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あの日の君に会いに』 ――二人の始まりの場所へ。愛した日々を、もう一度確かめるために。  作者: 雨宮ぐみ


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第10話 摩周湖、今度こそ

第10話 摩周湖、今度こそ


阿寒湖を出発した車は、ゆっくりと山道を進んでいた。


窓の外には、深い緑の森が続いている。


美佐子は後部座席から外を眺めながら、昨日までとは少し違う気持ちになっていることに気づいていた。


北海道に来る前は、どこへ行っても修一のことを思い出してしまうのではないかと思っていた。


けれど、実際に旅を始めてみると、それだけではなかった。


娘たちとの会話に笑ったり、初めて見る景色に驚いたり。


昨日の阿寒湖では、エゾリスまで見ることができた。


「お母さん」


運転していた長女が声をかけた。


「もうすぐ摩周湖だよ」


「そう……」


美佐子は小さく答えた。


摩周湖。


その名前を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ締まった。


「お母さん、摩周湖って……お父さんと昔行ったんだよね?」


次女が後ろを振り返った。


美佐子は少し考えてから頷いた。


「ええ。新婚旅行のときにね」


「じゃあ、今日はその続きだね」


その言葉に、美佐子は窓の外を見た。


「そうね」


それ以上は言わなかった。


車はさらに山道を進んでいった。


やがて、駐車場に到着した。


三人は車を降りる。


少しひんやりとした空気が頬に触れた。


「寒いね」


次女が肩をすくめる。


「北海道だからね」


「それ、理由になってる?」


「なってるわよ」


そんなやり取りをしながら、三人は展望台へ向かった。


そして――。


展望台に立った瞬間、美佐子は足を止めた。


目の前に広がっていたのは、深い青色の湖だった。


静かだった。


湖面は大きな波もなく、空の色を映している。


周囲を山々が取り囲み、その中央に湖がぽっかりと浮かんでいるように見えた。


「……きれい」


思わず、美佐子の口から言葉がこぼれた。


長女も隣に並んだ。


「すごいね」


次女も湖を見つめる。


「お母さん、これ……」


「ええ」


美佐子は頷いた。


「今度は、見えたわ」


その一言に、娘たちは黙った。


美佐子は、40年前のことを思い出していた。


新婚旅行で訪れた摩周湖。


その日は、霧が出ていた。


展望台に立っても、白い霧が広がっているだけだった。


湖はどこにあるのかさえ分からない。


若かった修一は、しばらく霧の向こうを眺めていた。


そして、少し残念そうに笑った。


「まあ、しょうがないな」


そう言ったあと、美佐子に向かって、


「いつかまた来よう」


と笑った。


美佐子が、


「今度は見えるかしら?」


と聞くと、


「そのときは絶対見よう」


修一はそう答えた。


それが、二人の間に残った一つの約束だった。


――そして、40年。


美佐子は再び、摩周湖の前に立っていた。


「お母さん」


長女の声で、現実に戻る。


「うん?」


「見えたね」


美佐子は湖を見つめたまま、微笑んだ。


「ええ。ちゃんと見えたわ」


次女が少し照れたように笑う。


「お父さん、喜んでるかな」


美佐子はしばらく黙っていた。


そして、


「きっと喜んでるわ」


と答えた。


「たぶん……『やっと見られたな』って言ってるわね」


「言いそう」


三人で笑った。


笑い声が、静かな展望台に小さく響いた。


美佐子はもう一度、湖を見た。


40年前には見ることのできなかった景色。


けれど今、目の前にある。


「来てよかった」


その言葉は、夫に向けたものなのか、娘たちに向けたものなのか、自分自身に向けたものなのか。


美佐子には分からなかった。


ただ、自然と口から出てきた。


長女が美佐子の隣に立つ。


「じゃあ、お母さん」


「なに?」


「今日の摩周湖、ちゃんと見届けたことにしよう」


「うん」


「お父さんとの約束、これで達成だね」


美佐子は静かに頷いた。


「そうね」


そして三人は、しばらく何も言わずに湖を眺めた。


やがて次女がスマートフォンを取り出した。


「お母さん、せっかくだから三人で撮ろうよ」


「私も?」


「当たり前でしょ」


「湖だけでいいんじゃない?」


「ダメ。今日の主役はお母さんなんだから」


「主役なんて、やめてよ」


「じゃあ主演女優」


「もっと恥ずかしいわよ」


三人は笑いながら並んだ。


シャッターが切られる。


そこに写っていたのは、美しい摩周湖と、その前で笑う三人の姿だった。


美佐子は写真を確認して、小さく笑った。


「いい写真ね」


「でしょ?」


「うん」


美佐子はスマートフォンの画面を見ながら思った。


40年前、この場所で修一と見ることのできなかった景色。


そして今日、娘たちと見ることができた景色。


同じ場所でも、時間が変われば、思い出も変わる。


美佐子はもう一度、摩周湖を振り返った。


「お父さん」


心の中で、そっと呼びかける。


「今度は、ちゃんと見えたわよ」


風が静かに吹き抜けた。


美佐子は微笑んだ。


そして、娘たちと一緒に展望台を後にした。


次に向かう場所は、まだ知らない景色が待っている。


明日は、40年前には訪れなかった場所へ行く。


それが、少し楽しみになっていた。

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