第四十七章 仕組まれた結末
朝堂を目指す龍守は、不意に漂ってきた蕩けるような臭気に足を止めた。余りに暴力的なその香りに、眩暈すら覚える。
咲き誇る花から立ちのぼる馥郁たる香りであれば龍守も好むところだが、この全身にまとわりつくような甘ったるい臭いは不快でしかなかった。
龍守は出来るだけ呼吸の頻度を減らしつつ、回廊の様子を窺う。皇女の侍女たちと別れてからここまで、幾人かの兵士の眼を躱しながら来たのだが、
(わざわざ身を隠す必要もなかった。兵士たちのあの虚ろな眼……何か薬でも嗅がされたか)
そうであるならば、原因はこの臭いだと考えるが妥当だ。龍守は袖口で鼻を覆いつつ、先を急いだ。そこでふと、背後に違和感を感じる。
(……やはり、俺のほうを尾けているな)
一瞬だけ過ぎった鋭い気配に、龍守は心中で嘆息した。
実のところ龍守は、地下道から上がったその時にも、背中にかすかな視線を感じていた。だが優れた忍である皇女の侍女たちが何も気づいていない様子だったため、その時は柳に幽霊を見ただけかと己の臆病さを笑ったのだが。
(相手はおそらく一人。……念の為、菊理や明瑠と別行動をとって正解だった。しかし一向に襲ってくる様子がないところを見ると……それはそれで、嫌な予感が当たりそうで腹が立つ)
龍守はひとつ舌打ちすると、行手を阻む兵士たちの壁に体当たりを食らわせる。
呆気なく崩れ落ちる人形のような兵たちは、葛城乙彦を守るという意思を保っているようには見えなかった。──いや、そもそも己の役割を覚えているかどうかさえ、疑わしい。
労せずして朝堂へと辿り着いた龍守は、古ぼけたその扉を、ゆっくりと開け放った。
「──ああ、やはり貴様が来たか。待ちかねたぞ、那岐山龍守」
壇上で振り返った人影は、まるで雲の上を歩くがごとく、僅かに足元をふらつかせた。
その人物──葛城乙彦は、龍守を見やったのち満足そうに喉を震わせる。
「外ではなかなかに賑やかな音がしているな。帝都を焼き払った俺が言うのも何だが、これではもう桜華も使い物にならんのではないか」
「……」
龍守は静かに抜刀した。
葛城乙彦の周囲には、護衛のひとりすらいない。事前の策が功を奏したのか、唯一の障壁であった豺牙の姿もなかった。
(見たところ葛城乙彦の携えている武器は腰の一振りのみ。普通に戦えばおそらく俺が勝つだろうが……)
あまりにも膳立てがされ過ぎていた。
全てが龍守のために整えられたこの舞台で、無理矢理に主役を演じさせられている──そのような感覚がして、龍守は唇を噛んだ。
(……この三文芝居の目的はこの際どうでも良い。問題は、芝居の書き手がどの程度の人間を巻き込んでいるかだ)
おぼつかない足取りで壇上から降りた乙彦は、しかし武器に手をかける様子はない。
(織瀬姫は、当然脇役というわけにはいくまい。隼人が付いていれば心配ないと思っていたが……)
ここに来て龍守は、織瀬を傍から離した自身の判断を後悔しつつあった。
「──帝都で俺を殴った時とは違い、随分と慎重ではないか」
乙彦が小馬鹿にするように鼻を鳴らす。その声で思索を中断された龍守の瞳は、しかし乙彦ではなく、その背後に置かれたものへと吸い寄せられた。
精巧な装飾が施された台の上に、一振りの剣が置かれている。鞘にはいくつかの宝玉が飾られているようだが、それを支える台の絢爛さと比べると、剣そのものは幾分地味な印象を受けた。
しかし不思議と龍守は、その剣から眼を離すことが出来ない。
「この剣が気になるか?」
紅い瞳が自分を通り越して何を見ているのかに気づき、乙彦は唇を歪ませた。
「さすがは那岐山侯爵、見る目はあるのだな。──これはな、橘花国の皇帝に代々伝わる宝剣よ。歴代の皇帝はこれを掲げて天下に即位を宣言した。……もっとも、南陽はこれを手にすることを拒否したがな」
乙彦の喉から、くぐもった笑い声が漏れる。
「いらぬなら俺が貰っておこうと思ってな。そういうわけでそこに飾っているのだ」
何が可笑しいのか、乙彦は堪えきれなくなったように哄笑した。
その引き攣れた声とうつろな瞳の異様さに、龍守はぐっと唇を引き結ぶ。
(……相も変わらず、嫌な眼だ)
葛城乙彦の暗殺を試みたあの日、黒曜石のような鋭さを持ったこの男の眼が、まるで熱に浮かされたように澱むその瞬間を龍守は見ている。その時の龍守は、眼の前の何者すら映すことのない、ただ虚空のみを求めるその瞳に薄ら寒さを感じたのだが。
(だが、今の眼はあの時とは違う。もっと得体の知れない、全てを嘲笑っているような……)
そんな龍守の思考を読んだかのように、乙彦の嗤い声が高くなった。空虚で高らかな嗤い声が、朝堂にこだまする。龍守は無意識のうちに、剣の柄を握りしめた。
ひとしきり声を響かせた後、乙彦は再び龍守に目を向ける。
「何を躊躇っているのだ那岐山龍守。俺の首を獲りに来たのだろう?」
「……無論、そのつもりだ。だが、斬る前にひとつだけ訊ねる。お前は一体何がしたかったのだ? 豺牙を使って息子と妹を──先帝陛下と皇太后陛下を殺し、帝都を焼き払い……お前の望み通り、橘花国は崩壊しつつある。しかしまだ南陽皇子と翠蓮皇女は健在だ。橘花国の滅亡を最後まで見ずして俺に首を差し出すとは……俺にはお前の考えが解らない」
「ははっ、成程。貴様が俺ならば、徹底的にこの国を叩き潰すまでは死なぬと言いたいのか。……そうだな、俺もそう思っていたが……もはや全て、どうでも良い」
「何だと?」
「豺牙に佐穂彦と螺鈿を殺させたのは──あれは俺の指示ではない。紅蘭の仕業だ。あの娘が全て企てた。──紅蘭は橘花国の皇族と有力者を全て排除し、貴様を玉座に着けるつもりなのよ、那岐山龍守」
「……馬鹿なことを」
「そう、馬鹿な話だ。この俺を差し置いて、貴様を皇帝にしようなどと。──しかしあの娘は本気だぞ。本気で貴様を皇帝にし、自らは皇后の座に収まろうとしている。全ては貴様への恋心ゆえ──。全く健気な乙女心ではないか。あの小賢しい娘を手懐けるとは、さすがは那岐山侯爵と言ったところか」
「……」
龍守の足が床を蹴った。そのまま、剣の切先を乙彦へと突き出す。キン、と刃がぶつかり合う鋭い音が響きわたる。
「──どうした、前回のほうが速かったぞ。この状態の俺を仕留められぬようでは、貴様も大したことはないな」
ようやく抜刀した乙彦に、一撃目はあっさりと阻まれた。しかし刀身から伝わってくる感覚は、とても武で身を立てた者とは思えぬほど頼りないものだった。
「お前の身体を蝕んでいるその毒……それも紅蘭皇女の仕業か」
刃を合わせながら問う龍守に、乙彦はくくっと喉を震わせる。
「……ああ。初めは俺の衣に忍ばせていたようだがな。あれも堪え性がないのか、今では大っぴらに焚き始めた。宮城に漂うこの香りのおかげで、兵たちも自我を失い幻覚を見る者までいる始末。──貴様も発狂したくなければ、早くここを去ることだ」
龍守の刃を弾き返した乙彦は、そのまま薙ぐように剣を振るった。
「そうだ、那岐山龍守。貴様、翠蓮皇女を手元から離したようだな?」
「……ッ……」
この一撃は重かった。毒の影響を受けているとはいえ、生来の体格差を武器に攻められると分が悪い。歯を食いしばりながら、龍守は乙彦の攻撃を押し返す。
「俺の傍に豺牙がおらぬことで焦っているのか? ……そうだ。今頃翠蓮皇女は、豺牙の手中に落ちているだろうよ」
眼を爛々と輝かせながら、乙彦は龍守に怒涛の攻撃を仕掛ける。龍守と数度刃を合わせたことで、武人としての本分が呼び覚まされたかのようだ。
その攻撃を全て受け止めながら、龍守は策を張ったつもりが、まんまと敵の術中に絡め取られた己を罵倒した。
(くそっ……俺の意図を読んだ上で、全て仕組まれていたとしたら……。今頃織瀬姫は……!)
苛立ちを全てぶつけるように、龍守は剣を一閃させた。稲妻のように速いその一振りは乙彦の手から剣を弾き飛ばし、主を失った刃は壁面に深々と突き刺さった。
「おっと、武器がなくなってしまった。それではこれを使うとするか」
乙彦は愉快そうに眉を上げると、壇上にあった皇家の剣を無造作に手に取った。そして再び龍守を見やり、ふっと唇を歪める。
「その眼……ああそうか。貴様、翠蓮皇女を餌にして豺牙を俺から遠ざけたのだな?」
「……」
龍守は無言のまま乙彦に斬りかかる。叢雲に覆われつつある月のような龍守の顔を覗き込んで、乙彦は嗤った。
「ははっ……そうかそうか。情に絆されやすい男かと思っていたが、なかなか冷酷な手を使う。皇族を囮にするとは……やはり貴様もこちら側の人間だったか」
乙彦は納刀したままの剣で龍守の攻撃を受け止めた。装飾が施された鞘に、刃が食い込む。
「その作戦は成功し、貴様は俺の首を得ることができるだろう。──だが今頃翠蓮皇女は、豺牙に貞操を汚されて泣き叫んでいるであろうな」
柄を握りしめる龍守の手が震える。
「出来れば眼の前で、あの美しい顔が恐怖に染まる様を見たかったが……まあ良い。くくっ……絶望の余り自害でもすれば、それもまた一興──」
「黙れ」
龍守は乙彦を蹴り飛ばした。倒れ込んだその身体を組み伏せ、素早く剣を逆手に持ち替える。そしてその刃を、乙彦の心臓目がけて深々と突き刺した。




