第五十二章 定められた道
「──前世の記憶があることを認めるのですね、鷹比古殿」
『今世』──鷹比古の口から、ついに確信的な単語が発せられた。
「今更隠す必要はございませんからな。……この世は実に不可解です。物語のようなことが実際に起こりうる。隼人殿の妄想めいた話の意味を私が理解したのは、初めて人生を回帰した時でした」
「……初めて? 鷹比古殿、貴方はまさか──」
眼を見張る織瀬に対し、鷹比古はふっと皮肉っぽく唇を歪めてみせる。
「翠蓮皇女殿下は今が二度目の人生なのですかな? それならば、その必死さも宜なるかなといったところか。……私はすでに、この時を五度繰り返しております」
「えっ……」
「とはいえ、五度とも違った出来事が起こりましたから、退屈はしませんでしたがね」
鷹比古は懐から書物を取り出し、ゆっくりとその頁をめくった。
「この『白蓮国記』──ご推察のとおり、これは私が記したものです。龍守様を帝位にお就けするという宿願を叶えられたものの、龍守様は志半ばで儚くなられ……そして、その数年後に私は過去に戻された。それを実に五度も繰り返しております」
鷹比古はまるで翌日の天気の話でもするように、事もなげに言う。その態度が本心からのものだとは、織瀬には思えなかった。
「鷹比古殿、そのことを龍守殿は──」
「ご存知ありませぬ。私がこのことを話したのは、翠蓮皇女殿下、貴女様が初めてですからな」
「そんな……鷹比古殿、貴方は苦しくはなかったのですか。龍守殿の最期を知っていながら、それを独りで抱え込んで──」
前世の記憶を持ちながら生きることは、決して良いことばかりではない。未来を知っていながらそれを変えることのできぬ己の無力さに、織瀬は何度も打ちひしがれた。
(あの苦しみを、鷹比古殿は五度も……)
その心中を思うと、織瀬の胸は締め付けられる。しかし鷹比古は表情を変えることなく、ただ肩を竦めるのみだった。
「どうぞお気遣いなく。私は貴女様ほど繊細な心は持ち合わせておりませぬゆえ。……ですが龍守様に関してはあらゆる手を尽くしたにも関わらず、五度とも同じ結末を迎えた時はさすがに気が狂いそうになりましたがな」
鷹比古は手元の白蓮国記を閉じ、薄い刃を思わせる眼光を織瀬に向けた。
「このような不可思議な体験をしているのは、私だけかと思っておりました。ですがまさか今世の翠蓮皇女殿下も、前世の記憶をお持ちだったとは。……おかげで過去のどの生よりも、今世は骨が折れました」
「……」
鷹比古と視線を合わせた織瀬は、思わず息を呑んだ。これまで揺らぎひとつなかった鷹比古の眼差しに、初めて迸る感情の色が見える。
「今までの五度の生において、龍守様は常に私の理想とする王道を歩んでおられたのです。ですが決まってどこかで、道を踏み外される。……これまでの私は、そのきっかけが奈辺にあるのか理解しておりませんでしたが、今でははっきりと分かります」
抑揚に乏しかった声に、かすかな怒りと悔恨が滲む。
「過去の生においても、今世においても……龍守様を変えてしまったのは貴女です。翠蓮皇女殿下」
「私……?」
織瀬の瞳が、ゆっくりと見開かれる。しかし鷹比古は、そこに映る戸惑いを全く意に介さない。
「私からもひとつ貴女様に伺います、翠蓮皇女殿下。今現在、貴女様は命の危険に晒されており、龍守様の行動次第では橘花国の存続も危ぶまれましょう。しかし貴女様からは、僅かな恐れさえも感じられない。……それは一体なぜですか」
「……え?」
「白蓮国記を読んだ貴女様は、察していらっしゃるはず。この書物において、実現しなかった未来の記述は消失しているようですが、貴女様の死期を示す記述は残されたままです。──つまり現状、貴女様が死ぬ未来は変わらない」
「……」
鷹比古の問いかけは、織瀬にとって意外だった。織瀬の死は、橘花国の未来に何の影響も及ぼしはしないだろう。それは白蓮国記を読まずとも、容易に導き出される結論だった。
織瀬は皇女としての自身の忌憚なき思いを、鷹比古に語る。
「私の願いは、橘花国を救うことだからです。そしてそれは、必ずしも皇家の存続と同義ではない。まして私の生死など瑣末なことです。……たとえ皇家が滅び私自身の命が尽きることになろうとも、人々を導くだけの器量を備えた誰かにこの国を安んじていただけるなら、今世に何も思い残すことはありません」
翡翠色の瞳には、一片の偽りすらなかった。鷹比古は普段ならばほとんど緩むことのない唇に、微かな笑みを浮かべる。
「貴女様は、まさに皇族の鑑のようなかたですな。……返す返すも残念なことです。翠蓮皇女殿下が陶州の件で龍守様を説得なさった時、私は貴女様に期待したのです。貴女様も私と同じように、龍守様に君主の相を見たのかと。──しかし同じように龍守様に理想を見てはいても、私と貴女様では君主に求めるものがあまりにも違いすぎる。私と貴女様の理想は、決して相入れることはないでしょう」
鷹比古は懐に白蓮国記を戻すと、代わりにそこから見慣れた苦無を取り出した。
織瀬は反射的に身構えたものの、鷹比古は織瀬の背後に回り、その細い腕を戒めていた縄を断ち切る。
「鷹比古殿、なぜ……」
「貴女様をとりあえず生かしたのは、龍守様の世に貴女様が益をもたらす存在か否かを確かめるためです。今仰ったことが貴女様の本心ならば……」
「……本心ならば、どうされるのです?」
毅然とした織瀬の振る舞いに、鷹比古は眼を細める。
「貴女様の存在は、きっとこの国にとって有用であったでしょう。……しかしながら君主の心を惑わす傾城は、どれほど優れた資質の持ち主であっても有害にしかならぬのです。龍守様が皇女としての貴女様を利用することに徹してくだされば、私も貴女様を排除しようとは思わなかった」
「……それはどういう意味ですか、鷹比古殿」
鷹比古の眼が、ほんの一瞬見開かれる。常に優秀であった生徒が、最も平易な問いを理解できぬことが信じられない様子だった。
「──聡明な翠蓮皇女殿下でも、ご自身に関わる機微には疎いのですな。ここまで全く動じていらっしゃらない貴女様に、このような言いかたは適切とは言えませぬが、ご安心ください。龍守様が貴女様の救出よりも橘花国の安定を優先されるのであれば、少なくとも今すぐ貴女様の命を奪うことはいたしませぬ。私としても、せっかくここまで来て、また振り出しに戻されるなど御免被りたいですからな」
「振り出し……それは、またこの時を回帰するということですか」
「ええ。さすがに五度も同じことを繰り返せば、ある程度の法則性は見えてまいります。私は今までの生において、常に翠蓮皇女殿下と龍守様の死を見てまいりましたが……私の時が回帰したのは、決まって翠蓮皇女殿下、貴女様のご命日においてでした」
「私が、死んだ日に……」
鷹比古は鈍く光る苦無の切先を見つめる。
「貴女様が身罷られてから、一年後か、二年後か──前回は五年後でしたかな──ともかく貴女様が薨じられたその日に、私は過去に戻されてしまうのです。今世については、今までで一番どう転ぶか予想がつかない。果たして龍守様がいかなる道を選ばれるのか。……いずれにせよ、龍守様がこのまま玉座に登る選択をされるのであれば、私としては貴女様を殺す必要はなくなります」
「それで良いのですか。貴方の協力者である紅蘭は、私を殺したがっていましたが」
「紅蘭皇女の下らない嫉妬心のために、今まで積み上げてきたものを壊す気はございませぬ。……もし貴女様が死ねば、龍守様が帝位に就いたとしてもすべてが水泡に帰してしまう」
鷹比古は立ち上がり、身を翻した。
「……私個人として申し上げますと、私は貴女様のその気高さに深い敬意を抱いております。ですがもし、龍守様が国家よりも貴女様を優先するようであれば……その時は、貴女様には死んでいただくよりほかありませぬ」
鷹比古の胸の内は、例えその表情が見えたとしても織瀬に窺い知ることは出来なかったであろうが、
(鷹比古殿と私は、同じ結論に達していた。この国を導くのに最も相応しい存在は、龍守殿だと……。私がもっと早く、鷹比古殿の真意に気づいていれば……)
そうすれば、これほどの犠牲を払わずに済んだかもしれない。織瀬の脳裏にこれまでの戦で命を散らした兵たちや、先帝佐穂彦の姿が浮かぶ。
立ち去ろうとする鷹比古の背を見つめる織瀬は、戒めを解かれているにも関わらず、その場を動くことが出来なかった。
*
「──鷹比古様」
涼やかな女の声が、その名を呼んだ。
「日向か。首尾はどうだ」
「全て鷹比古様のご計画通りに進んでおります。龍守様は葛城公爵を討ち、自らが皇帝と為られる決意を固められた模様です」
「……そうか」
鷹比古は僅かだが肩の力が抜けるように感じた。このまま上手く事が運べば、翠蓮皇女を殺す必要はなくなるだろう。
「北楼国のほうはどうだ」
「そちらも全て鷹比古様のご指示通りに。──時に鷹比古様。この後、翠蓮皇女殿下を如何されるおつもりですか? 縄をお解きになったようですが」
「差し当たって翠蓮皇女殿下を死なせるわけにはいかぬが、龍守様のそばにも置いてはおけぬ。我が一族の──宗我家の落人たちが住む集落へお遷りいただく。翠蓮皇女殿下にも宗我の血が流れているゆえ、悪いようにはならぬだろう」
「かしこまりました。それまでの間、翠蓮皇女殿下は私がお守りいたします。……ですが万が一、龍守様がお心変わりされたらどうされますか」
「そうならぬことを願うばかりだが──その時は、私自ら翠蓮皇女殿下を殺すより他ないな」
諦念と希望がない交ぜになった笑みを浮かべる鷹比古を、日向の瞳が気遣わしげに見つめた。




