第3話 旅立ちの朝
第3話 旅立ちの朝
北海道へ行くと決めてから、一週間が過ぎた。
美佐子の家では、いつになく慌ただしい時間が続いていた。
長女は旅行の日程を作り、次女はホテルや交通手段を調べている。
「お母さん、ここで一泊して、次の日は阿寒湖ね」
「そんなに細かく決めなくてもいいんじゃない?」
「ダメ。お母さん一人だったら、絶対に『どこでもいいわ』って言うでしょ」
「……」
図星だった。
夫がいた頃は、旅行の計画を立てるのはいつも夫だった。
ホテルを予約するのも夫。
電車の時間を調べるのも夫。
美佐子は横で、
「ちゃんと調べた?」
と聞くだけだった。
すると夫は決まって、
「大丈夫、大丈夫」
と言った。
その「大丈夫」が、何の根拠もないことを、美佐子はよく知っていた。
それでも、なぜか夫に任せていた。
「お父さんって、旅行の計画とか得意だった?」
長女が聞いた。
美佐子は笑った。
「得意じゃないわよ」
「え?」
「得意だと思ってた?」
「うん」
「全部適当だったもの」
娘たちが笑う。
「そうなの?」
「一度なんてね、宿を予約したつもりで、予約できてなかったことがあるのよ」
「ええ?」
「それで本人は『何とかなる』って」
「お父さんらしいね」
三人で笑った。
美佐子も笑った。
夫が亡くなってから、家の中でこんなに笑ったのは久しぶりだった。
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旅行の前日。
美佐子は押し入れから古い旅行バッグを取り出した。
長い間使っていなかった。
表面には少し埃がついている。
布で拭いていると、ふと昔の記憶が蘇った。
四十年以上前。
新婚旅行の前日も、このバッグを開いていた。
当時の美佐子は、今よりずっと若かった。
何を持っていけばいいのか分からず、服を何枚も並べていた。
「これ、持っていこうかな」
「いらないだろ」
後ろから修一が言った。
「なんで?」
「三泊だぞ」
「でも、何があるか分からないじゃない」
「北海道に何があるんだよ」
「寒いかもしれないし」
「夏だぞ」
「雨が降るかもしれない」
「傘は一本でいいだろ」
「もし壊れたら?」
「そんなに壊れない」
「もし――」
「美佐子」
修一が笑った。
「旅行じゃなくて引っ越しするのか?」
美佐子はむっとした。
「あなたは何も心配しないからいいのよ」
「俺がいるから大丈夫」
「その自信、どこから来るの?」
「俺だから」
「答えになってない」
二人は顔を見合わせて笑った。
あのときの会話まで、昨日のことのように思い出せる。
美佐子は旅行バッグを開いた。
中には何も入っていない。
けれど、バッグを見ているだけで、昔の二人がそこにいるような気がした。
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「お母さん、何してるの?」
娘が部屋を覗いた。
「昔のバッグを出してきたの」
「これ?」
「そう。新婚旅行にも持って行ったのよ」
娘がバッグを見る。
「まだ使えるじゃん」
「そうね」
「じゃあ、これ持って行こうよ」
美佐子は少し迷った。
「古いわよ」
「いいじゃん。思い出があるんでしょ?」
「……そうね」
美佐子は頷いた。
そして、そのバッグに服を詰め始めた。
娘たちが手伝ってくれる。
「お母さん、これも入れる?」
「それは置いていって」
「じゃあ、これは?」
「それもいらない」
「じゃあ何を持っていくの?」
「必要なもの」
「それが分からないから聞いてるんだけど」
美佐子は思わず笑った。
昔の自分と夫も、こんなやり取りをしていた。
同じような会話が、今度は娘たちとの間で繰り返されている。
時代は変わっても、家族と旅に出るときの慌ただしさは変わらない。
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夜。
荷造りが終わった。
美佐子は一人で居間に座っていた。
テーブルの上には、北海道の地図。
そして一枚の古い写真。
若い頃の自分と夫が写っている。
美佐子は写真を手に取った。
「明日、行くわよ」
写真の中の夫は笑っている。
「今度はちゃんと準備したから」
少し間を置いて、
「あなたみたいに、何とかなるなんて言わないからね」
そう言って、美佐子は笑った。
けれど、その笑顔はすぐに寂しさへ変わった。
「……本当は、一緒に行きたかった」
静かな部屋。
返事はない。
美佐子は写真を胸元に抱いた。
しばらくして、涙を拭う。
そして写真をテーブルの上に戻した。
「でも、行ってくるね」
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翌朝。
まだ空が明るくなり始めた頃、美佐子は目を覚ました。
今日は出発の日だった。
不思議だった。
昨日までとは違う。
胸の奥が少しだけ弾んでいる。
悲しいだけではない。
楽しみでもある。
美佐子は身支度を整え、玄関へ向かった。
旅行バッグを持つ。
玄関の靴を履く。
すると、長女から電話が入った。
「お母さん、もう出られる?」
「ええ」
「じゃあ、今から迎えに行くね」
電話を切る。
美佐子は玄関の鏡に映った自分を見た。
少しだけ背筋を伸ばす。
「行ってきます」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
夫に言ったのか。
家に言ったのか。
それとも、これから始まる旅に言ったのか。
外へ出る。
朝の空気が頬に触れた。
美佐子は空を見上げた。
青い空だった。
四十年前、新婚旅行へ向かう朝も、こんな空だったのだろうか。
そんなことを考えながら、美佐子は娘たちを待った。
やがて車がやって来る。
娘が窓を開けた。
「お母さん、行こう!」
美佐子は笑った。
「うん」
車に乗り込む。
北海道への旅が、始まった。
そして美佐子はまだ知らなかった。
この旅で、四十年前には気づかなかった夫の想いを、いくつも知ることになることを。




