第25話 旅のあとに
第25話 旅のあとに
北海道から帰ってきて、三日が過ぎた。
美佐子は朝、いつものように目を覚ました。
窓から入ってくる光。
静かな部屋。
見慣れた天井。
北海道へ行く前と、何も変わっていない。
けれど――
美佐子自身は、少しだけ違っていた。
「……朝か」
布団から起き上がる。
以前なら、起きてもすることがなかった。
テレビをつける気にもならない。
外へ出る気にもならない。
ただ時間が過ぎるのを待っていた。
けれど今日は違う。
カーテンを開ける。
窓を開ける。
朝の空気が部屋に入ってきた。
「今日は、いい天気ね」
そう言ってから、美佐子は自分で少し驚いた。
以前なら、天気なんて気にもしなかった。
キッチンへ行き、湯を沸かす。
コーヒーを入れる。
そして、テーブルに座った。
ふと、旅行中のことを思い出す。
丹頂鶴。
阿寒湖。
摩周湖。
知床。
羅臼。
娘たちとの会話。
思わず笑ってしまう。
「……楽しかったな」
その言葉が自然に出てきた。
以前なら、修一のことを思い出すと、胸が苦しくなっていた。
今も寂しさはある。
会いたいと思う気持ちもある。
でも――
それだけではなくなっていた。
修一との思い出を思い出しながら、笑うことができる。
それが、美佐子にとって大きな変化だった。
スマートフォンが鳴った。
画面を見る。
長女からだった。
『お母さん、起きてる?』
美佐子は返信する。
『起きてるわよ』
すぐに返事が来た。
『北海道ロスになってない?』
「北海道ロス……?」
美佐子は思わず笑った。
『なってるかもしれないわね』
すると、
『じゃあ次の北海道計画立てよう!』
と返ってきた。
「もう?」
美佐子は笑いながらスマートフォンを置いた。
そのとき、ふとテーブルの上に置いてある一冊のノートが目に入った。
旅行中、娘たちが予定を書き込んでいたノートだった。
美佐子は手に取る。
ページをめくる。
釧路。
阿寒湖。
摩周湖。
屈斜路湖。
硫黄山。
神の子池。
野付半島。
知床。
羅臼。
五日間の予定が、細かく書かれている。
そのページを眺めていると、不思議な気持ちになった。
たった五日間だった。
けれど、その五日間で、自分の中に何かが戻ってきたような気がする。
「さて……」
美佐子はノートを閉じた。
「今日は何をしようかしら」
以前なら、その答えはなかった。
でも今は――
やりたいことが一つあった。
冷蔵庫を開ける。
中を見る。
「何もないわね」
美佐子は笑った。
北海道から帰ってきたばかりで、買い物にも行っていない。
「じゃあ、買い物に行こう」
上着を羽織る。
財布をバッグに入れる。
そして玄関へ向かう。
靴を履きながら、一瞬だけ手が止まった。
以前なら、ここから外へ出ることさえ面倒だった。
でも今日は違う。
ドアを開ける。
外へ出る。
「……行ってきます」
誰に言うでもなく、そう口にした。
歩き始める。
近所の道。
見慣れた景色。
何も特別なものはない。
けれど、美佐子には少し違って見えた。
北海道で見た大自然とは比べものにならない。
それでも――
空は同じように青い。
風も吹いている。
道端には小さな花が咲いている。
美佐子は足を止めた。
「ふふ」
なぜ笑ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、以前より世界が少しだけ明るく見えた。
スーパーへ向かって歩き出す。
その足取りは、北海道旅行へ出発したときよりも軽かった。
そして美佐子はまだ知らなかった。
この小さな「買い物に出る」という一歩が――
これから始まる新しい日々の、大切な一歩になることを。
北海道への旅は終わった。
けれど、美佐子の旅は――
まだ、始まったばかりだった。




