四十年前に二人で来た北海道。
そして今、自分は娘たちとここにいる。
悲しい。
寂しい。
それでも――
不思議と、心の奥には少しだけ温かなものがあった。
修一と過ごした時間は、終わったわけではない。
思い出の中には、まだたくさん残っている。
笑ったことも。
喧嘩したことも。
くだらないことで言い合ったことも。
そして、幸せだったことも。
その一つ一つを、これから娘たちと一緒に辿っていく。
やがて、釧路の街が見えてきた。
「お母さん、釧路だよ」
娘の声に、美佐子は顔を上げた。
窓の外に広がる街を見つめる。
「……帰ってきたみたいね」
「来たことがあるだけなのに?」
「そうね」
美佐子は微笑んだ。
「でも、私にとっては大切な場所だから」
車は釧路の街へ入っていった。
明日は、釧路湿原へ行く。
そして――
四十年前には見ることのできなかったものを見ることになる。
美佐子は、まだ知らなかった。
この旅の最初の日に出会う一羽の丹頂鶴が、自分の心に残っていたものを、そっと動かしてくれることを。




