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あの日の君に会いに』 ――二人の始まりの場所へ。愛した日々を、もう一度確かめるために。  作者: 雨宮ぐみ


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第1話 夫のいない朝

『あの日の君に会いに』

――二人の始まりの場所へ。愛した日々を、もう一度確かめるために。


まえがき


人には、それぞれ心に残る旅がある。


初めて一緒に見た景色。

旅先で交わした何気ない会話。

笑い合ったことも、喧嘩したことも、今となっては大切な思い出になっている。


この物語の主人公・美佐子にも、そんな大切な旅があった。


夫と二人で訪れた、北海道・道東への新婚旅行。


あれから長い年月が流れ、二人は人生の多くを共に歩んできた。


けれど、夫は病に倒れ、美佐子を残して旅立ってしまう。


悲しみに沈む美佐子を見て、娘たちはある旅を計画する。


それは、母と父が若い頃に訪れた、思い出の北海道をもう一度巡る旅だった。


同じ景色を見ても、若い頃と今では感じることが違う。


旅をしながら、美佐子は夫と過ごした長い年月を思い返していく。


そして、気づいていく。


大切な人は、いなくなっても、思い出の中から消えることはない。


この物語が、誰かを愛することの温かさや、大切な人と過ごした時間の尊さを感じてもらえる一冊になれば幸いです。


それでは、美佐子と娘たちの北海道への旅を、どうぞ一緒にお楽しみください。

第1話 夫のいない朝


朝、目が覚めると、部屋の中は静かだった。


美佐子は布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。


カーテンの隙間から、細い朝の光が差し込んでいる。


いつもの朝だった。


時計を見る。


午前六時半。


以前なら、この時間には隣で眠っている夫を起こしていた。


「あなた、もう朝よ」


そう声をかけると、夫は決まって、


「あと五分……」


と答えた。


その五分が十分になり、十五分になり、最後には美佐子が布団をめくる。


「もう起きなさい。会社、遅れるわよ」


「分かってるって」


そんなやり取りを、何十年も繰り返してきた。


けれど、今は違う。


隣の布団は、きれいに畳まれたままだ。


そこに夫はいない。


美佐子はゆっくりと布団から起き上がった。


「……おはよう」


誰もいない部屋に、小さな声が落ちた。


言ってから、美佐子は苦笑した。


もう返事をしてくれる人はいない。


それでも、毎朝の癖だけは消えてくれなかった。


台所へ行き、二人分の湯飲みを出しかけて、手が止まる。


「あ……」


一つだけ戻す。


それだけのことなのに、胸の奥が痛くなった。


夫が亡くなってから、半年が過ぎていた。


病気が分かったのは、夫が七十歳の誕生日を迎えた頃だった。


最初は、ほんの少し体調が悪いだけだと思っていた。


「年を取ったからだろ」


夫は笑っていた。


病院で検査を受けることになっても、


「大したことないって」


そう言っていた。


けれど、医師から病名を告げられたとき、美佐子は何も言えなかった。


そこからの時間は、あまりにも早かった。


病院へ通い、薬を受け取り、食事を考え、夫の体調を気にする。


夫は最後まで弱音を吐かなかった。


時々、苦しそうな顔をしながらも、


「美佐子、そんな顔するなよ」


と笑った。


「俺よりお前のほうが病人みたいだぞ」


そんな冗談まで言っていた。


美佐子は、


「誰のせいだと思ってるの」


と返した。


夫は笑った。


それが、最後に二人で笑った日のことだった。


それから数日後、夫は静かに旅立った。


あの日から、美佐子の時間は止まってしまったようだった。


子どもたちは心配して、何度も家に来てくれた。


長女も次女も、


「お母さん、一人で大丈夫?」


と何度も尋ねた。


美佐子は、そのたびに笑って、


「大丈夫よ」


と答えた。


でも、本当は大丈夫ではなかった。


食事をしても味がしない。


テレビをつけても内容が頭に入らない。


買い物へ行けば、夫の好きだったものが目に入る。


スーパーで魚を見れば、


「これ、あの人好きだったな」


と思う。


テレビで北海道の景色が映れば、


「ああ……ここ、一緒に行ったな」


と思う。


何をしても夫に結びついてしまう。


だから、美佐子は次第に外へ出なくなった。


そんなある日の午後。


玄関のチャイムが鳴った。


「お母さん?」


長女だった。


美佐子が玄関を開けると、娘は紙袋を二つ抱えて立っていた。


「お昼、買ってきたよ」


「ありがとう」


娘は靴を脱ぎながら、家の中を見回した。


「ちゃんと食べてる?」


「食べてるわよ」


「本当に?」


「本当」


「じゃあ、昨日は何食べた?」


「……」


美佐子は黙った。


娘がため息をつく。


「ほら」


「たまたま思い出せないだけよ」


「もう。お母さんったら」


二人でテーブルについた。


娘が買ってきた弁当を広げる。


美佐子は箸を持った。


けれど、なかなか口に運ばない。


娘はそんな母を黙って見ていた。


しばらくして、娘が言った。


「ねえ、お母さん」


「なに?」


「旅行、行かない?」


美佐子は顔を上げた。


「旅行?」


「うん」


「どこへ?」


娘は少しだけ間を置いてから言った。


「北海道」


その瞬間、美佐子の手が止まった。


「……北海道?」


「うん」


その言葉を聞いただけで、胸の奥から遠い記憶が蘇ってきた。


若かった頃。


夫と二人で飛行機に乗った。


初めての北海道。


窓の外に広がる大地を見て、夫が子どものように笑っていた。


「美佐子、見ろよ。北海道だぞ」


「見えてるわよ」


「すごいな。どこまで行っても北海道だ」


「当たり前でしょ」


「でも、すごいだろ?」


「……うん」


あの日の夫の笑顔が、今でもはっきり浮かぶ。


美佐子は俯いた。


「北海道は……」


声が震えた。


「お父さんと行った場所よ」


娘は静かに頷いた。


「知ってる」


「新婚旅行だったの」


「うん。聞いたことある」


「道東を回ったのよ」


美佐子は、少しずつ話し始めた。


阿寒湖。


摩周湖。


屈斜路湖。


知床。


若い二人で見た景色。


旅先で食べたもの。


道に迷ったこと。


小さなことで喧嘩したこと。


そして、何よりも楽しかったこと。


話しているうちに、美佐子の顔にほんの少し笑顔が戻っていた。


娘はその顔を見ていた。


そして、静かに言った。


「じゃあ……もう一度行こうよ」


美佐子は娘を見つめた。


「もう一度?」


「うん」


「お父さんと行った場所へ?」


「そう」


美佐子はすぐには答えなかった。


行きたい気持ちはある。


けれど、怖くもあった。


北海道へ行けば、夫との思い出がもっと鮮明になるかもしれない。


楽しかった記憶が、かえって胸を締めつけるかもしれない。


「……私、一人じゃ無理よ」


すると娘は笑った。


「一人じゃないよ」


「え?」


「私たちが一緒に行くから」


その言葉に、美佐子は黙った。


窓の外を見る。


青空が広がっていた。


夫が亡くなってから、こんなふうに遠くを見ることもなくなっていた。


美佐子は小さく息を吐いた。


そして、ほんの少しだけ笑った。


「……北海道か」


久しぶりに口にしたその言葉は、思っていたよりも温かかった。


まだ行くと決めたわけではない。


それでも、その日の夜。


美佐子は押し入れの奥から、一冊の古いアルバムを取り出した。


表紙には、若い頃の二人が写っている。


その中には、四十年以上前の北海道の写真もあった。


美佐子は一枚の写真を指でなぞった。


写真の中の夫は、満面の笑みを浮かべている。


「……あなた」


静かな部屋で、美佐子は写真に向かって話しかけた。


「もう一度、行ってみようか」


もちろん、写真の中の夫は何も答えない。


けれど美佐子には、あの日と同じ笑顔で、


「行こう」


そう言っているように見えた。


そして翌朝。


美佐子は娘に電話をかけた。


「北海道……行ってみようかな」


電話の向こうから、娘の嬉しそうな声が聞こえた。


その瞬間、美佐子の長い間止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き始めた。

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