第五十章 執着
虫籠に捕らわれた蝶とはこのような気分なのだろう、と織瀬は思った。紅蘭の機嫌しだいでは、織瀬は四肢をもがれることも、頭を握りつぶされることも、甘んじて受け入れなければならないだろう。
(由比殿や飛燕殿の話から、紅蘭と豺牙将軍が繋がっていることは分かっていた。だけど紅蘭の目的は何? 私を殺すためにしては、やりかたが遠回りすぎる……)
織瀬は未だ紅蘭の真意を知らなかった。あの地下道で紅蘭が己の企みを語った時に傍にいたのは、珀亜と豺牙のみである。
「ふふっ……なんて惨めなのかしら、お姉様」
紅蘭は扇を閉じると、白い指先を織瀬へと伸ばした。
「……ッ……!」
前髪を掴まれ引き上げられた視界に、紅蘭の笑みが広がる。その時織瀬は、懐にあったはずの重みが消えていることに気がついた。そこにはあの不思議な書物──『白蓮国記』が収められていたはずである。
(眠っている間に奪われたのね。紅蘭はおそらく書物に気づいても捨て置くでしょう。だとしたら……)
織瀬はぐっと唇を噛んだ。織瀬の意識が別のものに向けられていることを知らぬ紅蘭は、その仕草が痛みを堪えるものだと受け取ったのか、満足そうに口角を上げる。
「お可哀想なお姉様。お姉様を助けてくれる人は誰もいなくてよ。……お姉様はね、これからあの犬のような男に犯されるの」
ころころと楽しげな声が、紅蘭の喉から湧き上がった。
「ねぇ、今どんな気分かしら、お姉様? あんな卑しい男に手籠めにされるなんて、私だったら堪えられないわ。いっそこの命を絶ってしまいたいくらい。那岐山侯爵のような美しいかたに抱かれるならともかく ──」
「紅蘭、貴女は……私を殺さなかったのね」
うっとりと龍守の名を口にした紅蘭は、微塵も動じたふうのない織瀬の声に遮られて、片頬を引き攣らせる。
「……眠っているうちに殺すなんて、そんな真似はしませんわ。お姉様」
紅蘭は乱暴に織瀬の髪から手を離し、今度は扇の端を織瀬の顎に当てがった。
「──だってそれでは、お姉様が苦しむ顔が見れませんもの。お姉様があの犬のような男に犯されて、絶望のなかで死んでいくところを私は見たいの」
愛らしい顔を歪め、紅蘭は笑う。
(……本当に、紅蘭は私を殺したいだけなのね。でももしそうだとしたら、不自然な点が多々あるわ。やはり紅蘭を背後で操っている誰かがいる)
逃れられぬ死の足音が近づいていることを知りつつも、織瀬の心は朝凪の湖面のように静かだ。前世で死が迫った時も全く恐怖を覚えなかったのだが、前世と今世ではその理由に大きな違いがあることを織瀬は感じていた。
(前世の私は全てを諦め、自ら死を望んだ。……だけど、今世は違う。私にはまだ希望がある。──もし私がここで死んだとしても、龍守殿はきっと約束を果たしてくれる。豺牙将軍がこちらに居るのなら、龍守殿が葛城公爵に負けるはずがない。……龍守殿は、必ず橘花国を救ってくれる)
織瀬は全てを受け入れるような穏やかな笑みを浮かべたのち、ふと思いついたように紅蘭に問いかけた。
「……紅蘭、最後に聞かせて。貴女はなぜそんなにも私が憎いの?」
紅蘭の細い眉が吊り上がる。
「なぜ? なぜですって? ……そういうところよ、お姉様」
手にした扇を地面に叩きつけ、紅蘭は声を震わせた。
「お姉様はいつだってそう。周りに何を言われても……私にこんなに憎まれていても、何も感じていない。本当に冷酷な女。──それなのに、ちょっと見てくれが良いからって、皆お姉様のことを欲しがるの。伯父様も佐穂彦も、あの犬も──」
鬼のような形相で、紅蘭は織瀬を睨みつける。
「──那岐山侯爵だって、本当なら私のものになるはずだったのに。この物語はそうなるはずだった。だって私のための物語なのだもの……。なのに、お姉様が横取りして……」
「……物語? 貴女は何を言っているの?」
怪訝そうに織瀬は眉を顰めたが、そこで不意に隼人と交わしたやりとりが脳裏をかすめた。
『──本当ならヒロインは第二皇女だったんだよなぁ』
『紅蘭がこの世界の主人公なのですか?』
『ああ。でも見た目はヒロインなんだけど、中身が別物っていうか……とにかくあんな性格に設定した覚えはねぇんだけど』
(紅蘭も知っている。この世界が物語だということを……。でも、一体誰からそんな話を聞いたの?)
死から黄泉がえった織瀬、別の世界から転生した隼人。──同じような存在が他に居て、その者が紅蘭を操っているとしたら。
(荒唐無稽な話だけれど、辻褄は合う。ならばあの人の目的は……)
織瀬のなかでひとつの答えが導きだされたその時、
「──紅蘭皇女殿下。恐れながら、些かお喋りが過ぎますな」
聞き覚えのある冷ややかな声が、織瀬の鼓膜を震わせた。
馬上で意識を失う直前に見た人影は、やはり見間違いではなかったのだ。織瀬はやりきれない思いを押し込めるように瞑目したのち、ゆっくりと声のしたほうを振り返る。
「……やはり貴方だったのですね。──鷹比古殿」
研ぎ澄まされた薄い刃のような眼差しが、織瀬の翡翠色の瞳と交差した。
*
「紅蘭皇女、これはどういうことだ! なぜ翠蓮皇女が縛られている!」
鷹比古に続いて現れた豺牙は、拘束されている織瀬に気づき声を荒らげた。
「翠蓮皇女と話がしたいというから二人だけにしてやったのに……一体何をしているのだ!」
激昂する豺牙に対し、紅蘭は一瞥もくれずに溜め息を吐いた。
「はあ……五月蝿いわね。でも、丁度良いところに来たわ。私はもうお姉様とは充分お話ししたから、あとは貴方の好きにして良くてよ」
「……何だと?」
「お姉様が欲しかったのでしょう? この通りお姉様は抵抗できない状態だし、この場で抱いてしまえば良いじゃない」
「この場で、だと……」
「貴方たち北楼国の者は、野外でもお構いなしにそうすると聞いたわよ。……さあ、早くやっておしまいなさい」
豺牙の昏い瞳の奥が、ぎらりと光る。その眼差しを受けて織瀬は背筋が凍るような心地がしたが、
(……ここで、怯えた様子を見せてはいけない)
そう己を奮い立たせた。
「翠蓮皇女……」
欲望でぎらついた眼が、織瀬に迫る。織瀬は身体の奥から湧き上がってくる震えを必死で押し込めながら、豺牙を見上げた。
「翠蓮皇女、俺はお前が欲しい。お前は俺のものになってくれるな?」
豺牙のその子どもじみた問いかけは、屈強な身体つきと獣のような眼差しにはあまりにもそぐわなかった。織瀬はこの豺牙という男に歪さを感じながらも、努めて凛とした声で応じる。
「……私は、貴方のものになどなりません。例えこの身が穢されようとも、私の心まで貴方に譲り渡す気はありません」
織瀬の返答を聞き、豺牙はその黒い眼を見開いた。
「……何故だ? お前は俺のことを好いているのではないのか?」
瞳と声を震わせながら、豺牙は問う。戦場で数多の兵を屠り、つい先程も紅蘭を怒鳴りつけた人物と同一とは思えぬほど、その姿は弱々しかった。
「……貴方は何を言っているのですか。何故私が貴方を好いているなどと思うのです」
「しかしお前は俺に──」
意図せずとも冷ややかにならざるをえない織瀬の声とは対照的に、豺牙のそれは何かを求めるように波打った。
一向に思い通りにならない状況に、紅蘭が地団駄を踏む。
「ちょっと貴方、ごちゃごちゃ言ってないでさっさとしなさいな!」
「……嫌だ」
「何ですって?」
「翠蓮皇女が俺を好いていないのならば、俺は翠蓮皇女を抱かない」
「な……何を子どものようなことを言ってるの! それはお姉様だって、貴方より那岐山侯爵のほうがいいでしょうけど、だからこそ貴方が──」
「……那岐山……龍守……」
紅蘭の口からこぼれたその名を、豺牙は低い声で繰り返した。
「──以前戦った時、あの男が言っていた。翠蓮皇女は那岐山龍守に惚れていると。……それは、本当なのか」
「……え?」
思いがけない問いかけに、織瀬は翡翠色の瞳を見張った。
(龍守殿、一体貴方は戦場で何を言っているの……!)
このような状況でなければ、頭を抱えるところである。
とにかく豺牙を刺激しない為には、『違う』と否定するべきだ。それは自明であるはずなのに、その一言は織瀬の喉元につかえたまま、どうしても発することはできなかった。
「翠蓮皇女、お前は……」
押し黙る織瀬を見つめ、豺牙は拳を震わせる。すると、ここまで静かに事態を睥睨していた鷹比古が、
「──茶番ですな」
ついにうんざりしたように嘆息した。
「貴殿らに任せていては話が一向に進みませぬ。──豺牙将軍、紅蘭皇女殿下を離れた場所にお連れしてください。このままでは、紅蘭皇女殿下は翠蓮皇女殿下に危害を加えかねませぬ」
「……分かった」
どこか上の空の様子ながらも、『翠蓮』の名を聞いた豺牙は素直に鷹比古の指示に従う。
「なっ……穢らわしい手で私に触れないで!」
豺牙に腕を掴まれた紅蘭は、蔑むような眼差しを鷹比古に突き刺す。
「ちょっと貴方! 協力してあげるとは言ったけど、分を弁えなさい! 叛逆者の一族の分際で──」
鷹比古に向かって 紅蘭は喚き立てる。しかしその声は、まるで罪人を引き立てるような豺牙の手によって、だんだんと遠ざかっていった。




