第14話 野付半島から見た国後島
第14話 野付半島から見た国後島
北海道旅行も、四日目を迎えた。
朝。
美佐子たちはホテルを出発し、野付半島へ向かっていた。
車の窓から見える景色は、昨日までとは少し違っている。
町を離れるにつれて建物が少なくなり、やがて広い草原が左右に広がり始めた。
遠くには海が見える。
空はどこまでも高く、道路の先まで一直線に伸びているようだった。
「やっぱり北海道って広いね」
長女が窓の外を見ながら言った。
「昨日も聞いたわよ、その言葉」
美佐子が笑う。
「だって、何回見ても広いんだもん」
次女も頷く。
「東京じゃ、こんな景色なかなか見られないもんね」
美佐子は何も言わず、流れていく景色を眺めていた。
草原のところどころに、小さな水たまりのような湿地が見える。
その周りには草が生い茂り、風が吹くたびに一面が波のように揺れている。
野付半島へ近づくほど、人工物が少なくなっていった。
そして突然、
「お母さん!」
長女が声を上げた。
「なに?」
「鹿!」
「どこ?」
「右側!」
美佐子が窓の外を見る。
すると、草原の奥に何頭ものエゾシカがいた。
一頭ではない。
二頭、三頭……。
さらにその奥にもいる。
かなり大きな群れだった。
「わあ……」
美佐子は思わず声を漏らした。
エゾシカたちは、こちらを警戒する様子もなく、広い草原の中でゆっくりと草を食べている。
その中には立派な角を持った雄もいた。
少し離れたところには雌の姿もある。
「こんなにいるんだね」
次女が驚いたように言う。
「野生なんだよね?」
「そうよ」
「牧場じゃないんだ」
「違うわよ」
「じゃあ、誰にも飼われてないの?」
「そういうこと」
次女はしばらく黙って群れを眺めていた。
エゾシカの一頭が顔を上げる。
大きな耳をぴんと立て、こちらを見ている。
その隣のシカも顔を上げる。
すると、まるで合図を受けたように何頭かが一斉にこちらを向いた。
「見てる!」
次女が小声で言う。
「向こうもこっちを見てるね」
長女が笑う。
「私たち、そんなに珍しいのかな」
「鹿からしたら、人間のほうが珍しいんじゃない?」
「それもそうか」
三人で笑った。
車がゆっくりと進む。
エゾシカの群れは少しずつ後ろへ流れていった。
美佐子は振り返りながら、最後までその姿を目で追った。
「すごかったね」
「うん」
次女が答える。
「もっと近くで見たかった」
「野生動物だから、遠くから見るくらいがちょうどいいのよ」
長女が言う。
「そうだね」
次女も納得したように頷いた。
それからしばらく走った。
すると今度は、道路脇の草むらに何かが動いた。
「あっ!」
今度は次女だった。
「キツネ!」
「え?」
長女が前を見る。
そこには一匹のキタキツネがいた。
赤茶色の毛。
細い顔。
大きくてふさふさした尻尾。
道路の近くをゆっくり歩いている。
「かわいい!」
次女が目を輝かせる。
キタキツネは三人の車をちらりと見ると、少しだけ立ち止まった。
まるで、
「何?」
とでも言っているような顔をしている。
「見てる、見てる!」
次女が興奮する。
「静かに見ようね」
長女が笑う。
キタキツネはしばらくこちらを見たあと、くるりと体の向きを変えた。
そして草むらの中へ入っていく。
ふさふさした尻尾だけが、草の間から見え隠れする。
「行っちゃった……」
次女が残念そうに言った。
「でも、ちゃんと見られたじゃない」
「もうちょっと見たかったな」
「また会えるかもしれないわよ」
美佐子が言った。
「本当?」
「北海道だもの」
「その理屈、強いね」
長女が笑った。
車内に笑い声が広がる。
その後も、窓の外には北海道らしい自然が続いていた。
遠くの草原にはエゾシカ。
湿地のような場所には水鳥の姿。
海辺では風に揺れる草。
何か特別な施設に入らなくても、そこにいるだけで野生の世界を感じられる。
美佐子はそんな景色を眺めながら思った。
北海道は、景色だけが大きいのではない。
動物たちが暮らしている場所そのものが、広いのだ。
人間がその中を少し通らせてもらっている。
そんな気がした。
やがて、野付半島に入った。
車を降りる。
途端に、強い風が吹きつけてきた。
「寒い!」
次女が両手で頬を押さえる。
「風がすごいわね」
美佐子も上着の襟をしっかり閉じる。
草原が風に揺れている。
さっき見たエゾシカたちが、この広い場所で暮らしているのだと思うと、その姿がさらに印象深く感じられた。
三人は海の見える場所へ歩いていった。
目の前には、広い海。
そして、その向こうに遠く島影が見える。
長女が足を止めた。
「……あれ、島じゃない?」
次女も目を細める。
「本当だ」
美佐子も海の向こうを見つめた。
「国後島ね」
「国後島……」
長女が呟く。
「北方領土の一つだよね」
「そうよ」
三人はしばらく黙って、その島影を眺めた。
地図でしか知らなかった島が、今、自分たちの目の前にある。
遠くに見える。
けれど、確かにそこにある。
「なんだか……感動するね」
次女が静かに言った。
「ええ」
美佐子も頷いた。
その景色を見ていると、四十年以上前の記憶が浮かんできた。
新婚旅行でここを訪れたとき。
若かった美佐子と修一も、海の向こうを見つめていた。
修一は国後島をじっと見ながら、
「北方領土って、こんなに近くに見えるんだな」
と呟いた。
そのときの修一は、いつものように冗談を言うこともなく、しばらく黙って島を見つめていた。
美佐子も隣に立ち、同じ景色を見た。
それが、四十年以上前の二人の思い出だった。
「お母さん」
長女の声が聞こえた。
「お父さんも、ここから国後島を見たんだね」
「ええ」
「じゃあ、今日私たちが見てる景色と同じなんだ」
美佐子は頷いた。
「そうね」
そして、静かに海を見つめる。
あの日、隣にいたのは修一。
今、隣にいるのは娘たち。
景色は同じでも、時間は違う。
それでも、その景色を見たという事実は、確かに繋がっている。
「写真、撮ろうか」
長女が言った。
「ええ」
三人は国後島を背景に並んだ。
ところが風が強すぎて、次女の髪が顔にかかる。
「ちょっと待って!」
「動かないでよ」
「髪が邪魔!」
「北海道の風まで写りそう」
「それなら、いい思い出じゃない」
美佐子が笑う。
何度か撮り直して、ようやく一枚。
三人で写真を確認すると、次女の髪は少し乱れていた。
「……まあ、いいか」
「いいよ」
美佐子は笑った。
「今日の私たちらしくて」
三人はまた笑った。
そのあと、野付半島ネイチャーセンターへ向かった。
冷たい風の中を歩いたせいか、三人ともすっかりお腹が空いていた。
「お昼にしよう」
長女が言う。
「賛成!」
次女が即答した。
「さっきまで寒いって騒いでたのに、食欲は元気なのね」
美佐子が笑う。
「だって、お腹は別だから」
「便利ねえ」
三人は笑いながら、ネイチャーセンターで昼食をとった。
温かい食事を囲むと、さっきまでの寒さが少し和らいだ。
「今日は動物も見られたし、国後島も見られたね」
長女が言う。
「エゾシカ、すごかった」
次女が答える。
「キタキツネもかわいかったわね」
美佐子が言った。
「また会えるかな?」
「旅の途中で、また何か見られるかもしれないわよ」
「北海道だから?」
「そう」
美佐子が笑う。
食事を終え、三人は車へ戻った。
次の目的地は知床方面。
「オシンコシンの滝だね」
長女が確認する。
「そのあと知床五湖?」
「そう」
「まだまだあるね」
次女が嬉しそうに言う。
車が走り出す。
窓の外で、野付半島の広い草原が少しずつ遠ざかっていく。
美佐子は最後に一度だけ、後ろを振り返った。
エゾシカが暮らす草原。
キタキツネが歩いていた道。
海の向こうに見えた国後島。
そして、娘たちと笑った時間。
昔の旅では、修一と二人で見た景色だった。
今日、その景色に新しい思い出が重なった。
美佐子は前を向いた。
車は知床へ向かって走っていく。
四日目の旅は、まだ終わらない。
次は、オシンコシンの滝。
娘たちとの新しい北海道が、また一つ始まろうとしていた。




