第四十九章 真意
口から溢れ出た夥しい量の血に溺れるようにして、葛城乙彦は息絶えていた。
その手には皇家の剣が握られたままだったが、ついにそれを抜くことが出来ぬまま、乙彦は死んだ。
「……」
龍守は静かに乙彦の身体から剣を抜き、刃を払った。飛び散った血も、傷口から噴き出すそれも、未だ鮮やかな紅い色をしている。
龍守は深く息を吐くと、返り血を浴びたまま遺骸の傍らに腰を下ろした。そしてまるで導かれるように、乙彦が握っている皇家の剣へと手を伸ばす。
(これが皇帝の証、か)
鞘に深い傷を負ってしまったが、剣の本質とは鞘ではなく刀身にある。
龍守は躊躇いもなく、その剣を抜き放った。
「美しいな……」
思わず唇から感嘆の吐息が漏れた。この刃はおそらく、今まで一度も血の穢れに触れたことがないのだろう。一点の曇りすらない真っ直ぐな煌めきは、龍守には眩しすぎた。
ふと龍守の脳裏に、翡翠色の輝きが過ぎる。それだけではない、長い冬を堪えた蕾がほころぶ様にも似た柔らかな微笑み。時に優しく、時に凛とした清流のせせらぎのごとき声。戯れに言葉をかければ、その花びらのような唇を尖らせて──。
(刃とは最も縁遠いところに居て欲しいのだが……なぜ、こんなにも織瀬姫の顔が浮かぶ……)
龍守は額を押さえて苦笑した。それはきっと、侵し難い清浄な輝きが、織瀬とこの剣の両者に共通しているからだろう。本来ならば、どちらも龍守が手にするべきではない存在だったのだ。
(だがもう俺は……逃れられないほど深く関わってしまった。ここまで来て、後に退くわけにはいくまい)
皇家の剣を手にしたまま、龍守は立ち上がる。そこでふと、複数の人物が廊下を駆ける音が聞こえて来た。
「──珀亜様っ! 駄目ですよ、まだ毒煙が充満してるんですからっ! ……ああもう、とにかく換気換気!」
「珀亜様、どうかお待ちください!」
制止の声が響くのとほぼ同時に、朝堂の扉が開け放たれた。
駆け込んで来たのは、龍袍を纏った少年だ。少年は事切れた葛城乙彦とその傍らに佇む龍守を認めて、大きな眼を見張る。見覚えのあるその表情に、無意識のうちに龍守の唇は緩んだ。
(……似ているな。織瀬姫に)
幼いながらも気品を感じさせる顔立ち。織瀬と違い、瞳の色は橘花国でよく見られる柔らかな茶色をしているが、その奥に見える輝きは織瀬のものと酷似していた。
「南陽皇子……いえ、皇帝陛下」
龍守は膝を付き、少年へ向かって恭しく頭を垂れた。少年は芯の強さを感じさせる眼差しを、龍守へと向ける。
「那岐山侯爵……。お前が、葛城乙彦を討ったのか」
「仰せの通りにございます」
白絹のように滑らかな龍守の返答を聞き、珀亜はぐっと拳を握りしめた。
「那岐山龍守、姉上を裏切っておいて……よくも平然としていられるものだな」
少年は怒りに声を震わせながら、織瀬と同じ輝きを持った眼差しに憎悪の色を滲ませた。そして懐から短刀を取り出すと、その切先を龍守へと向ける。
「ちょっ……何してるんですか、珀亜様!」
「珀……皇帝陛下、お止めください!」
慌てる侍女たちを視界の端に捉えながらも、龍守は冷静に珀亜と対峙する。
「──これはどういうことでしょう、皇帝陛下」
「黙れ。お前は紅蘭と結託し、橘花国を我が物とするつもりだろう!」
己の倍ほどの歳の男、しかも血染めの衣を纏い武器を手にした者を前にして、少年は臆することもない。
(大した胆力だな)
龍守は感嘆しつつも、あえて軽薄そうに肩を竦めてみせる。
「はて、私が紅蘭皇女と結託しているとは……全く身に覚えがありませんが」
「惚けるな! ならば答えろ、姉上をどうした! 姉上はどこにいる!」
「ちょっと落ち着いてくださいよ珀亜様!」
今にも龍守に掴み掛かろうとする少年の前に、菊理が慌てて身体を割り入れる。
「何を誤解しているか知りませんけど、姫様は戦に巻き込まれないよう安全なところへ避難させてるんです!」
「こちらの那岐山侯爵が、姫様をお守りするために──」
懸命に少年を宥めようとする侍女たちを、龍守はしばし見つめていたが、
「ふっ……ははは……ッ」
前髪を掻き上げ、突如呵呵と大笑した。
「ちょっと、あんた何笑ってんのよ……」
菊理がぎょっとして龍守を見やる。龍守は目尻に滲んだ涙を拭うような仕草をしたのち、
「いや、惜しかった。その侍女たちは上手く騙せたのだが……皇帝陛下の眼は欺けませんでしたか」
紅い瞳に不穏な光を宿らせて、少年に向かって一歩を踏み出す。
「……まさか、嘘でしょ?」
戸惑いに声を震わせながらも、菊理は懐に手を入れる。
「那岐山侯爵。それ以上陛下へ近づかないでください」
菊理と明瑠はそれぞれに武器を構えた。しかし龍守は侍女たちを一顧だにせず、少年に視線を向けたまま、せせら笑うように喉を震わせ続ける。
「幼いと思って侮っておりましたが……姉君に似て、聡明なかたのようですね」
龍守はにやりと唇を歪める。そして手にしていた皇家の剣を、少年の喉元に狙いを定めるように突きつけた。
「那岐山侯爵……お前、その剣は……」
「皇帝の証なのでしょう? 葛城乙彦はついに抜くことが出来ずに死にましたが」
龍守は紅い眼を細め、長い指の先で刃をなぞった。
「その位に相応しい者ならば、こうして抜くことが出来るのでしょうね」
「お前……」
珀亜が唇を噛んだその時、再び部屋の外で騒がしい足音が響く。
そして部屋そのものが吹き飛びそうな勢いで扉が開け放たれ、鳶色の瞳の男が息を切らせて駆け込んで来た。
「龍守! 今すぐ俺に百人くらいの兵を──って」
男は叫びかけた口をポカンと開けて、部屋のなかを見回す。
「……ああ? 何だよこの状況」
「どうした、隼人」
少年に剣先を突きつけたまま、龍守は視線を隼人へと向ける。隼人は喉元まで出かかった言葉たちを呑み込むと、最も重要な用件を伝えるべく口を開いた。
「それが……すまねぇ龍守。姫さんが攫われちまったんだ。あの豺牙って奴に──」
「なっ……姫様が!?」
「何してんのよこの馬鹿男!」
侍女たちの非難の声が響く。隼人はああもう、と唸りながら短髪を掻き回すと、
「だからこれから助けに行くんだよ!」
と半ば自棄のように叫んだ。
「そういう訳だから龍守、お前も一緒に来てくれ。悔しいが俺ひとりじゃ歯が立たねぇ。雑魚は兵が百人も居りゃ足りるだろ。豺牙は俺とお前二人がかりなら何とか──」
「それ程までに強いのか、豺牙は」
「……ああ」
龍守の冷静な問いかけに、隼人はぐっと拳を握りしめる。
「本当にすまねぇ。お前と約束したのに、俺は──」
「謝る必要はない。……全て、想定内だ」
「……何だって?」
鳶色の瞳が見開かれる。龍守は隼人から珀亜へと視線を戻し、
「豺牙と初めて戦った時から、奴の翠蓮皇女に対する執着心を利用できないかと考えていたのだ」
片方の指の先で薄い唇を叩きつつ、そう言った。
「……おい、ちょっと待てよ」
隼人の目つきが、一瞬のうちに剣呑なものへと変わる。
「龍守、お前今姫さんのこと翠蓮皇女って……。いや、それよりお前、まさか姫さんのこと囮に使ったのか……?」
「豺牙を相手にするのは面倒だからな。奴にかまけている間に葛城乙彦に逃げられでもしたら、それこそ本末転倒だ」
「な……だからってお前! 豺牙に捕まったら姫さんが何されるか……!」
「ああ。おそらく辱めを受けるだろうな」
「……っ、この、大馬鹿野郎!」
隼人は龍守の胸ぐらを掴み、そのまま床に引き倒した。
「ちょっとあんたたち、この状況で喧嘩始めないでよ!」
「珀亜様! 今のうちにこちらへ!」
菊理が呆れたように叫び、明瑠はすかさず珀亜を龍守から遠ざける。
「お前、葛城乙彦の首が獲れたら姫さんがどうなってもいいのかよ!」
「そうは言っていない。……しかし翠蓮皇女が俺に依頼したのは、葛城乙彦を排除し橘花国を救うことだ。その為には多少の犠牲は仕方がない」
「多少だと!? お前、姫さんと結婚するんじゃねぇのかよ! 自分の妻を見捨てるとか……お前にとって姫さんはその程度の存在なのかよ!」
「少なくとも翠蓮皇女は、自分の身一つで国が救えるならば喜んで受け入れるだろうな」
「……この野郎……ッ!」
眉ひとつ動かさぬ龍守に対し、隼人はついに拳を振り上げた。しかしその拳は、龍守の鼻先で停止する。
「……畜生……」
「どうした。殴りたければ殴れば良いだろう」
「……ッ、ざけんなよ……姫さんのおかげで、龍守の破滅ルートぶっ潰せたと思ったのに……結局これじゃ、何にも変わんねぇ……」
消え入りそうな呟きののち、隼人の拳は龍守の頬をかすめ、そのまま床に叩きつけられた。




