第16話「ウトロの夜、父との思い出」
第16話「ウトロの夜、父との思い出」
知床観光船「おーろら号」を降りるころには、空の色が少しずつ変わり始めていた。
昼間は青く広がっていた空が、夕方の柔らかな色に染まっている。
海も、先ほどまでの輝きを少しずつ落ち着かせ、波の一つ一つが静かに岸へ寄せていた。
「今日は、いっぱい見たね」
長女が車に乗り込みながら言った。
「本当にね」
美佐子も笑った。
朝から野付半島へ行き、鹿の群れを見て、キタキツネにも出会った。
国後島を眺め、昼食を食べた。
そして斜里を通り、オシンコシンの滝を見て、知床観光船にも乗った。
一日が長かった。
けれど、不思議と疲れだけではなかった。
胸の中には、今日見た景色がいくつも残っている。
「お母さん、今日の宿はウトロだからね」
次女がカーナビを確認する。
「うん」
「明日は知床五湖に行って、そのあと知床峠を越えて、羅臼に向かう予定」
「そうだったわね」
美佐子は窓の外を見た。
ウトロの町が近づいてくる。
海沿いに建物が並び、その向こうには知床の山々が見えていた。
夕方の山は、昼間とは少し違って見える。
険しさが薄れ、どこか穏やかな表情をしていた。
「明日も楽しみね」
美佐子が言うと、娘たちは顔を見合わせた。
「お母さん、今『楽しみ』って言った?」
「言ったわよ」
「なんか久しぶりに聞いた気がする」
「私だって、楽しむくらいするわよ」
「よかった」
長女が笑う。
「じゃあ、明日は早起きね」
「何時?」
「七時くらいかな」
「それなら大丈夫」
美佐子は胸を張った。
「私は朝は強いから」
次女がすかさず言った。
「お母さん、家では八時過ぎまで寝てるじゃん」
「旅行だから別なの」
「旅行だと早起きできるんだ」
「できるの」
三人の笑い声が車の中に響いた。
やがて宿泊するホテルに到着した。
荷物を部屋に運び、一息つく。
窓を開けると、涼しい風が入ってきた。
「気持ちいい……」
美佐子は窓辺に立った。
遠くには海。
その向こうに広がる空。
昼間に船の上から見た景色とは違う、静かな知床がそこにあった。
「お母さん、温泉行こう」
次女が声をかける。
「そうね」
「今日かなり歩いたし、温泉に入ったら気持ちいいよ」
三人は浴衣に着替え、温泉へ向かった。
湯船につかると、美佐子は思わず息を吐いた。
「はあ……」
「気持ちいいね」
長女も肩まで湯につかる。
「北海道に来て、温泉に入るっていいわね」
「旅行っぽいでしょ?」
「十分旅行っぽいわよ」
三人でしばらく静かに湯につかった。
窓の外には夕暮れの空。
山の輪郭が黒く浮かび、空の色が少しずつ濃くなっていく。
「お母さん」
長女がふと尋ねた。
「なに?」
「お父さんも、こういう温泉に入ったのかな」
美佐子は少しだけ考えた。
「入ったわよ」
そう言って、微笑んだ。
「新婚旅行のときもね」
それは、今回の旅で初めて聞かせることになる、夫との一つの思い出だった。
四十年以上前。
若かった美佐子と修一は、知床を旅していた。
その日の宿でも、二人は温泉に入った。
湯船から上がった修一は、部屋に戻るなり布団に倒れ込んだ。
そして、しばらくしてから言った。
「いやあ……温泉ってすごいな」
「何が?」
「入っただけなのに、もう眠い」
「それ、温泉のせいじゃなくて疲れてるだけじゃない?」
「そうかな」
修一は布団の上で大きく伸びをした。
「でも、北海道まで来て温泉に入れるなんて、最高だな」
美佐子は笑った。
「まだ若いのに、ずいぶんおじさんみたいなこと言うのね」
「いいんだよ。旅行では温泉に入って、うまいもの食べて、早く寝る。それが一番だ」
「せっかくの新婚旅行なのに?」
「新婚旅行だからこそだろ」
そう言って修一は笑った。
美佐子もつられて笑った。
そのときは、そんな何気ない会話が、何十年も後に思い出す大切な記憶になるなんて思ってもいなかった。
温泉から上がった美佐子は、娘たちと部屋へ戻った。
「お父さんらしいね」
長女が笑った。
「そうでしょう?」
「『温泉入って、うまいもの食べて、早く寝る』って……」
「昔からそういう人だったもの」
「じゃあ、今のお母さんたちと一緒じゃん」
「そうね」
美佐子は笑った。
「少し似てきたのかもしれないわね」
夕食の時間になり、三人は食事処へ向かった。
テーブルには、北海道らしい料理が並んでいた。
海の幸。
山の幸。
温かな料理。
そして、目の前に並ぶ料理を見た瞬間、次女が言った。
「お父さんがいたら、絶対喜んでるね」
「そうね」
美佐子も頷いた。
「でも、最初に言うことは決まってるわ」
「何?」
「『これ、全部食べていいのか?』よ」
三人が笑った。
「確かに」
「絶対言いそう」
「そして食べすぎる」
「そうそう」
笑いながら箸を進める。
美佐子は、久しぶりに心から食事を楽しんでいた。
食事を終えて部屋に戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
ウトロの町の明かりが、ところどころに見える。
その向こうには、夜の海。
昼間とはまったく違う静けさだった。
三人は窓辺に並んで立った。
「明日は知床五湖だね」
次女が言った。
「それから知床峠」
長女が続ける。
「そして羅臼」
美佐子が言った。
「一日で結構行くのね」
「でも楽しそう」
「そうね」
美佐子は静かな夜の景色を見つめた。
今日、船の上から見た知床の海。
オシンコシンの滝。
野付半島から見た国後島。
そして、娘たちと笑った時間。
夫との思い出を辿るために始めた旅だった。
けれど、いつの間にか、自分たちだけの思い出も増えている。
「ねえ」
美佐子が娘たちに言った。
「なに?」
「明日も、いっぱい歩くの?」
「歩くよ」
「じゃあ、今日は早く寝ないとね」
長女が笑った。
「お母さん、お父さんと同じこと言ってる」
「え?」
「温泉に入って、早く寝る」
三人は顔を見合わせた。
そして、また笑った。
美佐子は窓の外を見た。
夜の知床は静かだった。
山も海も、明日の朝までじっと眠っているように見える。
明日は知床五湖。
そして知床峠を越えて、羅臼へ。
まだ見たことのない景色が待っている。
美佐子は小さく息を吸った。
「明日も、楽しみね」
今度は娘たちも、何も言わなかった。
ただ、嬉しそうに笑った。
美佐子自身も気づいていた。
夫を失ってから、長い間、明日が来ることが怖かった。
けれど今は違う。
明日、どんな景色が見られるのか。
娘たちと何を話すのか。
どんな出来事が待っているのか。
そんなことを考えている。
それだけで、少しだけ胸が軽くなった。
窓の外では、知床の夜が静かに深まっていく。
そして美佐子たちの旅は、明日また、新しい景色へ向かって走り始める。




