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あの日の君に会いに』 ――二人の始まりの場所へ。愛した日々を、もう一度確かめるために。  作者: 雨宮ぐみ


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第15話 流れ始めた時間

第15話 流れ始めた時間


野付半島をあとにした美佐子たちは、斜里町のウトロへ向かって車を走らせていた。


窓の外には、北海道らしい広い景色が続いている。


野付半島で見たエゾシカの群れ。


道端を歩いていたキタキツネ。


そして、海の向こうに見えた国後島。


今日だけでも、たくさんの景色を見た。


「ウトロって、知床の玄関口なんだよね?」


次女が尋ねた。


「そうみたい」


長女が答える。


「じゃあ、ここから知床が始まるんだ」


「そうね」


美佐子は窓の外を眺めた。


「楽しみね」


その言葉が自然に口から出たことに、美佐子自身が少し驚いた。


修一が亡くなってから、何かを楽しみにすることさえ忘れていた。


けれど今は違う。


次はどんな景色が見られるのか。


娘たちと何を話すのか。


そんな小さなことを楽しみにできるようになっていた。


「お母さん、今日はずっと楽しそう」


次女が笑った。


美佐子も笑った。


「そうね。私もそう思うわ」


やがて道路の先に案内が見えてきた。


「オシンコシンの滝」


長女が読み上げる。


「ここ、寄ってみよう」


三人は車を止め、滝へ向かった。


少し歩くと、水の音が聞こえてくる。


最初は小さかった音が、近づくにつれて大きくなっていった。


そして目の前に、オシンコシンの滝が現れた。


岩肌を幾筋もの水が勢いよく流れ落ちている。


白い水しぶきを上げながら、絶え間なく水が落ちていく。


「わあ……」


三人とも足を止めた。


美佐子は、しばらく滝を見つめていた。


水は止まらない。


岩にぶつかっても、形を変えながら流れていく。


その姿を見ているうちに、美佐子は自分のことを考えた。


修一が亡くなってからの半年間。


自分は、時間が止まったように感じていた。


何をしても気持ちが動かなかった。


けれど、北海道へ来て、娘たちと景色を見て、笑って。


少しずつ何かが変わってきた。


「水って、止まらないのね」


美佐子が呟いた。


「お母さん?」


「私ね……修一さんが亡くなってから、ずっと止まっていたような気がするの」


娘たちは黙って聞いていた。


「でも、ここまで来てみたら……少しずつでも、流れていいのかなって思えてきた」


長女が美佐子の手にそっと触れた。


「うん。ゆっくりでいいよ」


次女も笑った。


「お父さんのことを忘れる必要なんてないんだから」


美佐子は頷いた。


「そうね」


そして滝を見つめながら、微笑んだ。


「私も、少しずつ進んでみようかな」


三人は笑った。


滝をあとにすると、車はウトロへ向かった。


やがて、知床の山々が大きく見えてくる。


「わあ……」


次女が窓の外を眺めた。


「山が近い!」


「海もすぐそこだね」


長女も声を上げる。


ウトロに到着すると、三人は港へ向かった。


今日の次の目的は、知床観光船「おーろら号」。


船に乗り込むと、海の上から知床半島の景色を眺めることができる。


「船、思ったより大きいね」


次女が嬉しそうに言う。


「これなら安心ね」


美佐子も笑った。


出航の時間になった。


船がゆっくりと岸壁を離れる。


エンジンの低い音が響き、船体が海面を滑り始めた。


港の建物が少しずつ小さくなっていく。


「出た!」


次女が船の外へ出る。


長女も続いた。


美佐子も手すりの近くまで歩いていった。


目の前に広がっているのは、どこまでも続く海だった。


太陽の光を受けて、海面が細かな光を散りばめたように輝いている。


船が進むたび、船首から白い波が左右へ広がっていく。


波は一瞬大きく盛り上がり、そのあと細かな泡になって、船の後ろへ流れていった。


美佐子はその白い航跡をじっと見つめた。


「きれい……」


その声に、長女が振り返った。


「お母さん、海見てる?」


「ええ」


「船から見ると、また違うね」


「本当ね」


港から離れるにつれて、知床半島の姿が大きくなっていった。


海岸線には、長い年月をかけて波や風に削られた岩壁が続いている。


海面からそそり立つような断崖。


その上には深い緑の森が広がり、さらにその奥には山々が連なっている。


海と山が、これほど近い。


美佐子は何度も景色を見渡した。


「すごい……」


長女が呟いた。


「山がそのまま海に落ちてるみたい」


次女も言う。


「陸から見るより迫力あるね」


船が進む。


断崖の間には、小さな滝が見えた。


山の中から流れ出した水が、岩肌を伝い、細い白い線になって海へ落ちている。


一つ見つけると、また別の場所にも滝が見える。


「滝がある!」


次女が指差す。


「あそこにも!」


長女が別の場所を指差した。


「本当だわ」


美佐子も目を凝らす。


雪や雨が山に降り、森を通り、岩を伝って海へ流れていく。


知床の山から海まで、一つの大きな自然の流れでつながっているようだった。


時折、海鳥が船の上空を横切っていく。


翼を大きく広げ、風に乗る。


羽ばたきをほとんどせず、海面すれすれを滑るように飛んでいく鳥もいた。


「鳥、気持ちよさそう」


次女が言う。


「船より速いかもね」


長女が笑った。


「じゃあ競争したら負けるね」


「当たり前でしょ」


二人の会話を聞いて、美佐子も笑った。


さらに船が進む。


海岸線は場所によって表情を変えていった。


丸みを帯びた岩。


切り立った崖。


海に突き出した岩場。


その上には、風に耐えるように木々が生えている。


遠くには、雪の名残を思わせる白い部分を残した山も見える。


青い海。


深い緑。


灰色や茶色の岩壁。


その上に広がる青い空。


人の手がほとんど入っていない大自然が、どこまでも続いている。


美佐子は言葉を失っていた。


修一と二人で暮らしていた頃にも、北海道へ来た。


けれど、あの頃は若くて、こんなふうに景色をじっくり見ることはなかった。


目的地へ行くこと。


予定通りに観光すること。


それだけで精一杯だった。


今は違う。


船が進む速度に合わせて、景色をゆっくり眺めている。


何も急ぐ必要はない。


山を見て。


海を見て。


滝を見て。


風を感じる。


それだけでいい。


「お母さん」


長女が声をかけた。


「なに?」


「寒くない?」


美佐子は笑った。


「少し寒いわね」


「やっぱり」


次女が笑う。


「私、もう手が冷たい」


「中に入れば?」


「でも、景色が見たい」


「どっちなのよ」


三人で笑った。


その笑い声が、海風に乗って流れていった。


美佐子は再び海を見る。


船の後ろには、長く白い航跡が残っている。


けれど、波が少しずつそれを崩していく。


やがて航跡は海に溶け、跡形もなくなる。


美佐子はその様子を見て、ふと思った。


人の人生も、同じなのかもしれない。


過ぎた時間は戻らない。


修一と過ごした四十年以上の日々も、もう一度やり直すことはできない。


でも、なくなるわけではない。


心の中には残っている。


そして、その思い出を抱えながら、新しい時間を進んでいくことはできる。


「お母さん?」


次女の声。


美佐子は振り返った。


「どうしたの?」


「なんか、笑ってる」


「そう?」


「うん」


美佐子は海を見ながら答えた。


「なんだか、気持ちが軽くなったの」


長女が微笑む。


「よかった」


「北海道に来て、本当によかったわ」


三人は並んで海を眺めた。


美佐子は心の中で、修一に語りかける。


――あなた。


――私は今、娘たちと知床の海を見ているわ。


――あなたと来た北海道で、今度は娘たちと新しい景色を見ているの。


海風が頬を撫でていく。


美佐子は目を細めた。


悲しみがなくなったわけではない。


修一に会いたいという気持ちも、これから先、きっと消えることはない。


それでいい。


大切な人を忘れずに生きていく。


そのことと、前へ進むことは、きっと矛盾しない。


船は、雄大な知床半島の海岸線に沿って進み続けていた。


目の前には、まだまだ続く山と海。


遠くまで続く水平線。


空を舞う海鳥。


岩壁から流れ落ちる小さな滝。


そして、船の後ろへ長く伸びていく白い航跡。


美佐子はその景色を見ながら、静かに微笑んだ。


止まっていた時間は、もう動き始めている。


滝の水のように。


船が進む海のように。


ゆっくりでもいい。


自分の歩幅でいい。


これからも、少しずつ進んでいけばいい。


「お母さん」


長女が呼ぶ。


「そろそろ中に入ろうか」


「ええ」


美佐子は最後にもう一度、知床の大自然を見渡した。


「素敵な景色ね」


そして娘たちと一緒に船内へ戻っていった。


知床の海を進む「おーろら号」は、静かに次の景色へ向かっていた。


美佐子の心もまた、新しい時間へ向かっていた。

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