第2話 四十年前の新婚旅行
第2話 四十年前の新婚旅行
「北海道に行く」
そう決めた翌朝。
美佐子は、いつもより少し早く目を覚ました。
目覚まし時計が鳴る前だった。
布団の中で目を開けると、昨日の娘との会話を思い出した。
――北海道に行ってみようかな。
自分で言った言葉なのに、まだ少し不思議な気持ちだった。
本当に行くのだろうか。
夫がいないのに。
四十年以上前に二人で訪れた場所へ、自分はもう一度行く。
そう考えると、胸の奥が少し苦しくなる。
けれど同時に、不思議なことに、昨日までとは違う感覚もあった。
久しぶりに「楽しみ」という気持ちが、ほんの少しだけ芽生えていた。
美佐子は布団から起き上がった。
台所へ向かう途中、夫の写真が目に入った。
「あなたも行く?」
もちろん返事はない。
美佐子は写真に向かって笑った。
「返事くらいしてよ」
そう言ってから、自分でおかしくなった。
「……ほんと、いないんだね」
それでも、その日は久しぶりに朝食をきちんと作った。
トーストを焼き、卵を焼く。
そして、いつもの癖で二人分の皿を出してしまった。
「あ……」
一枚を戻す。
けれど、昔のように胸が締めつけられることはなかった。
代わりに、夫の声が聞こえたような気がした。
――俺、目玉焼きは半熟な。
「知ってるわよ」
思わず答える。
そして美佐子は、また笑った。
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午後になると、長女と次女が揃ってやってきた。
二人とも、妙に嬉しそうだった。
「お母さん、本当に行くんだね」
「まだ行くって決めただけでしょ」
「それを行くって言うの」
次女が笑う。
テーブルの上には、北海道の観光パンフレットが何冊も並べられた。
「どこに行きたい?」
長女が聞く。
美佐子はパンフレットを眺めた。
「どこって……」
「お父さんと行ったところ」
その言葉を聞いて、美佐子は一冊のパンフレットを手に取った。
そこには大きな湖の写真が載っていた。
「阿寒湖……」
その名前を口にした瞬間、記憶が一気に蘇った。
四十年以上前。
結婚したばかりの美佐子と修一は、北海道へ向かう飛行機に乗っていた。
当時の二人にとって、北海道は遠い場所だった。
飛行機に乗ることさえ、少し特別なことだった。
座席に座った修一は、窓の外ばかり見ていた。
「なあ、美佐子」
「なに?」
「北海道って、雪がすごいんだろ?」
「新婚旅行は夏よ」
「そうだった」
「ちゃんと旅行の日程、見てないの?」
「見たよ」
「じゃあ、どうして雪の話になるのよ」
「北海道だから」
「意味分からない」
修一は笑った。
美佐子もつられて笑った。
あの頃の二人は、何をしても楽しかった。
ホテルに着いてからも、修一は落ち着かなかった。
荷物を置くなり、
「散歩行こう」
と言い出した。
「今?」
「今」
「疲れてないの?」
「北海道に来たんだぞ」
「だから?」
「歩かないともったいない」
結局、二人は夕方の道を歩いた。
何の変哲もない道だった。
けれど二人にとっては、それが特別だった。
「私たち、本当に結婚したんだね」
美佐子が言った。
修一は少し照れたように、
「今さら?」
と答えた。
「だって、まだ実感がないんだもの」
「俺はあるぞ」
「どんな実感?」
修一は少し考えてから言った。
「これから、ずっと美佐子と一緒なんだなって」
美佐子は何も言えなかった。
ただ、隣を歩く修一の手をそっと握った。
四十年以上前の出来事。
ほんの短い会話だった。
けれど、今でも鮮明に覚えている。
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「お母さん?」
娘の声で、美佐子は現在に戻った。
「どうしたの?」
「ぼーっとしてたよ」
「ちょっと思い出してたの」
「お父さんのこと?」
美佐子は頷いた。
「うん」
長女が笑った。
「じゃあ、阿寒湖は絶対行こう」
「そうね」
次女が地図を広げる。
「ここから摩周湖にも行けるよ」
「摩周湖……」
また一つ、記憶が蘇る。
若い二人で訪れた摩周湖。
ところが、その日は霧が出ていて、湖がほとんど見えなかった。
修一はしばらく湖を眺めたあと、
「……見えないな」
「見えないわね」
「せっかく来たのに」
「仕方ないじゃない」
すると修一は突然、
「よし」
と言った。
「何?」
「もう一回、北海道に来るぞ」
美佐子は笑った。
「いつ?」
「そのうち」
「そのうちっていつよ」
「年を取ってから」
「何歳?」
修一は少し考えて、
「七十歳くらい」
美佐子は笑った。
「そんな先?」
「夫婦になったら、七十歳なんてすぐだぞ」
「そうかな」
「絶対そうだ」
そして修一は言った。
「そのときは、今度こそ二人で摩周湖を見る」
その約束を、美佐子はすっかり忘れていた。
いや。
忘れていたというより、心の奥にしまっていたのかもしれない。
七十歳になったのは、夫のほうだった。
けれど、約束を果たす前に夫はいなくなった。
「お母さん?」
長女の声に、美佐子は顔を上げた。
「……摩周湖にも行きたい」
娘たちは顔を見合わせた。
「じゃあ、行こう」
「うん」
美佐子は地図を見つめた。
釧路。
阿寒湖。
摩周湖。
屈斜路湖。
知床。
次々と地名を指でなぞる。
その一つ一つに、夫との思い出がある。
そして気づいた。
北海道は、単なる旅行先ではなかった。
そこには、若かった二人の時間が残っている。
初めて手をつないだ道。
初めて二人で見た景色。
初めて夫婦として笑った場所。
そして、叶わなかった約束。
美佐子は静かに言った。
「全部、行ってみたい」
娘が笑った。
「全部?」
「ええ」
「大丈夫?」
「大丈夫よ」
美佐子は少しだけ胸を張った。
「お父さんが行きたかったんだから」
娘は何も言わず、母の手を握った。
その夜。
美佐子は古いアルバムをもう一度開いた。
若い夫婦が北海道の景色を背にして笑っている。
写真の端には、夫が書いた小さな文字があった。
――また二人で来よう。
美佐子はその文字を指でなぞった。
「……今度は、娘たちと行ってくるね」
そして写真をそっと閉じた。
四十年前に始まった北海道への旅。
今度は、一人ではない。
娘たちと一緒に、あの日の二人を探す旅が始まろうとしていた。




