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あの日の君に会いに』 ――二人の始まりの場所へ。愛した日々を、もう一度確かめるために。  作者: 雨宮ぐみ


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第17話「知床五湖、森の中の五つの湖」

第17話「知床五湖、森の中の五つの湖」


翌朝。


 窓の外から差し込む朝の光で、美佐子は目を覚ました。


「お母さん、起きてる?」


 部屋の外から長女の声がする。


「起きてるわよ」


「ほんと?」


「ほんとよ」


「昨日、お父さんみたいに『温泉入ったら早く寝る』って言ってたから、朝寝坊するかと思った」


「失礼ね」


 美佐子は笑いながら布団から起き上がった。


 カーテンを開ける。


 朝の知床は、昨日の夕方とはまた違う顔をしていた。


 空は澄み、山々が朝の光を受けている。


 遠くに見える海も静かだった。


「今日は知床五湖ね」


 美佐子は窓の外を見ながら呟いた。


 いよいよだ。


 昨日までの旅とは少し違う。


 知床の奥へ入っていく。


 そう思うと、自然と胸が高鳴った。


 朝食を済ませ、三人は車に乗り込んだ。


「忘れ物ない?」


 長女が確認する。


「大丈夫」


「水は?」


「持った」


「帽子は?」


「持った」


「歩きやすい靴?」


「ちゃんと履いてるわよ」


 次女が後部座席から顔を出す。


「じゃあ完璧」


「子どもじゃないんだから」


「旅行中はみんな子どもみたいなものよ」


「何それ」


 三人で笑いながら、車は知床五湖へ向かって走り始めた。


 道路の両側には、深い森が広がっている。


 木々の間から差し込む光が、道路にまだら模様を作っていた。


 時折、木々の向こうに山が見える。


 昨日、海から眺めた知床とはまったく違う。


 海では雄大さを感じた。


 森の中では、自然の奥深さを感じる。


「すごいね……」


 次女が窓の外を見ながら言った。


「うん」


 美佐子も頷いた。


「こんなところ、よくお父さんと来たわね」


 その言葉に、車の中が少し静かになった。


 けれど、美佐子は悲しい顔をしなかった。


 今日は、昔の記憶を思い出していた。


 四十年以上前。


 美佐子と修一は、若い二人で知床五湖を歩いた。


 まだ今ほど整備されていなかった道を、二人で歩いていった。


 森の中を進むと、木々の向こうに湖が見えた。


 美佐子が足を止める。


「見て」


 修一も立ち止まった。


「湖だ」


 二人の前には、森に囲まれた静かな湖が広がっていた。


 風が吹くと、水面が小さく揺れる。


 周囲には木々が立ち並び、その姿が水面に映っていた。


「静かね」


 美佐子が言った。


 修一はしばらく湖を眺めてから、ぽつりと言った。


「こういうところ、いいな」


「何が?」


「何にもないところ」


「何にもないって……湖があるじゃない」


「そうじゃなくて」


 修一は笑った。


「街みたいに、何でもあるところじゃなくてさ。こういう静かな場所を二人で歩くのって、いいなって思って」


 美佐子は修一の横顔を見た。


「また来たい?」


「うん」


 修一は湖を眺めたまま言った。


「年を取ってから来たら、また違って見えるかもしれないな」


 その言葉を聞いたとき、美佐子は笑った。


「その頃には、おじいちゃんとおばあちゃんね」


「そうだな」


 修一は笑った。


「でも、来られたらいいな」


 それが、二人が知床五湖で交わした会話だった。


 それから四十年以上。


 美佐子は今、娘たちと同じ場所に立とうとしている。


「お母さん?」


 娘の声で、美佐子は現在へ戻った。


「どうしたの?」


「ちょっと笑ってたから」


「そう?」


「お父さんのこと思い出してた?」


 美佐子は少しだけ頷いた。


「うん」


「何を思い出したの?」


 美佐子は二人に話した。


 昔、修一とここを歩いたこと。


 湖を見て、二人で話したこと。


 そして、いつかまた来ようと言っていたこと。


「お父さん、やっぱりここ好きだったんだね」


 長女が言った。


「そうね」


「じゃあ、今日はその続きをしよう」


 次女が笑った。


「続きを?」


「うん。お父さんが昔ここを歩いた。今日は私たちが歩く」


 美佐子は娘を見た。


「そうね」


 三人は車を降りた。


 森の中へ入っていく。


 木々の間から聞こえる鳥の声。


 葉が風に揺れる音。


 足元から伝わる土の感触。


 街では聞こえない音ばかりだった。


「静かね」


 美佐子が言う。


「うん」


 娘たちも声を小さくした。


 まるで森そのものが、静かにするように言っているようだった。


 しばらく歩くと、木々の向こうに湖が見えてきた。


「あ……」


 次女が立ち止まった。


「見えた」


 三人は湖の前に出た。


 水面は穏やかだった。


 周囲の木々が鏡のように映っている。


 山の姿も水面に浮かんでいた。


「きれい……」


 長女が呟く。


 美佐子は何も言わず、しばらく湖を眺めた。


 四十年以上前。


 ここに修一と立った。


 そして今。


 娘たちと立っている。


 景色は同じなのに、自分の立っている場所は違う。


 あの頃は、夫婦としてこれから何十年も一緒に生きていくと思っていた。


 今は、一人になっている。


 それでも。


 美佐子は思った。


 修一と過ごした時間が消えたわけではない。


 こうして娘たちに話すことができる。


 昔の自分たちを思い出すことができる。


 そして、今日という新しい一日も作ることができる。


「お母さん」


 次女が呼んだ。


「写真撮ろう」


「ええ」


 三人で並んだ。


 長女がカメラを構える。


「じゃあ、笑って」


「そんな急に言われても笑えないわよ」


「じゃあ、普通の顔で」


「普通の顔って何?」


「お母さん、顔が固い」


「あなたたちが注文するからでしょ」


 三人で笑った。


 シャッターが切られる。


 一枚の写真が残った。


 そこには、森と湖。


 そして、三人の笑顔。


 美佐子は写真を見ながら言った。


「いい写真ね」


「でしょ?」


「うん」


 そして、もう一度湖を見る。


 水面には青い空が映っている。


「お父さんも、ここからこの景色を見たのね」


 美佐子が小さく言った。


 娘たちは何も言わなかった。


 ただ、母の隣に立っていた。


 森を抜ける風が、三人の間を静かに通り過ぎていった。


 美佐子はその風を感じながら思った。


 昔の約束は、同じ形では叶わなかった。


 夫婦二人で、もう一度ここへ来ることはできなかった。


 けれど――。


 今、自分はここにいる。


 そして隣には、娘たちがいる。


 それだけで十分だった。


「次は、知床峠ね」


 長女が言った。


「そうね」


「そこを越えて羅臼へ」


 次女が続ける。


「明日じゃなくて、今日よ」


「え?」


「あ……そうだった」


 三人は顔を見合わせた。


 そして、また笑った。


「お母さん、ちゃんと寝てる?」


「寝てるわよ!」


 森の中に、三人の笑い声が響いた。


 知床五湖をあとにして、車は次の目的地へ向かう。


 知床峠。


 そして羅臼。


 まだ旅は続いている。


 美佐子は窓の外に流れていく森を眺めながら、静かに微笑んだ。


 夫と歩いた道。


 娘たちと歩く今日の道。


 同じ場所でも、時間が変われば、見える景色も変わる。


 そして、それでいいのだと思った。


 過去は過去のまま、大切に残しておけばいい。


 今は今の思い出を、娘たちと作ればいい。


 車は深い森を抜け、知床峠へ向かって走り続けた。

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