第五十一章 理想
「手荒な真似をして申し訳ございませんでした。翠蓮皇女殿下」
紅蘭の声が聞こえなくなったところで、鷹比古は織瀬に向かって慇懃に頭を下げた。だが謝罪の言葉を述べこそすれ、織瀬を拘束している縄を解く気はないらしい。
鷹比古は揺らぎひとつない翡翠色の瞳を見下ろして、すっと眼を細める。
「──しかし、さすがですな。私がここに現れたことに微塵も驚かれていないとは」
いつも通りの抑揚のない声音だが、それは織瀬の胸の内を探ろうとしているようにも聞こえた。
織瀬は冷静さを失わぬよう己に言い聞かせながら、努めてゆっくりと口を開く。
「……驚いていますよ。ただ、もし貴方の目的が私の想像する通りのものならば……このようなことをする必要はなかったのに、非常に残念です」
織瀬の答えに、鷹比古はほんの僅か眉を顰める。
「ほう。翠蓮皇女殿下は、私の目的を察しておられると?」
「はい。……貴方は、龍守殿を玉座につけるために動いていたのでしょう?」
「……」
鷹比古は唇を引き結び、じっと織瀬を見つめた。
織瀬はその眼差しを受け止めながら、龍守に宮中から連れ出された後の出来事の数々を思い返す。
「──初めに違和感を感じたのは、あの手配書です」
ぽつりと呟いたそれは、龍守が和仁俊元を斬り、桂州へと向かう途上での事だ。
「倶知比古殿は、襲ってきた村人たちが持っていたと言っていました。ですがあの時以来、少なくとも私はあの手配書を見てはおりません。桂州近くに潜伏していた安比初臣殿や豊雲公爵たちも、目にしてはいないと言っていました。……葛城公爵があの手配書を回したのであれば、もっとも龍守殿が身を潜めそうな桂州周辺で見かけないのは不自然です」
和仁俊元の住む集落に身を寄せたのは隼人の提案がきっかけであったが、那岐山家の内情を知る者からすれば、それは当然の成り行きであったろう。
隼人が言い出さなければ鷹比古自ら龍守に進言したのだろうが、もしそうなっていたとしても誰も不自然には思わない。
「あの手配書は貴方が用意した物ですね? 俊元殿のご子息たちは、あれがなくとも龍守殿を襲ったかもしれませんが……貴方の描いた筋書き通りに事を運ぶために、念には念を入れたのでしょう」
鷹比古は眉ひとつ動かさない。
「その他にも小さな違和感はありました。私が弟たちを救おうと由比殿や飛燕殿を皇宮へ送った際、図ったように紅蘭と豺牙将軍が現れたこと──」
「あの時私は陶州におりましたが」
冷ややかな指摘に動じることなく、織瀬は言葉を紡ぐ。
「ですが貴方の配下は宮中に居たでしょう? ……日向殿が」
「……」
平静を装いつつも、織瀬は必死で頭を巡らせていた。橘花国の皇女としての立場から言えば、鷹比古を敵に回してしまうことは余りにも惜しい。国を建て直すためには、優秀な人材がひとりでも多く必要なのだ。
(今ならばまだ、鷹比古殿が紅蘭と繋がっていたことを知る者は私しかいない。何とか鷹比古殿をこちらに引き止めなければ……)
そのためには、あらゆる手を使うべきだ。果たして自分の能力で鷹比古と渡り合えるだろうか、という不安を抱えつつも、織瀬は顔を上げる。
「普段冷静な貴方が陶州の一件で激昂したことも、私の眼には奇異に映りました。──あの出来事は、龍守殿にとって分岐点だったのでしょう。おそらく『前世』の龍守殿は、民たちを手にかけてしまったことで後戻りできなくなってしまった。この罪を贖うためには、自らの手でそれ以上の民たちを救うよりほかないと──橘花国を害そうとする者たちを自分の手で排除するよりほかないと、思い詰めてしまった」
「……前世、ですと?」
鷹比古の眼光が鋭さを増す。
「ええ。……貴方にも、その記憶があるのでしょう?」
その問いに、鷹比古は答えなかった。
織瀬が前世の記憶を持っていることを知るのは、明瑠と菊理のみだ。龍守にはついに明かす機会がないまま、ここまで来てしまった。
(今世に唯一心残りがあるとすれば……そのことだけね)
織瀬はひとつ息を吐く。
「──前世で龍守殿が早世されたことには様々な要因があったのでしょうが、そのひとつが心労ではなかったかと私は思います。為政者として最も大切である、民を思う心。それを持った龍守殿にとって、陶州で負った傷は──罪の意識は、あまりにも重すぎた。鷹比古殿、貴方は私と違い、苦しむ龍守殿の姿を間近で見てきたはずです。それなのになぜ、龍守殿に前世と同じ轍を踏ませようとしたのですか」
意識せぬままに、織瀬の口調は鷹比古を責め立てるような響きを帯びていく。
「……」
感情の読み取りづらい顔に、一瞬失望の色が滲んだ。しかし織瀬がそれに気づく前に、鷹比古は静かに瞼を伏せる。
「……翠蓮皇女殿下に文学的な素養がお有りだったとは存じませんでした。素晴らしい想像力ではございますが、無風流の私ごときでは貴女様が何を仰っているのか──」
あくまで平坦なその声に、僅かな侮蔑が混じる。だが織瀬は、怯むわけにはいかなかった。
「そうですか。ではこちらについては答えていただけますか? 私の懐に入っていた書物──書名は『白蓮国記』というものですが──それは、今は貴方の手にあるのでしょう?」
その問いに対する答えはない。
「……沈黙は肯定と受け取らせていただきます」
織瀬は鷹比古が『白蓮国記』の内容を把握していることを前提に、話を進める。
「おそらくこの『白蓮国記』は、龍守殿に非常に近しいかたが執筆に関わっています。幼い頃の龍守殿の様子などが詳細に書かれていましたから。……これまで龍守殿と行動をともにするなかで、この書物の著者に最も相応しいのは鷹比古殿ではないかと──そう私は感じました」
鷹比古は静かに織瀬を見つめている。その眼差しは、織瀬のなかのやりきれない思いをかき立てた。
「鷹比古殿。貴方は龍守殿に君主の相を見ているのでしょう? 龍守殿にその素質があることは私も感じておりますが、貴方がなぜこのような選択をしたのか、私には理解できません。隼人殿が毒矢を受けた時も──私と同じように前世の記憶があったならば、貴方にも分かっていたはずです。あの負傷で、隼人殿が武人としての命を絶たれてしまうことを。……それにも関わらず、貴方は通常の矢傷に対しての処置しか行わなかった。貴方は龍守殿から、親友を奪おうとした」
昏睡する隼人を見つめる龍守の姿を思い出し、織瀬は目の前が暗くなるような怒りに襲われた。
「鷹比古殿、なぜですか。貴方はあえて龍守殿が傷つくような未来を選択した。なぜ──」
必死に装っていた冷静という名の仮面は、ここに来て完全に剥がれ落ちた。込み上げる思いをぶつける織瀬だったが、
「──君主に友人など不要なのです」
ようやく発せられた鷹比古の言葉が、沸騰しかけた織瀬の心に冷ややかに浴びせかけられた。
「貴女様は私の考えが分かると仰るが、肝心なことを理解しておられない。龍守様にとって、隼人殿の存在はいずれ足枷となる。君主と対等な口を利き、兵たちから君主と同等の信を集める将など──国にとって害にしかなりませぬ」
鷹比古は膝を折り、織瀬と目線を合わせる。
「翠蓮皇女殿下。貴方は国を動かす側の人間として、最も大きな勘違いをなさっております。為政者に最も必要な資質とは、民を思うことではない。──民に眼を向けつつ、それを平然と踏み躙れること」
「な……」
「龍守様は間違いなく名君たる資質を持った方だ。人心を掌握する術を心得ており、軍を率いれば敗北を知らず、牧としては荒地に花を咲かせるがごとく善政を敷いた。──ただひとつ欠けているものがあるとすれば、それは合理的な思考です。為政者とは、千の人間を救うために百の人間を犠牲にできるものでなければならない。──例えその百のなかに、己の肉親がいたとしても」
「……鷹比古殿、貴方の言うことは私にも理解できます。ですがそれは、必ずしも民を踏み躙ることと同義では──」
「同じです。……少なくとも、龍守様にとっては。ですから龍守様が自らそのような思考を持てるよう、今世で私は出来うる限りの手段を用いました。──誤算があったとすれば、翠蓮皇女殿下、貴女が自発的に龍守様と接触したことです」
鷹比古の声に、初めて漣が立った。




