第24話 北海道をあとにして
第24話 北海道をあとにして
朝。
美佐子は、カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。
時計を見ると、午前六時半。
北海道に来て、五日目の朝だった。
「……今日で終わりなのね」
ベッドの上で、ぽつりとつぶやく。
釧路湿原で見た二羽の丹頂鶴。
和商市場で食べた海鮮丼。
幣舞橋から見た夕日。
阿寒湖のマリモ。
摩周湖の青い湖面。
屈斜路湖の龍の祠。
硫黄山の白い煙。
神の子池の深い青。
野付半島から見た国後島。
知床の大自然。
知床五湖。
知床峠。
羅臼。
純の番屋。
そして、昨夜見た海の上の漁船の明かり。
五日間とは思えないほど、たくさんの景色を見た。
たくさん歩いた。
たくさん食べた。
そして――たくさん笑った。
コンコン。
「お母さん、起きてる?」
長女の声がした。
「起きてるわよ」
「じゃあ、朝ご飯行こう」
「もうそんな時間?」
「もうすぐ七時だよ」
「早いわね」
すると、次女の声が飛んできた。
「お母さん、昨日一番早く寝たじゃん」
「だって疲れたんだもの」
「今日も飛行機あるから、寝坊しないでね」
「分かってるわよ」
美佐子は笑いながら支度をした。
三人で朝食を済ませ、部屋へ戻る。
最後の荷物をスーツケースに詰めて、ふたを閉じる。
カチッ。
その音を聞いた瞬間、美佐子は少し寂しくなった。
「……本当に終わりなのね」
長女が言った。
「うん。でも、また来ればいいよ」
「そうそう」
次女も続ける。
「今度は流氷を見に来ようよ」
「それに『北の国から』の撮影地巡りもね」
「そうだったわね」
美佐子は二人を見て、笑った。
「じゃあ、また北海道に来ないとね」
「決まり!」
次女が嬉しそうに言った。
ホテルを出る。
車に荷物を積み込み、三人は釧路空港へ向かった。
車窓を流れていく釧路の景色。
見慣れないはずなのに、もう少しだけ離れがたい。
美佐子は黙って窓の外を眺めていた。
「お母さん」
長女が運転しながら声をかける。
「なに?」
「楽しかった?」
美佐子は少し考えた。
最初は、怖かった。
修一との思い出が残る場所へ行けば、もっと悲しくなると思っていた。
でも――。
「ええ」
美佐子は答えた。
「すごく楽しかったわ」
「よかった」
「最初はね……北海道に来るの、少し怖かったの」
「うん」
「お父さんとの思い出ばかりになったら、帰ってから余計につらくなるんじゃないかって思ってた」
娘たちは黙って聞いていた。
「でもね」
美佐子は窓の外を見ながら続けた。
「思い出は思い出のまま、ちゃんと残ってた」
「うん」
「でも、それだけじゃなかったの」
美佐子は二人を見る。
「あなたたちとの思い出も、いっぱい増えたわ」
次女が笑った。
「海鮮丼とか?」
「それも」
「マリモとか?」
「それも」
「熊を怖がったこととか?」
「それは……忘れてちょうだい」
車内に笑い声が広がった。
やがて、釧路空港が見えてきた。
「着いたよ」
長女が言った。
「もう着いちゃったのね」
車を駐車場に止め、荷物を降ろす。
空港の中へ入る。
搭乗手続きを済ませ、手荷物を預ける。
すべての手続きが終わると、三人は搭乗口へ向かった。
美佐子は歩きながら、ふと立ち止まった。
「どうしたの?」
娘が振り返る。
「……北海道を見ておこうと思って」
空港の窓の向こう。
釧路の空が広がっている。
美佐子はしばらく、その空を眺めた。
「また来るからね」
小さくつぶやく。
「今度は流氷を見に来るんでしょう?」
次女が笑う。
「そうね」
「『北の国から』も行くよ」
「ええ」
「あと、まだ行ってないところもいっぱいあるし」
美佐子は笑った。
「北海道って、本当に広いのね」
「だから何回でも来られるよ」
長女が言う。
「そうね」
美佐子はうなずいた。
やがて搭乗案内が始まった。
三人は席を立つ。
飛行機へ向かう途中、美佐子はもう一度だけ振り返った。
釧路の空。
この旅の始まりの場所。
そして、五日間の旅の終わりの場所。
美佐子は心の中で、修一に語りかけた。
――あなた。
――私、来たわよ。
――そして、ちゃんと帰るわね。
しばらく間を置いて、心の中で続ける。
――でも、また来るわ。
今度は娘たちと。
もっといろんな景色を見に。
もっといろんな思い出を作りに。
飛行機に乗り込む。
座席に座り、窓の外を見る。
やがて飛行機が滑走路を進み、ゆっくりと空へ上がっていく。
釧路の街が小さくなっていく。
北海道の大地が、少しずつ遠ざかっていく。
美佐子は窓の外を見つめた。
寂しい。
けれど、不思議と悲しくはなかった。
修一との思い出を置いてきたわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ――
思い出を抱えたままでも、前へ進める。
それを、この旅で知った。
「お母さん」
隣の席から、娘の声がする。
「なに?」
「また来ようね」
美佐子は笑った。
「ええ」
そして、窓の外を見ながら言った。
「次は、もっと元気に歩けるようにしておかないとね」
「じゃあ、帰ったら運動だね」
「え?」
「北海道のために」
「……旅行のために運動するの?」
三人で笑った。
飛行機は雲の上へ上がっていく。
北海道の大地は、もう見えなくなった。
けれど、美佐子の心には残っている。
若い日の修一と見た景色。
そして、娘たちと新しく作った景色。
どちらも大切な思い出だった。
美佐子は目を閉じた。
そして、静かに思った。
――ありがとう。
――私、もう少し歩いてみるわ。
これから先も。
自分の歩幅で。
ゆっくりでもいい。
立ち止まってもいい。
また歩き出せばいい。
五日間の北海道旅行は終わった。
けれど、美佐子の新しい時間は――
これから始まるのだった。




