第四十八章 幻影
昏い昏い底なし沼のような闇のなかで、織瀬は瞼を開いた。身体は鉛のように重く、指の一本すら動かせない。だが不思議と恐怖は感じなかった。この暗闇を、織瀬はすでに知っているのだ。
(前世で紅蘭に毒を飲まされた時も、このような闇のなかに落とされたような感覚がしたわ。でもあの時はすぐに死んでしまったのか、それ以上の記憶はないけれど……)
あの毒──織瀬の口元をふさいだ布に仕込まれていたものは、匂いを嗅いだだけでは、せいぜい意識を失わせるほどの効果しかないということか。前世よりも深い闇に囚われながら、朦朧とした頭でそのようなことを考えていると、
(──あれは)
不意に目の前に一筋の光が見えた。重い枷をつけられているようだった身体も、いつの間にか自由に動かせる。
織瀬は迷うことなく光に向かって走った。このままこの光をたどって行けば、闇から抜け出すことができるかもしれない。──だが目に飛び込んで来たものは、期待していたものとは真逆の光景だった。
(これは……)
織瀬の両脇を、無数の蹄が駆け抜けていく。
兵士たちの耳をつんざくような咆哮と、鋼同士がぶつかり合う音。鼻をつく血の臭い。──織瀬は戦の真っ只中にいた。
思わず後ずさった足が、何かにぶつかる。振り返ったそこに横たわる人物を見て、織瀬は悲鳴を上げた。
「明瑠! 菊理!」
侍女たちが血溜まりのなかに沈んでいた。光を失った瞳が、じっと織瀬を見つめている。
「嘘……どうして貴女たちがここに……。龍守殿と一緒に桜華へ行ったのではなかったの……?」
全身ががたがたと震え出した。侍女たちの死に顔は、前世で眼にしたものと全く同じ──織瀬が二度と見たくはないと望んでいたものだった。
「菊理、明瑠……眼を開けて、お願い誰か、嘘だと言って……」
織瀬は崩れるように侍女たちの傍に座り込み、恐る恐る二人の手に触れた。
(これは夢よ。薬のせいで深い眠りに落ちているだけ。こんなことがまた起きて良いはずがない……)
そう織瀬は自分に言い聞かせたが、侍女たちの手の冷たさも、流れ出した血の臭いも、全てが信じ難いほどに現実的だった。
「やり直せると、思ったのに……。こんな私でも、誰かを……何かを救うことができると……」
これは夢だと理性は必死に訴えかけてくるのだが、感情は徐々に絶望に支配されていく。
「どうして……これでは私は、何のために……」
込み上げてくる悔しさを押し込めるように、織瀬はきつく唇を噛み締めた。そこで突如、背後から冷ややかな声が浴びせられる。
「──貴女は失敗したのですよ、織瀬姫」
「……っ!」
織瀬のことをそう呼ぶ人物は、ひとりしかいない。織瀬は胸元をぐっと握りしめながら、声のしたほうを振り返った。
「龍守殿……」
紅い瞳が、蔑むように織瀬を見下ろしていた。前世で対峙したときのそれとも違う、見る者の心まで凍てつかせるようなその眼差しに、織瀬は息を呑む。
龍守の手には、鮮やかな紅を滴らせた剣が握られていた。
「貴女ごときがいくら足掻いても、運命を変えることなど出来ないのですよ。明瑠と菊理は死に、この後隼人は俺のもとから去るでしょう。そして──」
龍守の唇が冷笑の形に歪み、紅い瞳が細められる。
「南陽皇子は俺に殺され、俺はこの国の皇帝となり──そして全てが、無に帰す」
いつの間にか、龍守の足元に少年の身体が転がっていた。こちらも血の海のなかで、虚ろに両の眼を見開いている。龍守の手にした刃を染めているのは、この少年──珀亜の血なのか。
「……違う」
全てを支配しようと手を伸ばす絶望を振り払い、織瀬は顔を上げた。
「運命を変えることなどできない? ──龍守殿が、そのようなことを言うはずがない。彼は自分の手で運命を切り拓く人だから」
織瀬は爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。痛みは感じない。確かにこれは夢だ。
「貴方は私の心の弱さが見せている幻覚なのですね。──早く目覚めなければ。橘花国の未来のために、まだ私にはやるべきことがある」
微笑みながらもそう言い切ると、龍守の幻影が僅かに眼を見張った。血染めの剣を取り落とした手が、ゆっくりと織瀬へと伸ばされる。
そしてその指先が織瀬の唇に触れそうになった瞬間、まるで蜃気楼のように、織瀬の周囲のもの全てが消え去った。
*
「……」
固く張り付いた瞼を、織瀬は無理矢理にこじ開けた。草と土の匂いがする。耳に届くのは戦場の喧騒ではなく、風に揺れる木々のささめきだ。
(良かった、やはり夢だった……)
織瀬はほっと息を吐く。そして起きあがろうとしたところで、両手が動かせないことに気がついた。どうやら後ろ手に縛られた状態で、地面に転がされているらしい。
(あの後私は拘束されたのね。でも、ここは一体どこ? 周囲の様子を見る限り、まだ橘花国からは出ていないようだけれど……)
織瀬は腕の力で何とか身体を起こし、空を見上げる。
(あの太陽の位置……意識を失っていたのは半刻ほどのようね。あの毒にはきっと幻覚作用があったのだわ)
まだぼんやりとする頭で、織瀬は考えを巡らせる。
(前世で私が桜華に向かう時、あの馬車のなかでもこの毒が焚かれていたのだとしたら……。私が龍守殿を簒奪者だと思い込まされたのも、この毒の作用によるもの……?)
織瀬は唇を噛んだ。前世と同じ手にかかるなど、なんという間抜けか。
(……いいえ、でも大丈夫。前世と違って、龍守殿のもとにはまだ隼人殿がいる。隼人殿が居てくれれば、龍守殿はきっと前世のようにはならない──)
そう己に言い聞かせながら、これから取るべき行動を考えようとしたところで、
「──あら、眼が覚めたのね。おはよう、お姉様」
目の前で、極彩色の羽のような袖が揺れる。鈴が転がるような愛らしい声音に、織瀬ははっと顔を上げた。
「……紅蘭。貴女だったのね……」
予想はしていたが、やはりそうだったか。織瀬は溜め息を吐きたい気持ちを堪えながら、扇の影で含み笑いをする異母妹を見上げた。




