第23話 海を見ながら、あなたへ
第23話 海を見ながら、あなたへ
ホテルの部屋に戻った美佐子は、一人、窓辺に立っていた。
カーテンを少し開ける。
目の前には、夜の釧路の海が広がっていた。
昼間は青く見えていた海が、今は深い闇に包まれている。
波の音だけが、かすかに聞こえていた。
けれど――。
その暗い海の上に、小さな光が浮かんでいる。
漁船の明かりだった。
一つではない。
遠くに、また一つ。
その向こうにも、もう一つ。
黒い海に点々と浮かぶ光は、まるで夜空の星が海へ降りてきたようだった。
波が揺れるたび、光も揺れる。
大きく揺れるもの。
小さく揺れるもの。
遠くへ進んでいく光もあれば、同じ場所にじっと浮かんでいるように見える光もある。
美佐子は、しばらくその光から目を離せなかった。
「……漁船の明かりって、こんなにきれいなのね」
昼間なら、ただの船の明かりだったかもしれない。
けれど、夜の海では違って見えた。
暗闇の中に、小さな光がいくつも浮かんでいる。
それぞれの船に、それぞれの人の暮らしがある。
誰かが海へ出て、誰かが待つ家へ帰っていく。
そんなことを思うと、その小さな明かりが急に愛おしく感じられた。
美佐子は窓に手を添えた。
そして、静かに口を開いた。
「あなた……」
返事はない。
けれど、美佐子はそのまま話し続けた。
「私、北海道に来たわよ」
海の上で、一隻の漁船の明かりがゆっくりと動いていた。
まるで暗い海の中を、迷わず進んでいるようだった。
「四十年以上前に二人で来た場所に、今度は娘たちと来たの」
美佐子は微笑んだ。
「最初は、来るのが怖かったのよ」
思い出を辿れば、寂しさが増すと思っていた。
夫のいない現実を、もう一度突きつけられると思っていた。
けれど――。
「来てみたら、違ったわ」
美佐子は海を見る。
「あなたとの思い出は、ちゃんと残ってた」
「でも、それだけじゃなかった」
「娘たちと、新しい思い出もいっぱいできたの」
丹頂鶴。
阿寒湖。
摩周湖。
神の子池。
知床。
羅臼。
一つ一つの景色が、心の中に残っている。
そして今、目の前にある夜の海と、そこに浮かぶ漁船の明かりも。
「あなたにも見せてあげたかったわね」
美佐子は小さく笑った。
「この明かり……すごくきれいよ」
一隻の船が、ゆっくりと遠ざかっていく。
小さかった光が、さらに小さくなる。
それでも、消えない。
美佐子はその光を見つめながら思った。
夫との時間も、あの明かりと同じなのかもしれない。
遠くへ行ってしまった。
もう手を伸ばしても届かない。
それでも――。
消えたわけではない。
暗い夜の中で、今も自分の心を照らしている。
「あなた」
美佐子は静かに呼びかけた。
「私、これからもあなたとの思い出を大切にするわ」
「でもね……」
少しだけ笑う。
「これからの思い出も、作っていこうと思うの」
「娘たちと、また北海道にも来たいわ」
「今度は流氷を見たいって言ってたでしょう?」
「それから、『北の国から』の撮影地も巡ってみたいって」
美佐子は、海の上の明かりを見た。
暗闇の中に浮かぶ小さな光。
一つ、また一つ。
その光が、遠い海の向こうまで続いている。
「まだまだ、やりたいことがあるみたい」
美佐子は、少し照れたように笑った。
そして最後に、海へ向かって静かに言った。
「だから、あなた」
「私、もう少し歩いてみるわね」
漁船の明かりが、波の向こうで揺れている。
暗闇の中で消えそうになりながら、それでも消えずに進んでいく。
その小さな光を見つめながら、美佐子は思った。
――人生も、きっと同じなのかもしれない。
先が見えない夜でも、
小さな光を一つずつ頼りにしながら、
人は前へ進んでいく。
そのとき――。
コンコン。
部屋のドアが鳴った。
「お母さーん!」
次女の声がした。
「今からお風呂行くよ!」
「一緒に行こう!」
長女の声も聞こえる。
美佐子は振り返って笑った。
「今行くわ!」
「早くねー!」
娘たちの声が廊下に遠ざかっていく。
美佐子は最後にもう一度、窓の外を見た。
夜の海。
そして、その上に浮かぶ無数の漁船の明かり。
それは、暗闇の中で静かに瞬いていた。
まるで、
「大丈夫。まだ先へ行ける」
そう語りかけてくれているようだった。
美佐子は小さく笑った。
「じゃあ、あなた。またね」
カーテンを閉める。
そして、娘たちの待つ廊下へ向かった。
「お母さん、遅い!」
「ごめん、ごめん」
三人の笑い声が、静かなホテルの廊下に響いた。




